『地震と独身』(酒井順子・新潮社)
東日本大震災から1年たったとき、
酒井順子さんは政府主催でおこなわれていた
「東日本大震災周年追悼式」の中継をテレビでみていた。
遺族のことばをきいたり、家族のものがたりに耳をかたむけながら、
「独身の人達は、一体・・・?」というおもいがわいてきたという。
たしかに、独身者がどううごいたかについては
あまりニュースでみかけなかったようにおもう。
酒井さんのこれまでの仕事から、
震災における独身者のうごきに関心をむけるのはきわめて自然だし、
なおかつ、独身者についてずっとふかい観察をかさねてきた
酒井さんならではの仕事といえる。
ライフワークというか、これまでの延長線上というか、
酒井さんは自分が「独身」であることをきっかけに、
身ぢかなようで、じつはよくしらない世界をさぐり、紹介してくれる。
章だてがうまい。
・独身は働いた
・独身はつないだ
・独身は守った
・独身は助けた
・独身は戻った
・独身は向かった
・独身は始めた
・独身は結婚した
ときて、最後は
・無常と独身
でしめる。
震災にあった独身者への おおくの取材をかさね、
彼らがなにをかんがえ・どううごいたかをききだしていく。
必然的に この本は、すぐれたルポルタージュとなった。
つらい体験をはなしてくれる独身者たちに、
酒井さんはすこしずつはなしをすすめていく。
本の内容が震災だけに、いかに酒井さんといえども
「負け犬」とは冗談でもいえず、
取材の対象はつねに「独身者」とよばれている。
酒井さんの文章に特徴的な「わらい」「かるさ」はない。
取材のおわりには、つねに相手をおもいやるひとことがのべられる。
もちろん本心からのことばだけれど、
いつもの酒井順子をしるものには「よいこのサカイ」でありつづけるのが
すこしおかしい。
だからつまらないかというと、そうではなく、
相手からおもったこと・おもっていることをじょうずにききだすのは、
酒井さんが得意とする分野だ。
それぞれのひとがうけたおもい体験は
だれにでもはなせるものではなく、
きいているもののふかい理解と共感があってはじめて
くちにすることができる。
福島市の病院ではたらく女性は、
原発の事故で避難してきたおばあさんについてはなす。
「『オラのベコ、置いてきてしまった・・・』
って、ベコを置いてきてしまったことを、すごく悔いているんですよ。(中略)
子供は、避難して新しい土地に行ったら、大変だとは思うけれど、
いずれ適応していくことができるし、未来もある。
でもじいちゃん、ばあちゃん達は、住み慣れた土地で、
これから人生の仕上げをしなくちゃいけなかったんですよ。
家畜も一緒にいた、思い出のたくさん詰まっている場所から
離れさせられてしまうお年寄りを見るのが、一番切ない・・・。
あんな善良なおばあちゃんに、人生の最期に、
そういう悲しい言葉を言わせてしまったということが、
看護をする人間として、やりきれなかったです。
おばあちゃんにそんなことを思わせてしまうことは、
絶対に間違っている、って強くおもいました」
ひとりのわかい女性が、どんなおもいをだいて仕事にあたったのか。
いかりだったり使命感だったり、必然だったり。
震災という非常事態に、ひとはなにをかんじるのか、
はなされる特別な体験が、よむ側につよくつたわってくる。
福島の原発事故については、取材をうけたひとも慎重にはなしているし、
酒井さんもそのとりあつかいに気をくばっている。
放射能にどう反応するかは、ほんとうにそれぞれのおかれた状況によってかわる。
にげたひとにも、とどまったひとへも、酒井さんは
そのひとがなにをおもい、どううごいたかだけにふれている。
わたしは、
「おばあちゃんにそんなことを思わせてしまうことは、
絶対に間違っている」
という女性のつよいいかりにむねをいためるだけだ。
震災で結婚をかんがえるようになったひと、
震災にあっても結婚をかんがえなかったひと。
「人間は、常に変わらぬ幸せを得るため、
愛する人とつがいをつくって結婚し、
家族という集団を形成するわけですが、
『常』などというものはこの世に無いこと、
すなわち『無情』という言葉の意味を、震災は見せつけました」
「どうしても答えの出ない大きなもの、
その答えを探すために」僧侶としての道へ、
旅だった男性が紹介されている。
酒井さんもまた、無情の道をあるきつづけるようだ。
この本の印税は、全額が義捐金として寄付されるという。
酒井さんのすばらしい仕事をたかく評価したい。
2014年04月22日
2013年12月03日
『ユーミンの罪』(酒井順子) パンドラの箱をあけてしまったユーミン
『ユーミンの罪』(酒井順子・講談社現代新書)
ある本が、なにをつたえたいのかについて、
ただしくうけとめるのはあんがいむつかしい。
しかし、本書の主張はとてもはっきりしている。
「女性たちにとってのパンドラの箱をあけてしまったユーミン」だ。
「今思えば、ユーミンが見せてくれた刹那の輝きと永遠とは、
私達にとって手の届かない夢でした。(中略)
ユーミンに対しては、『いい夢を見させてもらった』という気持ちと、
『あんな夢させ見なければ』という気持ちとが
入り交じる感覚を抱く人が多いのではないでしょうか」
デビューアルバム『ひこうき雲』がでた1973年から、
バブルのおわる1991年まで、
ユーミンがつくった20のアルバムをとりあげて、
うたにこめられたメッセージと、それをきいた女性たちが
どうおどった(おどらされた)のかを整理する。
ところで、著者の酒井順子さんについて、
これまでにいなかったありがたい情報提供者として
わたしはとらえている。
クラスではあまり目だたないけれど
主流派の女の子たちを、すこしはなれたところから
冷静に観察している女の子。
これまで文章をかく少女たちは、
そんな「ちょっとかわった」ひとがおおかったようにおもう。
マジョリティとはちがう独自の価値観をもち、
クラスの辺境から同級生たちのおさない言動を
さめた目でみている。
酒井順子さんはそうではなかった。
はじめから主流派にぞくし、
クラスの中心でおおさわぎしている女の子たちが、
なにをおもい、どんなあそびをしているかを
目や耳となっておとなたちにおしえてくれた。
スパイとしてではなく、酒井さん自身も時代にのみこまれ、
おどっている当事者なので信頼できる。
少数派の意見はずっときこえていたけれど、
多数派の生態は、酒井さんの情報提供によって
はじめてあきらかにされたのだ。
酒井さんがこの本をかけたのは、
おおくの女性たちが、ユーミンのうたにどんな反応をしめしたか、
自分と自分の身のまわりにおこったこととして、
リアルな記憶がのこっているからだ。
20のアルバムにそって自分の記憶をたどることが、
そのまま当時の女性たちの意識をうきぼりにしていく。
ユーミンといえば助手席ソングだ。
ユーミンは助手席を肯定し、助手席ソングをつくりつづけた。
「そんなユーミンを見て、『助手席で、いいんだ』と
自信を持った女性も、多かったのではないでしょうか」
(「中央フリーウェイ)
この「助手席性」は、
やがて「つれてってソング」へとつながっていく。
(「恋人はサンタクロース」)
「女の子達は、『つれて行ってもらう』
という状況を整えるために、
陰で必死の努力をしましたし、
そして当時の男性には、
『その望みを叶えればモテる
(もしくはデキる)のであれば』と、
『無理をしてでも頑張ろう』という気概がまだあった。
その気概を技術的に支えたのが、
『POPEYE』や『HotDog PRESS』といった雑誌です」
また、ユーミンのうたによって
「負け犬」たちがうぶごえをあげた、という指摘は、
酒井さんならではのものだ。
晩婚化がユーミンにも責任があったとは。
よんでいるうちに、この本がとりあげている
1973年からバブルがおわるまでというのは、
じつにたいへんな時代だったということがわかってきた。
スキーやサーフィン(陸サーファーでも可)
ができなければなにもはじまらない。
ラグビーをかじっていれば、すこしはいいかもしれない。
女性にのってもらえるような自動車をもっていないと
つきあってもらえないし、そもそもデートにもさそえない。
男としていきているだけでは、その手の女性たちにとって
なんの存在意味もない。
お金も服のセンスもなく、
もちろん恋愛ゲームにうつつをぬかすだけの
気概ももたなかったわたしは、
どうやってこのつらい時期をやりすごすことができたのだろう。
おなじ時期に『男おいどん』に代表される
松本零士さんの大四畳半ものが、
ある一定の支持をあつめていたのは、
ユーミン的な世界ではとても生きていけないダサい男たちが
すくなからず生息していたことをものがたっている。
あと5年はやくうまれていたら、わたしはユーミンのうたに絶望し、
おそらく「おいどん」になぐさめられている
(こころのよわいわたしは「おいどん」にはなれない)。
歌詞をふかくよみこむことで、
うたい手の心理や時代背景をあきらかにした本というと、
小倉千加子さんの『松田聖子論』をおもいだす。
私語だらけの短大の授業で、「松田聖子論」の講義をすると
教室がしずまりかえったという。
女性たちはいつも、なにが自分に関係あるのかを
敏感にみぬいてしまう。
ユーミンのかっこよさとメッセージに気づいたのも、
もちろん男ではなく、わかい女性たちだ。
「洒落たものを洒落て歌うばかりでなく、
洒落ていないものを洒落て歌うことができるのが、ユーミンです」(51P)
「スキーやサーフィンをしている彼が好きというより、
スキーやサーフィンをしている彼を持つ自分が好き、という感覚です」(65P)
「ユーミンは、『湿度を抜く』ということに対して
天才的能力を持っています」(73P)
酒井さんはこの本を、バブルがおわった92年まででくぎっている。
おなじ時期に会社をやめたことから、
「ユーミン断ちをすることによって、
無所属人生の覚悟を決めたように思います」
という、なんだかとってつけたような説明がかいてある。
酒井さん個人がかわったということよりも、
バブルが崩壊したころからの世の中の変化は、
ユーミンにとってもまたおおきく、
時代にあわなくなったのかもしれない。
そして酒井さんはユーミンのうたを切実には必要としなくなった。
この本のサブタイトルは、
「ユーミンの歌とは 女の業の肯定である」
だ。
すべての女性の欲望は、女性であるがゆえにただしい。
パンドラの箱があいたのも、
それによっておどってもおどらなくても、
すべてをユーミンは肯定してくれる。
酒井順子さんならではの視点がいきたユーミン論であり、
時代のうつりかわりをおもいだしながらたのしくよんだ。
ある本が、なにをつたえたいのかについて、
ただしくうけとめるのはあんがいむつかしい。
しかし、本書の主張はとてもはっきりしている。
「女性たちにとってのパンドラの箱をあけてしまったユーミン」だ。
「今思えば、ユーミンが見せてくれた刹那の輝きと永遠とは、
私達にとって手の届かない夢でした。(中略)
ユーミンに対しては、『いい夢を見させてもらった』という気持ちと、
『あんな夢させ見なければ』という気持ちとが
入り交じる感覚を抱く人が多いのではないでしょうか」
デビューアルバム『ひこうき雲』がでた1973年から、
バブルのおわる1991年まで、
ユーミンがつくった20のアルバムをとりあげて、
うたにこめられたメッセージと、それをきいた女性たちが
どうおどった(おどらされた)のかを整理する。
ところで、著者の酒井順子さんについて、
これまでにいなかったありがたい情報提供者として
わたしはとらえている。
クラスではあまり目だたないけれど
主流派の女の子たちを、すこしはなれたところから
冷静に観察している女の子。
これまで文章をかく少女たちは、
そんな「ちょっとかわった」ひとがおおかったようにおもう。
マジョリティとはちがう独自の価値観をもち、
クラスの辺境から同級生たちのおさない言動を
さめた目でみている。
酒井順子さんはそうではなかった。
はじめから主流派にぞくし、
クラスの中心でおおさわぎしている女の子たちが、
なにをおもい、どんなあそびをしているかを
目や耳となっておとなたちにおしえてくれた。
スパイとしてではなく、酒井さん自身も時代にのみこまれ、
おどっている当事者なので信頼できる。
少数派の意見はずっときこえていたけれど、
多数派の生態は、酒井さんの情報提供によって
はじめてあきらかにされたのだ。
酒井さんがこの本をかけたのは、
おおくの女性たちが、ユーミンのうたにどんな反応をしめしたか、
自分と自分の身のまわりにおこったこととして、
リアルな記憶がのこっているからだ。
20のアルバムにそって自分の記憶をたどることが、
そのまま当時の女性たちの意識をうきぼりにしていく。
ユーミンといえば助手席ソングだ。
ユーミンは助手席を肯定し、助手席ソングをつくりつづけた。
「そんなユーミンを見て、『助手席で、いいんだ』と
自信を持った女性も、多かったのではないでしょうか」
(「中央フリーウェイ)
この「助手席性」は、
やがて「つれてってソング」へとつながっていく。
(「恋人はサンタクロース」)
「女の子達は、『つれて行ってもらう』
という状況を整えるために、
陰で必死の努力をしましたし、
そして当時の男性には、
『その望みを叶えればモテる
(もしくはデキる)のであれば』と、
『無理をしてでも頑張ろう』という気概がまだあった。
その気概を技術的に支えたのが、
『POPEYE』や『HotDog PRESS』といった雑誌です」
また、ユーミンのうたによって
「負け犬」たちがうぶごえをあげた、という指摘は、
酒井さんならではのものだ。
晩婚化がユーミンにも責任があったとは。
よんでいるうちに、この本がとりあげている
1973年からバブルがおわるまでというのは、
じつにたいへんな時代だったということがわかってきた。
スキーやサーフィン(陸サーファーでも可)
ができなければなにもはじまらない。
ラグビーをかじっていれば、すこしはいいかもしれない。
女性にのってもらえるような自動車をもっていないと
つきあってもらえないし、そもそもデートにもさそえない。
男としていきているだけでは、その手の女性たちにとって
なんの存在意味もない。
お金も服のセンスもなく、
もちろん恋愛ゲームにうつつをぬかすだけの
気概ももたなかったわたしは、
どうやってこのつらい時期をやりすごすことができたのだろう。
おなじ時期に『男おいどん』に代表される
松本零士さんの大四畳半ものが、
ある一定の支持をあつめていたのは、
ユーミン的な世界ではとても生きていけないダサい男たちが
すくなからず生息していたことをものがたっている。
あと5年はやくうまれていたら、わたしはユーミンのうたに絶望し、
おそらく「おいどん」になぐさめられている
(こころのよわいわたしは「おいどん」にはなれない)。
歌詞をふかくよみこむことで、
うたい手の心理や時代背景をあきらかにした本というと、
小倉千加子さんの『松田聖子論』をおもいだす。
私語だらけの短大の授業で、「松田聖子論」の講義をすると
教室がしずまりかえったという。
女性たちはいつも、なにが自分に関係あるのかを
敏感にみぬいてしまう。
ユーミンのかっこよさとメッセージに気づいたのも、
もちろん男ではなく、わかい女性たちだ。
「洒落たものを洒落て歌うばかりでなく、
洒落ていないものを洒落て歌うことができるのが、ユーミンです」(51P)
「スキーやサーフィンをしている彼が好きというより、
スキーやサーフィンをしている彼を持つ自分が好き、という感覚です」(65P)
「ユーミンは、『湿度を抜く』ということに対して
天才的能力を持っています」(73P)
酒井さんはこの本を、バブルがおわった92年まででくぎっている。
おなじ時期に会社をやめたことから、
「ユーミン断ちをすることによって、
無所属人生の覚悟を決めたように思います」
という、なんだかとってつけたような説明がかいてある。
酒井さん個人がかわったということよりも、
バブルが崩壊したころからの世の中の変化は、
ユーミンにとってもまたおおきく、
時代にあわなくなったのかもしれない。
そして酒井さんはユーミンのうたを切実には必要としなくなった。
この本のサブタイトルは、
「ユーミンの歌とは 女の業の肯定である」
だ。
すべての女性の欲望は、女性であるがゆえにただしい。
パンドラの箱があいたのも、
それによっておどってもおどらなくても、
すべてをユーミンは肯定してくれる。
酒井順子さんならではの視点がいきたユーミン論であり、
時代のうつりかわりをおもいだしながらたのしくよんだ。
2013年07月15日
『そんなに、変わった?』(酒井順子)その後の負け犬について
『そんなに、変わった?』(酒井順子・講談社)
週刊現代に連載されているエッセイをまとめたもので、
もう8冊目になるそうだ。
おもしろかったのが
「負け犬、十歳になりましたワン!」という回だ。
『負け犬の遠吠え』が出版されてから10年たち、
はやくよみたいとおもっていた「その後の負け犬」について
かんたんにふれてある。
酒井さんがあれだけ
「そんなことでは負け犬になってしまいますよ〜」と
注意をうながしてくれたにもかかわらず、
負け犬はあれからも着実にふえつづけ、
いまや30代前半で独身など、ごくあたりまえというご時世となった。
その間、「負け犬になりたくない」とおもっていた
20代の若者たちはなにをしていたのか。
・負け犬にはなりたくないけれど、
だれとでも結婚したいわけではない
・「良い条件の男性に多くの女性がガッと群がるという
椅子取りゲームの競争が激化」
・かといって、親や職場がお見合いというセーフティーネットを
用意してくれるわけでもない
負け犬をとりまくこれらの状況は、
けっきょくこの10年間でかわらなかった。
「十年まえはどこかで他人事だと思っていましたが、
私もあっという間になってしまいましたよ、負け犬に」
と、おおくのわかものが、なしくずし的に
負け犬になっていった10年だったと総括できる。
負け犬がなにかととりざたされるのは、
「30代未婚・子なし」が日本の人口問題に直結するからだ。
晩婚化は非婚化につうじ、少子に歯どめがかからない。
もっとも、一匹いっぴきの負け犬に人口問題の責任はないわけで、
それぞれの価値観が総体としてつくりあげる社会、という意味において
負け犬のうごきに関心がある。
もうひとつおもしろかったのが、
「高齢者は金次第、若者は顔次第」というはなしだ。
じっさいに、介護職員が「イケメン&美女」という施設があるそうで、
たしかにそれもひとつの企業戦略だと納得できる。
だれだってこのみの職員に介護されたい
「平均寿命の男女差を考えると、
高齢者の多くは女性なわけで、
老人施設はほとんど女子校状態なのです。
その時、求められるのは、イケメン職員ということになる」
わたしが介護される側になったとしたら、
容姿よりも介護技術で職員をえらぶようにおもう。
しかし、にたような能力であれば、もちろんかわいい子のほうがいい。
酒井さんは、
「今の七十代以下の世代は、
韓流ブームの洗礼を受けたイケメン好き」
と指摘する。そういった年齢層が施設利用者になったとき、
そして彼女たちがお金をもっていたとしたら、
いまよりももっと「顔」のよしあしがとわれるようになる。
わたしもひそかに老後の生活に期待していることがある。
料理や身のまわりのことをひとりでできるので、
あんがいおおくの女性に評価されるのではないか、ということだ。
残念ながらイケメンではないけれど、
それなりのプロポーションを維持し、
あそびごころのある、やわらかい頭をたもっていたら、
わるいあそび仲間ではないはずだ。
腰のすわった老美魔女には、
くいたりなくて相手にされないかもしれないが、
数でいえば男のほうがすくないわけだから、
そこそこたのしい老後のような気がする。
健康で、お金があったら、のはなしだけど。
週刊現代に連載されているエッセイをまとめたもので、
もう8冊目になるそうだ。
おもしろかったのが
「負け犬、十歳になりましたワン!」という回だ。
『負け犬の遠吠え』が出版されてから10年たち、
はやくよみたいとおもっていた「その後の負け犬」について
かんたんにふれてある。
酒井さんがあれだけ
「そんなことでは負け犬になってしまいますよ〜」と
注意をうながしてくれたにもかかわらず、
負け犬はあれからも着実にふえつづけ、
いまや30代前半で独身など、ごくあたりまえというご時世となった。
その間、「負け犬になりたくない」とおもっていた
20代の若者たちはなにをしていたのか。
・負け犬にはなりたくないけれど、
だれとでも結婚したいわけではない
・「良い条件の男性に多くの女性がガッと群がるという
椅子取りゲームの競争が激化」
・かといって、親や職場がお見合いというセーフティーネットを
用意してくれるわけでもない
負け犬をとりまくこれらの状況は、
けっきょくこの10年間でかわらなかった。
「十年まえはどこかで他人事だと思っていましたが、
私もあっという間になってしまいましたよ、負け犬に」
と、おおくのわかものが、なしくずし的に
負け犬になっていった10年だったと総括できる。
負け犬がなにかととりざたされるのは、
「30代未婚・子なし」が日本の人口問題に直結するからだ。
晩婚化は非婚化につうじ、少子に歯どめがかからない。
もっとも、一匹いっぴきの負け犬に人口問題の責任はないわけで、
それぞれの価値観が総体としてつくりあげる社会、という意味において
負け犬のうごきに関心がある。
もうひとつおもしろかったのが、
「高齢者は金次第、若者は顔次第」というはなしだ。
じっさいに、介護職員が「イケメン&美女」という施設があるそうで、
たしかにそれもひとつの企業戦略だと納得できる。
だれだってこのみの職員に介護されたい
「平均寿命の男女差を考えると、
高齢者の多くは女性なわけで、
老人施設はほとんど女子校状態なのです。
その時、求められるのは、イケメン職員ということになる」
わたしが介護される側になったとしたら、
容姿よりも介護技術で職員をえらぶようにおもう。
しかし、にたような能力であれば、もちろんかわいい子のほうがいい。
酒井さんは、
「今の七十代以下の世代は、
韓流ブームの洗礼を受けたイケメン好き」
と指摘する。そういった年齢層が施設利用者になったとき、
そして彼女たちがお金をもっていたとしたら、
いまよりももっと「顔」のよしあしがとわれるようになる。
わたしもひそかに老後の生活に期待していることがある。
料理や身のまわりのことをひとりでできるので、
あんがいおおくの女性に評価されるのではないか、ということだ。
残念ながらイケメンではないけれど、
それなりのプロポーションを維持し、
あそびごころのある、やわらかい頭をたもっていたら、
わるいあそび仲間ではないはずだ。
腰のすわった老美魔女には、
くいたりなくて相手にされないかもしれないが、
数でいえば男のほうがすくないわけだから、
そこそこたのしい老後のような気がする。
健康で、お金があったら、のはなしだけど。
2013年06月10日
なんどよんでもおかしい『負け犬の遠吠え』
『負け犬の遠吠え』(酒井順子・講談社)
ちょっと参考に、とよみはじめるととまらない。
この本について、もうなんどもかいてきたけど、
よむたびにわらえるので、また紹介したくなる。
この本が画期的だったのは
・「負け犬」という、ふるくてあたらしい生物の発見
・結婚としあわせは関係ないことをあきらかにした
という2点にしぼることができる。
おもに都会でふえつつある負け犬の存在を、
それまで社会はどうとらえていいか判断しかねていた。
「かつ」とか「まける」ということばに
ひとは敏感に反応するので、
この「負け犬」というネーミングは
出版当初おおくの拒否反応をうんでいる。
「結婚してないけどわたしはまけてない」
というやつだ。
そこをあえて「まけました」とお腹をみせることで
「勝ち犬」たちを議論のテーブルにつかせ
「負け犬」現象を整理するのに成功している。
この本の構成は
・本書を読まれる前に
で「負け犬」の定義と、この本のルールをあきらかにしたのちに、
・負け犬発生の原因
・負け犬の特徴
・負け犬の処世術
・負け犬と敗北
と負け犬の心理と生態にふかくせまっている。
そして
・負け犬にならないための10ヶ条
・負け犬になってしまってからの10ヶ条
という予防と対応までついているという
ほんとうにいたりつくせりの入門書であり実用書だ。
なんといってもわらえるのが
「負け犬にならないための10ヶ条」で、
・不倫をしない
・「・・・っすよ」と言わない
・腕を組まない
・女性誌を読む
・ナチュラルストッキングを愛用する
・長期的視野のもとで物事を考える
等々、「不倫をしない」以外は
酒井さんでないとおもいつきそうにない。
負け犬がこれ以上繁殖しないために、
わたしのすきないくつかを紹介したい。
まず、なぜ腕をくんではならないのか。
「腕組は、『相手を警戒している』『自分のことは自分で守る』
といった意思を感じさせる行為です。(中略)
勝ち犬を目指す人は、
『誰か、この腕をつかんでどこかに連れて行って〜』
という意思が明確に伝わるように、
腕は常にフラフラとさせておかなくてはなりません」
「女性誌を読む」は
もちろん「JJ」「VERY」「STORY」といった
光文社系でなければならない。
「勝ち犬女性誌が世の女性達に教えようとしている最も重要な問題は、
『疑うな』
ということ。
『私はこのままでいいのか?』
『本当の自分って?』
などという、自分以外の人間には何ら意味を持たぬ疑問を抱いて
うしろをふりかえったり考え込んだりせず、
『夫と子供とお金とおしゃれ』を得ることイコール幸福、
ということを信じて疑わない姿勢を持つ。
何でも欲しがる現代女性に、ある意味で『足るを知れ』
ということを教えようとしているのが、
勝ち犬系女性誌なのです。(中略)
娘を持つ親御さん達は、高校生くらいから『JJ』などを与え、
危険な負け犬思想に汚染されないようにするのが
望ましいでしょう」
「ナチュラルストッキングを愛用する」は
「『私は普通の人間です』ということを、
世に知らしめてくれるのです。
その普通さというのは、エロさでもあります。(中略)
女の普通さ・エロさは、日本男児にとって
米のメシのようなものなのです。(中略)
ナチュストファッションは、
しかし決してラクなものではありません。(中略)
それらの気持ち悪さや身体の変形にも
耐えるくらいの気概がなくては、
勝ち犬になどなれないのです」
「長期的視野のもとで物事を考える」
はまとめにもなっている。
「何とかして結婚しようとする女性は、
時にその手練手管ぶりばかりが悪目立ちしてしまうものです。
が、彼女達は人間として当然のことをしているまで、
と言うこともできる。(中略)
良い相手と結婚をするためにどんな手練手管を使おうと、
それは経営者が企業戦略を練るのと同じ。(中略)
成功した経営者は、やっていることが汚いわけではありません。
ただ、現状と未来とは見据えて冷静に戦略を立てただけ。
『あっ、今はコレが流行ってるからコレを仕入れよう!』
と、せいぜい一ヶ月くらいのことしか考えられないダメ経営者とは、
大きく異るのです。
つまり勝ち犬とは、安定した老後を得るために、
ナチュラルストッキングをはき続けることができる人のことなのです。
『今すぐラクしたい』『明日、楽しいことをやりたい』
『日々を刺激的に』という子供のような欲望のままに生きるのではなく、
いかに遠くまでを見渡すことができるか」
「負け犬になってしまってからの10ヶ条」
ですきなのは
・落ち込んだ時の大処方を開発する
・突き抜ける
の2つだ。
「落ち込みは周期的なものであり、
そう長くはつづかないことを
経験を積んだ負け犬は知っている。
しかし頭痛と同じく、いずれ去るとはわかっていても、
落ち込みを放置しておくのは嫌なものです。
バファリンのように即効性のある落ち込み対処法を、
自分なりに開発しておくと、
イザという時に安心です」
「突き抜ける」もまた
まとめともいうことができる。
「もう、ここまできたら下手に何かを変えるより、
行くところまで行くしかないじゃん。
突き抜けた先にはきっと、
別の世界が広がっているハズ!
さらに上を目指せ!(中略)
突き抜けた先には、もしかしたら何も無いかもしれません。
が、せっかく負け犬になったのだから、
たとえ奇人変人と言われようと、
途中で力尽きて倒れようと、
勝ち犬には決してできない突き抜け方をしてもいいのではないか」
この本の世界をなによりもよくあわらしているのは
表紙の「負け犬」氏だ。
知的でおっかなそうで、
なにやらいろんなことをかんがえていそうで。
ちょっと参考に、とよみはじめるととまらない。
この本について、もうなんどもかいてきたけど、
よむたびにわらえるので、また紹介したくなる。
この本が画期的だったのは
・「負け犬」という、ふるくてあたらしい生物の発見
・結婚としあわせは関係ないことをあきらかにした
という2点にしぼることができる。
おもに都会でふえつつある負け犬の存在を、
それまで社会はどうとらえていいか判断しかねていた。
「かつ」とか「まける」ということばに
ひとは敏感に反応するので、
この「負け犬」というネーミングは
出版当初おおくの拒否反応をうんでいる。
「結婚してないけどわたしはまけてない」
というやつだ。
そこをあえて「まけました」とお腹をみせることで
「勝ち犬」たちを議論のテーブルにつかせ
「負け犬」現象を整理するのに成功している。
この本の構成は
・本書を読まれる前に
で「負け犬」の定義と、この本のルールをあきらかにしたのちに、
・負け犬発生の原因
・負け犬の特徴
・負け犬の処世術
・負け犬と敗北
と負け犬の心理と生態にふかくせまっている。
そして
・負け犬にならないための10ヶ条
・負け犬になってしまってからの10ヶ条
という予防と対応までついているという
ほんとうにいたりつくせりの入門書であり実用書だ。
なんといってもわらえるのが
「負け犬にならないための10ヶ条」で、
・不倫をしない
・「・・・っすよ」と言わない
・腕を組まない
・女性誌を読む
・ナチュラルストッキングを愛用する
・長期的視野のもとで物事を考える
等々、「不倫をしない」以外は
酒井さんでないとおもいつきそうにない。
負け犬がこれ以上繁殖しないために、
わたしのすきないくつかを紹介したい。
まず、なぜ腕をくんではならないのか。
「腕組は、『相手を警戒している』『自分のことは自分で守る』
といった意思を感じさせる行為です。(中略)
勝ち犬を目指す人は、
『誰か、この腕をつかんでどこかに連れて行って〜』
という意思が明確に伝わるように、
腕は常にフラフラとさせておかなくてはなりません」
「女性誌を読む」は
もちろん「JJ」「VERY」「STORY」といった
光文社系でなければならない。
「勝ち犬女性誌が世の女性達に教えようとしている最も重要な問題は、
『疑うな』
ということ。
『私はこのままでいいのか?』
『本当の自分って?』
などという、自分以外の人間には何ら意味を持たぬ疑問を抱いて
うしろをふりかえったり考え込んだりせず、
『夫と子供とお金とおしゃれ』を得ることイコール幸福、
ということを信じて疑わない姿勢を持つ。
何でも欲しがる現代女性に、ある意味で『足るを知れ』
ということを教えようとしているのが、
勝ち犬系女性誌なのです。(中略)
娘を持つ親御さん達は、高校生くらいから『JJ』などを与え、
危険な負け犬思想に汚染されないようにするのが
望ましいでしょう」
「ナチュラルストッキングを愛用する」は
「『私は普通の人間です』ということを、
世に知らしめてくれるのです。
その普通さというのは、エロさでもあります。(中略)
女の普通さ・エロさは、日本男児にとって
米のメシのようなものなのです。(中略)
ナチュストファッションは、
しかし決してラクなものではありません。(中略)
それらの気持ち悪さや身体の変形にも
耐えるくらいの気概がなくては、
勝ち犬になどなれないのです」
「長期的視野のもとで物事を考える」
はまとめにもなっている。
「何とかして結婚しようとする女性は、
時にその手練手管ぶりばかりが悪目立ちしてしまうものです。
が、彼女達は人間として当然のことをしているまで、
と言うこともできる。(中略)
良い相手と結婚をするためにどんな手練手管を使おうと、
それは経営者が企業戦略を練るのと同じ。(中略)
成功した経営者は、やっていることが汚いわけではありません。
ただ、現状と未来とは見据えて冷静に戦略を立てただけ。
『あっ、今はコレが流行ってるからコレを仕入れよう!』
と、せいぜい一ヶ月くらいのことしか考えられないダメ経営者とは、
大きく異るのです。
つまり勝ち犬とは、安定した老後を得るために、
ナチュラルストッキングをはき続けることができる人のことなのです。
『今すぐラクしたい』『明日、楽しいことをやりたい』
『日々を刺激的に』という子供のような欲望のままに生きるのではなく、
いかに遠くまでを見渡すことができるか」
「負け犬になってしまってからの10ヶ条」
ですきなのは
・落ち込んだ時の大処方を開発する
・突き抜ける
の2つだ。
「落ち込みは周期的なものであり、
そう長くはつづかないことを
経験を積んだ負け犬は知っている。
しかし頭痛と同じく、いずれ去るとはわかっていても、
落ち込みを放置しておくのは嫌なものです。
バファリンのように即効性のある落ち込み対処法を、
自分なりに開発しておくと、
イザという時に安心です」
「突き抜ける」もまた
まとめともいうことができる。
「もう、ここまできたら下手に何かを変えるより、
行くところまで行くしかないじゃん。
突き抜けた先にはきっと、
別の世界が広がっているハズ!
さらに上を目指せ!(中略)
突き抜けた先には、もしかしたら何も無いかもしれません。
が、せっかく負け犬になったのだから、
たとえ奇人変人と言われようと、
途中で力尽きて倒れようと、
勝ち犬には決してできない突き抜け方をしてもいいのではないか」
この本の世界をなによりもよくあわらしているのは
表紙の「負け犬」氏だ。
知的でおっかなそうで、
なにやらいろんなことをかんがえていそうで。
2012年02月22日
気の強くない女性はいない(もしくは絶滅した)
酒井順子さんの『こんなの、はじめて?』(講談社)をよんでいたら
「気の弱い女はいない」というはなしがあった。
「気の強い女性がちょっと・・・(苦手)」と発言した男性にたいし、
酒井さんは
という。
酒井さんのまわりに「気の弱い女」はひとりもおらず、
たまたま自分のまわりに特別
「気の強い女性」ばかりいるのかもしれないと、
その友達にも
「あなたの知り合いで『気の弱い女』っている?」
とたずね、
それでもやっぱりいなかったそうだ
(「『気の弱い男』だったら知ってる」というこたえあり)。
「気が強くなさそうな女性と結婚してみたら、
実はものすごく気が強かった。
ああ、本当に気が強くない女はどこかにいるはずなのに、
俺はハズレくじを引いた・・・と思っている
男性もいるかもしれませんが、
ですからそれは間違った考えなのです。
『気が弱い女』という存在は、ユニコーンとか竜とかと同様、
想像上の生き物なのですから」
ほとんどの男はこのことをしらないのではないか。
わたしもまた、「気の強くない女性」がいるとおもっていた
おめでたい男のひとりだ。
わたしの配偶者もかっては・・・。
わたしは自分が本質的に気がよわいことをしっており、
たくさんの男もまた同類だとおもう。
まさか、「気の弱い女性」がいないなんて
(もしくは絶滅したなんて)。
もうひとつ、そのはなしのつづきで、
村山由佳の『ダブル・ファンタジー』について
「いやあ、あれはすごかった・・・・・。
あまりに生々しくて引いたな」
という男がおおかったそうで、
これにたいしても
というのだから、「気の弱い女性」がいないのとおなじように、
ここでも「性欲の強い女」はいないことが、
当然のこととしてかたられている。
なぜなら、「性欲の弱い女」はいないから
「性欲の強い女」という形容は
状況を正確にあらわしていないことになる。
「つよい男なんてみたことがない。
よわい女なんてみたことがない」
というのがどこかにかいてあった。
つまりはすべてがそういうことなのだろう。
「気の弱い女はいない」というはなしがあった。
「気の強い女性がちょっと・・・(苦手)」と発言した男性にたいし、
酒井さんは
「気が強くない女性」という生き物がこの世に存在すると思っている男性って、いるんだ!ということに感心した。
という。
酒井さんのまわりに「気の弱い女」はひとりもおらず、
たまたま自分のまわりに特別
「気の強い女性」ばかりいるのかもしれないと、
その友達にも
「あなたの知り合いで『気の弱い女』っている?」
とたずね、
それでもやっぱりいなかったそうだ
(「『気の弱い男』だったら知ってる」というこたえあり)。
「気が強くなさそうな女性と結婚してみたら、
実はものすごく気が強かった。
ああ、本当に気が強くない女はどこかにいるはずなのに、
俺はハズレくじを引いた・・・と思っている
男性もいるかもしれませんが、
ですからそれは間違った考えなのです。
『気が弱い女』という存在は、ユニコーンとか竜とかと同様、
想像上の生き物なのですから」
ほとんどの男はこのことをしらないのではないか。
わたしもまた、「気の強くない女性」がいるとおもっていた
おめでたい男のひとりだ。
わたしの配偶者もかっては・・・。
わたしは自分が本質的に気がよわいことをしっており、
たくさんの男もまた同類だとおもう。
まさか、「気の弱い女性」がいないなんて
(もしくは絶滅したなんて)。
もうひとつ、そのはなしのつづきで、
村山由佳の『ダブル・ファンタジー』について
「いやあ、あれはすごかった・・・・・。
あまりに生々しくて引いたな」
という男がおおかったそうで、
これにたいしても
確かに刺激的な表現はあるものの、「引く」のではなく『わかる』のです。(中略)
「だって、そうだものねぇ」という気持ちになる。
というのだから、「気の弱い女性」がいないのとおなじように、
ここでも「性欲の強い女」はいないことが、
当然のこととしてかたられている。
なぜなら、「性欲の弱い女」はいないから
「性欲の強い女」という形容は
状況を正確にあらわしていないことになる。
「つよい男なんてみたことがない。
よわい女なんてみたことがない」
というのがどこかにかいてあった。
つまりはすべてがそういうことなのだろう。