2015年07月20日

『負け犬の遠吠え』にみる 単にダメなひと

姉夫婦があたらしく家をたてたので、
先月、母につきそって東京へでかけた。
そういえば、わたしのいとこも
みんなそだった家をでて、あたらしい家をかまえている。
ふつうに生きていたら、自分の家族をもち、
家をたてたり かったりする歳になっているのだ。

酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』をよんでいて、
オスの負け犬にたいする酒井さんの分類が、
じつに容赦なかったのでおどろいたことがある。
はじめから結婚の対象として目にはいっていない。
そもそも「オスの負け犬」はコラムあつかいで、
はっきりした章だてをあたえられていない。
そういえばそんな犬もいた、という程度の
ほとんど対象外の存在だ。

酒井さんによると、オスの負け犬は、以下の5タイプにわけられる。
・あまり生身の女性には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、責任を負うのは嫌な人
・女性に興味はあるけれど、負け犬には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、全くモテない人
・女性に興味はあるけれど、単にダメなひと

オスの負け犬にあうと、酒井さんは
そのひとがどのタイプなのかと観察する。
30代後半になって負け犬である男性は、
5つのタイプのいずれかであるにきまっているから。
どのタイプもそれぞれにひどい。
のこっている男がこのようにダメであれば、
女性が結婚をいそがないのも しかたのないことにおもえる。
わたしはさいわい(たぶん)結婚したけれど、
上の分類はずいぶん心臓にわるい。
「女性に興味はあるけれど、単にダメなひと」なんていわれると、
まるでそのまま自分のことのようだ。
家をたてなかったからといって、
「ダメ」ときめつけられはしないけど、
なんども仕事をやめ、はたらいていてもまえむきな発想はせず、
いつも老後の隠居生活をかんがえているわたしは、
どちらかときかれたら「単にダメなひと」であり、
抗議する気にはならない。
客観的にみればどうしても「単にダメ」なひとにわけられるのだなーと、
納得せざるをえない。

なにかの機会にこうして『負け犬の遠吠え』を手にとると、
あまりにも適切な表現で負け犬と、負け犬をとりまく社会があらわしてあり、
どこをよんでも いまさらながらにおもしろい。
ついあちこちのページをめくることになり、
いたるところにちりばめられた珠玉のことばによいしれる。
今回のあたらしい発見は、「負け犬と孤独」について。
私達は既にわかっているのです。(中島みゆきとユーミンとでは)どちらが本当に孤独であるかはわからない、ということを。そして孤独感と幸福感は、必ずしも相関関係を持ってはいない、ということを。も一つ言うのであれば、幸福であることが良いことかどうかすらも、今となってはよくわからない、ということを。

このおそろしいまでの達観を、これまでわたしはみおとしていた。
この本は、21世紀の名著として、のちの世までかたりつづけられるだろう。
12年もまえに、負け犬といういきものを発見し、
その将来を予測したするどい指摘にたいし、
評価がひくすぎるとわたしはおもう。
出版されてからの時間がすぎてゆくとともに、
ますます酒井さんの先見性におどろかされている。

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2014年10月13日

『日本観光ガイド』(酒井順子)外国人むけ、とおもわせてじつは日本人を対象にしたクールジャパン解説

『日本観光ガイド』(酒井順子・光文社)

日本をおとずれた外国人にむけてかかれた観光ガイド、
とおもわせておいて、
じつは日本人もほんとうはよくわかっていない 日本の文化と風俗を
日本人に説明するのを目的としている。
とはいいながら、本来の目的どおり、外国人がもしよめば、
絶好の日本入門書ともなるという、非常にいりくんだ構造をとっている。
もちろん、無理やりややこしいことをいわなくても、
外国人がよんでも、日本人がよんでも、
新鮮な情報を わかりやすく説明してくれる たのしい本なのだけど、
日本語でかかれているし、「小説宝石」の連載がまとめられたものなので、
外国人の旅行者が目にする機会は あまりおおくなかったかもしれない。
よんでいるうちに、外国人観光客になって日本を旅行している気分になる、
たいへんおとくな本にしあがっている。

酒井さんは大学で観光学をまなんでおり、
あまりにもおそすぎた専門分野でのデビューといえるかもしれない。
その後、作家としてのゆたかな経験をつみ、
するどい観察眼と 適度なかるさを身につけた酒井さんにとって、
本書の企画は 上品にあそべる絶好の舞台となったようだ。

・成田空港
・お辞儀
・秋葉原
・スシ

など、25の項目について、
外国人(そして日本人も)が日本をたずねるときに、
しっていたらたのしい情報がたくみに解説されている。
外国人むけにかかれた ちょっとへんな日本語(もちろんわざと)がおかしい。

「私達はいったん工夫とか改良とかを始めてしまったら、
行き着く所まで行かないと、納得できない性質。
便器も肛門も内蔵も、全てクリーンに除菌した未来の私達の姿を、
いつかまた、見にきてくださいね」(トイレ)

「多くの日本人女性は、お洒落や化粧、そしてダイエットが大好きなので、
とてつもないデブとかブスといった
規格から大きく外れた外見をしている人が少ないことに、
まず気付くのではないでしょうか」(美人)

「よさこいソーランはつまり、日本の世の中が
グッドセンス化してしまったが故にくすぶっていたバッドセンスを、
一気に放出させる役割を果たしたのでした。
日本にはまだまだヤンキーセンスを隠し持つ人が大量に棲息していたからこそ、
新しいお祭りであるにもかかわらず、
よさこいソーランはここまで急激に広まったのです」(ヤンキー)

「日本古来の城かと思ったら、個人宅。
西洋の城かと思ったら、ラブホ。
教会があったと思ったら、結婚式場。・・・となったら、
ああ、日本人の考えってわからない!と、
あなたの頭の中は混乱してくるかもしれません。
そんな混乱した頭で歩いていたら、おお、目の前にあるのは、
いかにも伝統ある寺院という感じの建物。
「これでこそ日本!こんな時はお寺を見学して、
気持ちを落ち着けなくては」と思ったあなたは、
建物の中に入っていきます。
すると、何だか様子がおかしいのです。(中略)
そう、あなたが寺院かと思って入った建物は、銭湯です」(城)

「だから日本の女性達は、
『私は心身ともに成熟していませんよ』
ということを異性にアピールするため、
カン高い声で舌足らずに話したり、
口をとがらせて首をかしげてみたり、
内股に立ったりと、つまりは幼女の真似をするのです」(カワイイ)

「こうしてみると、やはりテレビというのは日本社会の縮図なのです。
キャメロン・ディアスがCM画面の中をいくら闊歩していようと、
女子アナの扱い方と彼女達の意識を見れば、
やはり日本の人々が心の中では今もちょんまげを切っていないことが、
よくわかることでしょう」(テレビ)

北海道の紹介では、財政が破綻した夕張をとりあげ、『夕張夫妻』という
いかにもまずしそうな夫婦がキャラクター化されているという。
「つまり夕張は今、『あれも駄目、これも駄目。であるならば・・・』と、
自虐の道を歩こうとしているのです」とあり、
きのうのブログにわたしがかいた、
島根の自虐ネタが最初という主張があやしくなってくる。

この本によると、日本は2003年より
「ビジット・ジャパン・キャンペーン」を展開しており、
2010年までに1000万人の外国人を誘致する目標をかかげていたそうだ。
2002年には520万人だった外国からの観光客が、
2008年に835万人とおおきくのびているので、
うまくいくかとおもわれたこのキャンペーンは、
リーマン・ブラザーズなどの世界的な不況によって
ブレーキがかかることになる。
しかし、日本の魅力は、景気とか円高に左右されるのではなく、
もっとうちにひめた恥部にこそあるのでは、
というのが酒井さんの指摘である。

「日本における国際化は、諸外国の皆さんが驚くほど進んでいないと思った方がいいでしょう。
しかし日本における最もおおきな観光資源は、実はその部分なのではないかと、筆者は考えます。(中略)
少し前の日本人は、『ガイジンさんから見られても恥ずかしくないように』と、
何事も頑張ってきました。(中略)
しかし今、私達は『ガイジンさんには、恥ずかしいところを見ていただいた方がいいのではないか』
という気持ちになりつつあります」

ここに気づいた酒井さんはさすがにするどい。
自分の短所は、ほかのひとからみれば長所にうつるように、
これまで「恥ずかしい」とおもっていた日本の後進性が、
いまの時代ではクールジャパンにばけた。

「観光立国を進める日本においてこれから必要となってくるのは、
開かれている部分と閉ざされている部分の、
強いコントラストなのだと思います。
交通機関や宿泊施設などは世界の誰もが使用しやすいように整備しつつも、
最も日本らしいねっとりとした部分は、
無理に風通しを良くして国際化など図らずに、そっと残しておく。
日本観光の未来は、そのコントラストの妙にかかってくるのではないかと思うのです」

日本の将来にむけた、すばらしいまとめといえるだろう。

文章をかくときに、「だれにむけてかくのか」「対象はだれなのか」を
はっきりさせるようにと、よくいわれるけれど、
それらの鉄則を酒井さんはじょうずにスルーするのに成功した。
だれかにむけてかかれたおもしろい文章は、
だれがよんでもおもしろいのだ。
外国人むけにかかれたかたちをとる本書の文体によって、
酒井さんの魅力が絶妙にいかされている。
外国人にもわかるやさしいことばをえらびながら、
そのリズムは独特であり、自由自在にあそびまわる。
上品でありながらビミョーにちからのぬけた文章に感心し、
何枚のフセンをはったことか。
また酒井さんの文体は、お金をかけてあそんできた
ゆたかな体験があってこそいきてくる。
ファッションや芸能界、歌舞伎からメイドカフェまで、
なんでもしっている酒井さんは、
外国人に日本を紹介するときだけでなく、
日本人に日本のクールさをつたえるときにおいても、最高のガイドだ。

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2014年08月18日

『昔は、よかった?』(酒井順子)日本におけるおとなの消滅

『昔は、よかった?』(酒井順子・講談社文庫)

「週刊現代」に連載された記事が本にまとめられ、それを文庫化したもの。
シモネタがおおいような気がするのは、
「週刊現代」という発表媒体のせいだろうか。
率直にいって、斬新な記事はあまりなく、
ただ、それぞれのはなしのおわりにかかれた「追記」が
ときのうつりかわりをおしえてくれて、
文庫化ならではのおもしろさが生まれている。
雑誌にかかれたのは3〜4年まえのことだから、
文庫化されるにあたり、4年後だからかける「その後」が
追加の情報として かんたんにふれてあるのだ。
4年間は、ひとことにまとめられるほど アッという間でもあるし、
そのあいだにおきた変化を感慨ぶかくおもうだけの
まとまりをもった期間でもある。

3〜4年たつと、いろんなことがすっかりかわってしまい、
「あれだけさわがれていたひとがいまは・・・」とか、
「そういえば、そんなこともあった」みたいに、
ほんの4年とはおもえないほど むかしのできごととなっている。
ついでにいえば、サッカーでも4年たつと、
しっかり過去のこととなっていて おどろかされることがおおい。
4年まえのWカップ南アフリカ大会にえらばれたのに、
今回のブラジル大会の選考には、まったく名前があがらなかった選手がたくさんいる。
4年間のあいだに、なにかが決定的にかわったのだ。
4年間、ずっと代表にえらばれつづけた選手は10名にすぎず、
4年という年月が、いろんなことがおこりえる、意外とながい期間なのがわかる。
「10年ひとむかし」はあたりまえで、世の中のうごきがはげしい現代では、
「4年ひとむかし」くらいが感覚的にピッタリくるのではないだろうか
(Wカップにピンとこないひとは、おなじく4年まえの
バンクーバーオリンピックをおもいだしてみられたい)。

とはいうものの、タイトルにある『昔は、よかった?』は、
なにも4年前とくらべてのはなしではない。
かかれている内容が、なんとなくむかしとの比較によって
なりたっているものがおおいので、つけられたタイトルではないか。
あんまりかたぐるしくかんがえずに かるくながしてね、が
本書の基本的なたち位置である。

いちばんおもしろかったのは、箱根駅伝のコマーシャルでながれた
「大人のエレベーター」についてのはなしだ。
妻夫木さんが、「大人のエレベーター」にのって
おとなの男たちをたずねる。
わたしはみていないけれど、リリー・フランキーさんがそこで

「大人は子供の想像の産物だ。
子供の頃は、大人ってもっとちゃんとしていると思っていた」

といったそうだ。
わたしは、自分が成熟しきれていない「あまちゃん」なのを
コンプレックスにおもっており、
いっぽうで、ほかのひとたちは わたしとちがい ちゃんとしたおとなにみえていた。
それなのに、リリー・フランキーさんみたいなひとが、
「大人ってもっとちゃんとしていると思っていた」なんていってくれるとは。
うれしいというか、やっぱりそうなの?というか、微妙なところだ。

子どもという概念は、産業革命がおわったころのイギリスで発見された(いいかげん)。
それまでは、赤ちゃんとおとなしか世間にみとめられておらず、
その中間というものがなかった。
子どもは、いわばおとなのちいさい版として、
それなりの労働力としてあつかわれていたのだ。
おなじように、というか、ぜんぜんちがうはなしだけど、
21世紀の日本において、突然おとなは消滅した、
というのも おもしろい(おもしろくない?)発見かもしれない。
いまの日本には 成熟したおとななんて、存在しないのだ。

酒井さんは、
「我が国では今、老若男女を問わず、皆が
『誰かについていきたい』と思っているのだけれど
その『誰か』がみつからず、右往左往している状態なのではないか」
とかんじている。
なぜそうなのかについての分析はない。
この本は、いわば世相の書だ。
いまの世の中では、こんなことがおきていると
酒井さんはおしえてくれる。
酒井さんのやく目はそこまでで、
なぜそうなったのかは、自分でかんがえなさいね、という
ある意味でひじょうに教育的な本かもしれない。
4年たつといろいろかわるけど、
けっきょくたいした変化じゃないから大丈夫、みたいな気になれるのも
酒井さんの本ならではの効用だ。

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2014年06月23日

『本が多すぎる』(酒井順子)酒井さんのまじめさが いいかんじの書評集

『本が多すぎる』(酒井順子・文春文庫)

週刊文春に連載された記事をまとめたもの。
「本が多すぎる」とはネガティブな表現だけど、
酒井さんはもちろん本をよむたのしさをよく理解しているひとで、

「本はまた、別の本を連れてきてくれます。
ある本を読んでいたら別の本についてのことが書いてあって、
それを読んだらまた別の本が読みたくなって・・・と、
芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさよ。
そんな『読みたい本』が枕頭にそして机上にある時は、
『約束された幸福な未来』が、本の形をとって
そこに存在しているようではありませんか。(中略)
本書は、そんな私の『本がつながる喜び』を綴ったものです」(「まえがき」)

は、本ずきならではのおもいであり、「多すぎる」は謙遜にすぎない。
酒井さんのすぐれた観察眼は、こうしたはばひろいジャンルの、
ゆたかな読書によってやしなわれていることがよくわかる。

各回は「トイレで読書、女子マネ、鷺沢萠」というふうに、
2〜3つの「お題」があげられており、それぞれのお題について
本をとりあげながら はなしがふくらんでいく。
はなしのはいり方が独特で、本とは関係ない話題をきりくちにしながら、
なんとなく本題にはいっている。
それぞれの「お題」について数冊の本をとりあげているから、
全体ではそうとうな数だ。索引には300冊ほどの本がならんでいる。
『本が多すぎる』とは、自分がよんできた膨大な数の本のことではないか。

とりあげられた本は、「女」を話題にしたものがおおい。
「女」への視線は酒井さんならではふかさとやさしさがある。
たとえば『さいごの色街 飛田』では、
色街について、批判的なみかたをかんたんにもちこんだりしない。

「平安時代の女性達も、そして飛田の女性達も、
小さな部屋でひたすら男性を待っているところは同じ」

といい、どんなシステムで、どんな女性がはたらいているかなど、
酒井さんは偏見をまじえない好奇心をむける。
「女」や「性」をかたるときの距離感がすばらしく、
これがあまりにも正義の味方からの視点ではおもしろくないし、
スケベごころまるだで対象にせまられてはしらけてしまう。
酒井さんはそだちのよさがうまくはたらき、
どんな場合でも上品さと誠実さがつたわってくる。

酒井さんの誠実さは、震災直後にかかれた記事のかきだしにあらわれている。

「かくも深い悲しみが日本人の心に張りついていても、
芽吹く葉があり、咲く花があることは、私達の心をうるおしてくれる」

たった2行のこの文章。しかし、それ以外に、あの時点でなにがかたれるだろう。
まったくふれないのはどうかしている。
でも、こころが動揺しているときに、
わかったようなことをヒステリックにかくべきではない。
酒井さんはこの2行のあとに、いつものような記事をつづけている。
わたしは酒井さんのかるさとともに、
このまじめさがとてもすきだ。

おかしかったのは、女性誌のインタビューをうけ、
その雑誌の購読者にむけて「何かメッセージを」といわれたときに
「女性誌を、読まないようにすれば
いいのではないですかね?」
とこたえるところ。
うけをねらっての「メッセージ」ではなく、
酒井さんならではのまじめな提案だ。
諸悪の根源が、じつは主体となって女性たちをあおっているメディアであり、
それは、いわれてみればもっともなのに、なかなか気づかない。
いっしょに頭をかかえてなやんでしまいがちなところに、
酒井さんはスッと目をむける。

「日本の、ある年齢以下の女性が抱える悩みのほとんどは、
女性誌が原因になっているような気がしてならない」

「女性誌が若い女性に対して最も強く与えているプレッシャーが、『モテ』だろう。(中略)
いわゆる赤文字系雑誌に黄溢する『モテねばならぬ』という意思には、
鬼気迫る感すら漂うもの」

わたしがしらない本もたくさん紹介されている。
小説よりも、それ以外のジャンルのものがおおい。
文庫本はほとんどないので、手にするには図書館へかようことになりそうだ。
「まえがき」にあったように
「芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさ」となることをねがっている。

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2014年05月01日

『紫式部の欲望』(酒井順子)「えー!、『源氏物語』って、こんなはなしだったの!」

『紫式部の欲望』(酒井順子・集英社文庫)

『源氏物語』にしても『枕草子』にしても、
わたしはこれまで、おおむかしにかかれた日本の古典への苦手意識がきえず、
教科書からさきの世界をのぞこうとしなかった。
宮廷の、かたぐるしいことがかいてあるのだろうときめつけ、
具体的にはどんなはなしなのかまったくしらなかった。

「えー!、『源氏物語』って、こんなはなしだったの!」

というのが本書をよんでみての感想だ。
これまでとおざけてきた古典が、欲望についての本だったとは。

酒井さんは『源氏物語』をよむうちに
「この作品の中には、紫式部の『こんなことをされてみたい』
『あんなことをしてみたい』という生々しい欲望が、
あちこちにちりばめられているような気がしてくるのでした。
そしてその欲望は、今を生きる私達の中にも、確実に存在するもの」
ということに気づく。

『源氏物語』というものがたりは、
おそらくいろんな視点からよむことができるのだろう。
宮廷を中心とした当時のくらしぶりであったり、
その時代を、ひとびとがどう生きていたか、だったり。
この本は、その意味で、紫式部が「たぎらせていた欲望」に視点をあてたものだ。
光源氏というキャラクターをうごかしながら、
この時代における欲望をつまびらかにする。
恋愛にまつわる欲望は、『源氏物語』がもつたくさんの魅力のひとつ、
などというかるい存在ではなく、
それこそが『源氏物語』のメインストリートであることに酒井さんはおしえてくれる。

章だてをみると、これがまさか『源氏物語』についてかかれた本だとはおもえない、
きわめて現代的な内容となっている。
こういうきりくちだったら、とっつきにくい古典にもしたしみがわいてくる。

・連れ去られたい
・ブスを笑いたい
・見られたい
・モテ男を不幸にしたい
・乱暴にせまられたい
・いじめたい
・正妻に復讐したい

わたしはぜんぜんしらなかったけど、
『源氏物語』をレイプ小説とみることもできるくらい、
光源氏はちょっといいかんじの女性をみると、
いや、いいかんじでもない女性にたいしてでさえ、
手をださずにはおれないプレイボーイだったようだ。
やりまくる光源氏のうごきによって、
紫式部の欲望があぶりだされていく。

おもしろかったのが「見られたい」の章の「チラ見え」の威力について。
当時の女性はさまざまなガードをもちいて
簡単には男性にみられないようこころがけていた。
しかし、だからこそ、そこでチラッとみえた場合の威力もまた、
そうとうなものであったことを酒井さんは指摘する。

「下がり端だの扇だの御簾だの几帳だのといったガードの数々は、
ガードがありながらも、『ちょっと動かせば、すぐに見えますよ』
と男性を誘うものでもあったのではないかと、私は思うのです」

「下がり端も扇も御簾も几帳も、
スカートのような働きをしていたのだといえましょう。
スカートは、その下にはいているパンツを隠す役割を担うと同時に、
パンツの存在を強調しているわけで、
同じように下がり端だの御簾だのも、女性の姿を隠しつつ、
『ここに女がいます』ということを強調している」

いっぽう、男性にとれば、ふだんは目にすることのない女性の、
そのほんの一部でもみることが、どれだけ刺激的な行為だったか。

「彼等は、異性を見ることに対する免疫を、全く持っていません。(中略)
ほんの一瞬、厚く着物に覆われた女性の姿が見えただけでも、
恋心を炎上させることができる」

女性たちは、とうぜん「みせる」ことの絶大な効果をしっているので、
どうかくし、どうチラみせするかの戦略をもっていたにちがいない。

井上章一さんの『パンツが見える。』には、
中国におけるパンツのやくわりが紹介されている。
それによると、日本ではスカートからパンツがみえないように
女性たちが気をくばるのにたいし、
中国の女性はちは「パンツをはいているから大丈夫」という意識なのだという。
パンツまではみられてもだいじょうぶ、という部分なわけで、
パンツをみられても平然としていられる中国では、
『源氏物語』におけるチラみせは効果を発揮しない。
チラみせの威力は、日本ならではのものかもしれない。

わたしはこの本をよむにつれ、当時の執筆環境が気になってきた。
1000年もまえに、紙がじゅうぶんにあるわけでもなかっただろうに、
この膨大なものがたりは、どうやって構成がねられ、
執筆され、手なおし、プロデュース、出版されていったのか。
そして、当時のだれがどのようによんでいったのかと、
どんどん不思議な点がでてくる。
いまでなら、フセンをつかってアイデアをかきだし、整理し、グループにわけ、
かくのはもちろんパソンにむかって修正しながら、なんてことができるけど、
当時の執筆環境はそれらのいっさいをゆるさない。
ぶっつけ本番で、いきなりサラサラっとかいていったのだろうか。
まだ印刷技術がないので、複写するには原作をかきうつしていたのだろうか。

これらのことが頭にうかぶのは、
それだけ平安の生活様式が、わたしのなかでリアリティをもったからだ。
むかしもいまも、というよりも、いまよりもずっと
やりまくっていた平安の貴族たち。
『源氏物語』とは、そんな欲望についてかかれたものであることを、
酒井さんはおしえてくれた。
この道案内は、酒井さんにしかできなかっただろう。
酒井さんはべつの著作で『枕草子』についてもかかれている。
これらの本に、わたしはぜったいに手をだすことはない、とおもっていたけれど、
こんな生々しい内容だったらよんでみたくなる。
あたらしいジャンルに関心をむけてくれた、酒井さんならではの仕事に感謝したい。

posted by カルピス at 11:51 | Comment(0) | TrackBack(1) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする