2016年08月13日

ケンカぱやかったという 椎名誠さんについて

「椎名誠 旅する文学館」のなかに、
目黒考二さんが椎名さんから著作について
はなしをききだすコンテンツがあり、
わかいころの椎名さんが
いかにケンカぱやかったかがのっていた。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/11218
「ずっとずっとむかし、娘や息子、それに妻と一緒にタクシーに乗ったりするとき、父親が怖くて仕方がなかった、と三人が口を揃えていうのである」

「タクシーに乗るとぼくがいつその運転手と喧嘩するかわからなかった、と三人は口を揃えていうのだった」

椎名さんのエッセーに、タクシーがらみで
ヤクザとケンカしたはなしもでていたので、
ほんとうに、椎名さんがタクシーにのると、
たかい確率でなにかがおきたのだろう。
だいたい、家族や目黒さんが、
椎名さんとタクシーにのるのをいやがるくらいだから、
椎名さんの記憶がどうであれ、
じっさいにおおくのケンカがあったのはまちがいない。

ただ、わかいころの椎名さんが
いくらけんかぱっやかったといっても、
みさかいなくけんかしていたわけではないはずだから、
椎名さんの側にたてば、タクシーにのったときにかぎって
ケンカがおおかったといえるかもしれない。
ほかの作家のエッセーにも、
タクシーにのって不愉快な目にあった体験がよくのっている。
タクシーの運転手は、よほど問題のあるひとがおおいのか。
椎名さんがケンカをしたくても、
相手がうけなければケンカにはならないのだから、
けして椎名さんだけがケンカぱやかったのではないだろう。

タクシーと椎名さんの記事をよんで、
わたしも父親とタクシーにのるのが
いやだったのをおもいだした。
わたしの父親は、タクシーにのると
やたら運転手さんとはなしをはじめ、
それがまた自分がいかに世なれた人間かを
自慢するようなはなしばかりだったので、
子どもながらに きいていてはずかしかった。
子どもというのは、おおかれすくなかれ、
自分の父親を否定したくなるのかもしれない。
もっとも、椎名さんの場合は、奥さんも目黒さんも
「怖かった」とはなしているので、
なんどもくりかえすけど、まちがいなく
かなりの頻度でケンカをしていたのだろうけど。

わたしは ちいさな子どものころをのぞき、
なぐりあいのケンカをしたおぼえがない。
平和主義者というよりも、気がちいさくて、臆病なのだ。
そんな人間からすると、
まわりがひやひやするぐらい ケンカぱやいのは
うらやましくもおもえる。
すくなくとも わかいころは、
それぐらいの自信といきおいをもって生きたい。
まあ、こういうのは性格なので、
そうなろうとおもっても かわれるものではないけど、
もしもこれから ケンカのおおい人生をめざしたくなったら、
相手には、タクシーの運転手さんをえらびたい。

posted by カルピス at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』(椎名誠)

『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』
(椎名誠・早川書房)

椎名さんが体験してきた不思議なできごとや、
これまでによんだおもしろ本が紹介されている。
『SFマガジン』に隔月で連載されているエッセイ
「椎名誠のニュートラルコーナー」をあつめた一冊だ。
おもしろいはなしをあつめたのだから、
おもしろいにきまっているし、
それをまたこうしてブログにかくのは
あまりにも安易でずるい気がするけど、
興味をひかれたんだから、これでいいんだと、ひらきなおる。
透明人間と、地球が直径1メートルの球だとしたら、
というはなしが そのなかでもとくにかんがえさせられる。

透明人間になれたらさぞたのしいだろうと
だれもがいちどはおもったことがあるのではないか。
『透明人間の告白』(H=F=セイント)をよむと、
透明人間も あんがいたいへんそうなのがわかる。
たとえばハンバーガーをたべたりしたら、
それが完全に消化されるまでは
物体としての形をたもっているわけだから、
はたからみると かなり気もちのわるい光景となる。
椎名さんは透明人間ならではの問題を、
さらにエスカレートさせて心配する。

うんこについてだ。
トイレをさがさなくても、透明人間なのだから
どこでうんこをしようが ひとからはみえない。
ひとまえでうんこするのは、
まちがいなく かなりかわった気分があじわえそうだ。
こまるのは、うんこはみえなくても、
紙でおしりをふこうとしたときは、
紙がただよっているのがひとにはみえてしまうので、
ゆっくりおしりをふいている余裕などないわけだ。

さらに、そのうんこをふんずけるひとがいたら、
かなり悲惨さ状況になる、というのが椎名さんの指摘だ。
だれかが散歩していて、なにもふんでいないはずなのに、
なんとなくニュルッとしたかんじがする。
指でさわってみると、なにやらクツについているようで、
確認しようと指を鼻にちかづけたときに、
なにもみえないけど、あきらかにうんこをふんづけたことをしる。

まったくよけいなお世話でしかないけど、
椎名さんにいわれるまで 「うんこ問題」のたいへんさを
わたしはみのがしていた。
うんこはみえなくても、ひねりだせばにおいがただようだろうから、
そこらへんの道ばたでやるよりも、
トイレでうんこをしたほうが安全だ。
トイレだったら、トイレットペーパーだけがひらひらまっている
おかしな光景をひとにみられる心配もない。
しかし、せっかく透明人間になりながら、
トイレでうんこをするなんて すごく不自由なはなしだ。
透明人間にもしなれたとしても、
アドバンテージはかなり限定的なのではないか。

『地球がもし100pの球だったら』(永井智哉・世界文化社)
にたとえられている地球も刺激的だ。
 地球が100p、つまり直径1メートルだったらそれを覆う大気は1ミリしかないのだ。一番高い山エベレスト登頂は0.7ミリ。一番深い海溝は0.9ミリしかない。(中略)
 この惑星の水の全体の量は660cc。その殆どは海水で、淡水はわずか17cc。そのうち12ccは南極や氷河などで凍っており、循環している淡水は5ccしかない。スプーン1杯の量である。

椎名さんが気づいた「やるせない現実」とは、
この17ccの淡水は、これ以上ふえることなく
ずっと17ccのままという事実。
それなのに、文明がすすむにつれて
貴重な淡水は加速度的に汚染されている。
すでに国家的に「水不足」となっていて、よその国から水を輸入したり、あるいは「盗む」ことなども行われている。

日本の水は、外国の企業が自由にかいしめられるそうで、
中国などは、日本の水に目をつけて、
将来的な戦略をねっているかもしれない。
そんなことになってはたいへんなので、
いまのうちになんとか手をうたなければならない。
はなしのながれからいって、
ここは当然 透明人間のでばんだ。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月12日

カツ丼のお店がおやすみだったらどうするか

イネかりをするつもりだったのに雨がふりだす。
きのうまでずっとお天気がつづき、
あしたからもまたはれの予報なのに、
きょうだけが雨なんてずいぶんひどい。
イネかりをするつもりでお弁当をつめ、
きがえを用意して、さあこれからでかけようとするときに、
手つだいをたのんでいたしりあいから
電話がかかってきた。
雨ふりだから、きょうはやめようと相談される。
たしかに無理してきょうやる必然性はない。
天気のことばかりはどうしようもないので
あすまたしきりなおしとする。
そうはいっても、きゅうな中止はがっくりくる。

なにかの本で、たとえばカツ丼をたべようと
ずっとたのしみにしていたのに、
めあてのお店がおやすみだった、なんてことになると、
からだがカツ丼をたべる体勢にはいっているのを
なかなかきりかえられない、とかいてあった。
カツ丼がなければラーメンで、とは
すんなりからだが、というかあたまが納得してくれない。

椎名誠さんの『哀愁の街に霧が降るのだ』には、
まさしくそのたのしみにしていた
カツ丼のお店がやすみだったために、
呆然となるはなしがでてくる。
かわりの店にいくつもりはない。
その店のカツ丼は、とくべつだった。
うまさと量と説得力が、ほかの店とはまったくちがう。
からだが、その店のカツ丼にすっかりなりきっていた。
ほかの料理では もちろんかわりがつとまらない。
どうしようもなくて いらだっているときに、
沢野さんが自分たちでカツ丼をつくれば、と提案する。
まったくかんがえてもみなかった解決策であり、
みんなその案に賛成する。
お風呂にはいり、ふとんをほして体調をととのえ(たしか)、
一糸みだれぬ分業のもとに、
ありえないほど超ごうかなカツ丼ができあがった。
満腹になって めでたしめでたし、というはなしだ。

なにかのからだにいったんなってしまったら、
ごまかしはきかないので、
椎名さんたちみたいに、まったくちがう方向から
解決をはかるしかない。
イネかりにむけて準備されたからだとこころを、
どうやってきげんよくべつのコースに着陸させるか。
わたしの場合は、ふたり分のお弁当をつめ、
作業着にきがえ、これから家をでるというときの中止だった。
ウォーミングアップがおわり、
やる気満々だったところではしごをはずされた形だ。
からだがちゅうにういてしまった。

まったく予定を空白にしてしまうと、
あいた時間をもてあまして あきらめがつかない。
とにかくなにかをしなくては、
このままずっとやさぐれた日になってしまう。
わたしにおけるカツ丼づくりはなんだろうか。
映画なんかがいいかもしれない。
きゅうなさそいにつきあってくれる女性はいないので
(きゅうでなくてもいない)、
ひとりで座席にすわったら さみしくなるだけだろうか。
それでつまらない作品にあたったら ますますすくわれない。
からだをうごかすという意味で、
サイクリングもひとつの案だけど、
イネかりのかわりはつとまらない。
かといって、本にも気もちがむかわないだろう。
雨でイネかりがとりやめになると、
おもっていたよりもずっと修正がむつかしい。
イネかりは、イネかりによってしかすくわれない。

中止がきまったとたん雨がやみ、
空があかるくなってきた。
きょうはどんないちにちになるのだろうか。

posted by カルピス at 09:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月25日

『カツ丼わしづかみ食いの法則』(椎名誠)カツ丼だけがもつ魔法のちから

『カツ丼わしづかみ食いの法則』(椎名誠・毎日新聞社)

サンデー毎日に連載されているエッセイ「ナマコのからえばり」シリーズの9冊目。
わたしは椎名さんのファンだけど、
1冊の本としてみると、そうおもしろいできではない。
そのなかで、ひとつだけよませるのが、
タイトルにもとりいれられている
「カツ丼がしがし親父の説得力」だ。
そのときのおっさんの食い方が素晴らしかった。カツ丼を左手でがっちり掴み、割り箸を右手に力強く「がしがし」と食った。絶妙の力配分で、がっちり掴んだカツ丼と箸の動きが躍動している。おっさんはいっときもカツ丼をテーブルの上にはおかず、ずっとがっしり左手で掴んだまま「がしがし」と食っている。ほりぼれするような箸と丼との連続技だ。ときどきオシンコをつまみ、味噌汁は箸を置いて右手で椀を掴んで飲む。カツ丼を持つ左手はあくまでもドンブリを掴んだままだ。

カツ丼が、いちばん実力のある日本食だとわたしはおもう。
目にうったえるちからも、お腹にはいったときの満足感も、
ほかの料理を圧倒している。
そして、カツ丼の実力をひきだすには、
ちまちました三角たべなんかふさわしくない。
親父さんのようにハシをおかず、連続技で
いっきにかきこむぐらいの熱意でむかわなければ、
カツ丼をくったとはいえないのではないか。

わかいころならまだしも、
いまのわたしには この親父さんみたいな
ただしいカツ丼のたべ方はできない。
つよい胃袋と、健全な食欲をかねそなえていなければ、
カツ丼の魅力をひきだせない。
もちろんカツ丼それじたいが、
それだけ夢中でかきこめるほどの
完璧なできでなければならない。
椎名さんが目にした「カツ丼わしづかみ食い」の現場は、
そのすべての条件をみたした
しあわせなであいだったのだろう。

椎名さんは親父さんのたべ方に感動したあとで、
世界の食い物のなかであのように食うべきものを片手でがっしり最後まで握ってそのまんま食っていく、という食い方はどれほどあるだろうか。
とつづけている。

おわんをしっかりにぎってたべるのは、
日本と中国だけといってよく、
ほかの国はどこも、お皿やおわんは
テーブルにおいたままたべるのが基本的な作法となっている。
お皿にのったカツ丼に、ナイフとフォークでむかったら、
これはもう カツ丼といえないだろう。
カツ丼は、おわんをかかえ ワシワシかきこむ日本で
生まれるべくして生まれたといえる。

それにしても、この親父さんは
みそ汁をすうときさえカツ丼をはなさなかった。
完全にマナー違反だけど、
迫力のあるたべ方のまえには
すべてがゆるされる特殊なケースだ。
『キッチン』(吉本ばなな)であきらかなように、
よくできたカツ丼には、状況をかえる魔力がある。
たとえば「カツ丼をおごるよ」といわれたら
だれでもたいていのことをひきうけるはずだ。
ラーメンやカレーといえども、この魔力はない。
すぐれたカツ丼だけがもつこのちからは、
たしかに「法則」といっていいのかもしれない。

posted by カルピス at 14:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

『黄金時代』(椎名誠) くらく、殺伐とした、しかしあきらかに椎名誠の原点

『黄金時代』(椎名誠・文藝春秋)

すこしまえによんだ『そらをみてますないてます』の前編にあたる作品だ。
中学から高校、そして写真の専門学校にかようまでの5年間が、
成長をおって 4編におさめられている。
著者自身が「青春喧嘩小説」というぐらい、ケンカの場面がおおい。

椎名さんによる、昭和30年代を舞台にした本をよむと、
おおくの家庭がまだ生きるのに精一杯で、
子どものことに気をくばる余裕があまりなく、
子どもは自分たちの世界であそび、たたかい、
つまり生きていたようにみえる。
『黄金時代』は中学生から20歳までの、
ひとによってはあかるい青春ともなる時期のはなしなのに、
「おれ」はかぎられた仲間としかこころをゆるすことができず、
殺伐とした気もちで学校生活をおくっている。
不良グループからよびだしをうけ、リンチにあったのをきっかけに、
ヤクザくずれのしりあいから ケンカのしかたをならう。
そして、本のおわりのほうでは、
高校のときのおとしまえをきっちりつけている。
たしかにこれは「青春喧嘩小説」だ。
ただ、「おれ」はケンカをするけれど、
すきでやっているケンカではない。
「おれ」が「おれ」であるためには、さけてとおれないケンカだった。

そんなくらい気分ですごした時期なのに、
この本のタイトルが『黄金時代』なのは、
椎名さんにとって あらゆる意味においての スタート地点だったからだろう。
これからどんな人間になるのかまるでわからない。
自分のやりたいこと、やるべきことを
自分できめて すすんでいった、原点ともいえる時期だ。
20歳以降が舞台の『そらをみてますないてます』では
しばしばクライマックスということばがつかわれていた。
「黄金時代」でえがかれる時期は、クライマックスではないけれど、
このくらく荒々しい日々がなければその後の椎名誠はなかったわけで、
まぎれもない「黄金時代」といえる。

『椎名誠 旅する文学館』というウェブサイトに、
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/sitemap
出版された本を作家としてのデビューから1冊ずつとりあげる
「椎名誠の仕事」というコーナーがある。
ききては目黒考二さんで、出版されたときの状況や裏話、
文庫になったときのタイトル名などをしることができる。
目黒さんによると、『黄金時代』は
「喧嘩のシーンは素晴らしい。問題はラストだね」
といい、
「なんとなく希望がみえてきたところで」おわるのがよくないのだそうだ。
わたしには、ひたすらくらいはなしより、
ひかりがさしてくるかんじにすくわれた、いいおわり方のようにおもえる。

わたしが椎名さんの本をよむようになったのは、
たしか『わしらは怪しい探検隊』からだ。
延々とはなしがよこみちにそれるばかばかしさが新鮮だった。
それ以来、旅ルポものを中心に、エッセイ集などをよむようになる。
小説やSFはなんとなく敬遠しつづけてきたけれど、
ずいぶんあとになって小説は手にするようになり、
よんでみるとどれもおもしろかった。
なかでも、高校生から20歳くらいまでの、けしてあかるくなく、
むしろ「すさんだ」といっていい時期の私小説がすきで、
『麦の道』や『そらをみてますないてます』、
そして今回の『黄金時代』がそのシリーズにあたる。
シーナ少年(あるいは青年)が、ひとにたよらず
おとなへの道をすこしずつすすんでいく つよい独立心にひかれるからだ。
これだけケンカにあけくれたくらい学生時代をすごしたひとは ほかにそうおらず、
スポーツではなくケンカで からだとこころがきたえられていくようすがすきだ。

「椎名誠の仕事」の企画がはじまってもう3年たち、
毎週1回、1冊ずつふりかえっているのに、ようやく2001年になったところで、
まだまださきはながい。
このコーナーには、これまでに何冊とりあげたのか、
かぞえるのがめんどくさいほど
ずらーーーーっと本のタイトルがならんでいる。
そのほとんど(SFと小説以外)をわたしはよんでいた。
すぐに手をあげるようなひとは苦手なのに、
椎名さんの暴力性には魅力をかんじる。
自分が椎名さんのような 迫力のある男には絶対なれないけれど、
わたしが理想とするひとつの男性像であることはたしかだ。

posted by カルピス at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする