2020年04月01日

言葉だけでなく、膨大なおもいをキャッチするネコたち

『希望という名のアナログ日記』
(角田光代・小学館)

角田さんは小学生のころから作家になりたかったのだそうで、
作文をかくのがたのしくてしかたなかったという。
おおきくなってからは、作文が小説にかわり、
おさないころから夢みてきた作家になれた。
作家になるまでのあゆみが、かなりセキララにあかされており、
そこまでかくのかと、おどろきがあった。
頭にあることを 自由自在に表現できるのだから
ちからのある作家なのだとおもう。
RCサクセション、というより、
忌野清志郎がだいすき、というはなし、
週末にランニングをしていること、
外国旅行ずき。
角田さんとわたしのこのみは かなりにかよっている。

ネコのはなしがおもしろかった。
 おりこうね、かわいいね、とちいさなものを褒めるとき、本当にその利発さやかわいらしさを伝えたいわけではない。私は猫が用を足しただけで「えらいねえ」と褒めるが、本当にそれが偉大な行為だと思っているわけではない。言葉にならない膨大な思いがあって、それをえらいだね、かわいいだのに押しこめているだけだ。

そして猫も、言葉ではなくその膨大な思いのほうをキャッチするのだろう。そのようにしか成立しない会話というものが、世界にはきっとあるのだろう。

ほんとうに。
わたしも家のネコ(ココ)がなにかをするたびに、
おりこーだねー!
かわいいねー!
すてきなニャンコだねー!
だいすきー!
とほめちぎり、濃厚接触のかぎりをつくす。
それはほんとうにかしこいからではなく、
わたしがココをすきだというおもいを、
これらの言葉で代用しているのだろう。

ことばでは、つたえられないおもいがあるけど、
おおげさにほめたたえて 自分の感情をつたえる。
用をたしてるネコをほめても意味はない、
というのはまちがいで、
ひとからみとめられていると実感しているネコは、
かわいがり、声をかけると、まんざらではない表情をする。
その表情ができるネコは、愛されてそだったネコで、
表情ゆたかに自分の気もちをうったえてくる。
愛されて、まんざらではない顔をするネコがわたしはすきだ。

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2014年10月20日

『紙の月』(角田光代)よんでいるうちに おそろしくなってくる 心理小説

『紙の月』(角田光代・ハルキ文庫)

プロローグは、主人公の女性(梨花)がチェンマイで逃亡生活をおくっている場面。
つとめていた銀行から、1億円を横領したという。
そのお金をどうつかったのか、いまもまだもっているのかはあかされていない。
この本は、事件がおきたところからスタートし、そこからさかのぼって、
ありふれた日常生活が、なぜこんな事件に発展してしまったかの経緯がかたられる。

といっても、1億円という大金は、
銀行強盗や なにかの大作戦で手にいれたわけではなく、
ささいなつみかさねの結果であり、
はじまりは ほんのわずかな金額にすぎない。
なにかのきっかけにより、ひとはどんな状況にもおちいってしまうのだと、
よんでいるうちに おそろしくなってくる小説だ。

たまたまであった若者(光太)との関係が、ふとしたことからふかまっていく。
服をかい エステを予約し たかい料理をたべ よいワインをえらび ゴージャスな部屋をかりる。
むこうからたのまれてではなく、ぜんぶ梨花が自分からやったことだ。
はじめはただの若者にすぎなかった光太なのに、
いつのまにか自分をひとりの女とみとめてくれる
かけがえのない存在となり、
たのまれてもいないのに、光太の借金をかたがわりし、
旅行費用をたてかえ、部屋までかしあたえる。
どうにもぬけだせないワナにかかったように、
梨花の金づかいはどんどんエスカレートしていく。

たまたまもっているお金がたりなかったとき、
たまたまお客から現金をあつかる依頼があり、
そのお金をほんの一時的にかりたのがはじまりだった。
そうしたいろいろな要素が偶然にかさなり、
気づいたときには お金に依存した生活からぬけだせなくなっていた。

なにが原因でそんなことになったのか。
もともとの性格か、夫との生活への不満か。
誠実に仕事をこなし、お客からも信頼をえて、
なんも問題なく くらしていたのに。
きっかけはいろいろあるものの、
そのどれもが直接の原因とはおもえない。
いっけんありえそうにないのに、
じつはだれにでもおこりうることだと
リアリティをもたせるのが角田さんはとてもうまい。
いったいお金をいくらつかったのかが
だんだんわからなくなっていくこわさを、
まるで自分の身におきているようにかんじながらページをめくる。
お金とは、こんなふうにかんたんになくなっていくものなのだ。
事件などと 関係あるはずがないとおもっている わたしの生活も、
じっさいは どっちにころぶかわからない、きわめてふたしかなものにすぎない。

わたしは1億円を横領しての逃亡生活ということから、
そしてチェンマイの町をさまようプロローグから、
お金を武器に当局とわたりあい、へろへろになりながら
東南アジアの国々を移動しつづけるはなしかと期待していた。
角田さんは、こういうにげまわる設定がすきみたいだし、
しょぼい逃亡はもういくつも本にしてきたので、
今回は1億円にものをいわせてエンタテインメントにしあげるのかと。
残念ながらわたしのねがいはかなわなかったけれど、
いつかはゆたかな旅行経験をいかして
あっとおどろく逃亡小説にしあげてくれるのを期待したい。

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2014年07月27日

『森に眠る魚』(角田光代)「お受験」をめぐるママ友たちの心理

『森に眠る魚』(角田光代・双葉社)

幼稚園にかよう子をもつ母親たちの「お受験」もの。
4人の専業主婦と、「お受験」をくぐりぬけてきた元ママの計5人が
おもな登場人物だ。

ものがたりのはじめでは、
4人の主婦が、おたがいにいいママ友をもててよかった、とおもっている。
自分とにたような価値観をもつママ友は、
おたがいに気のやすまる存在だ。
でもそのうちに、「お受験」をめぐって
だんだんと気もちのすれちがいがでてくる。
「お受験」をさせるか、させないか、
どこの学校がいいか、
そのためにはどこの教室にかよって 準備をしたほうがいいのか。
体験レッスンをうけたいけど、ほかのひとにはしらせたくない、などなど。

このすれちがいから、疑心暗鬼がうまれ、
5人とも精神的につらいところにおいこまれていく。
5人の性格が複雑にからみあい、
せまい世界へおいこまれていくようすがおそろしい。
それまであこがれていた生活をおいもとめるだけでは
しあわせでいられないことに やがて全員が気づくことになる。

「お受験」に関心のないわたしにとって、
そうした環境でいきる親たちを たいへんだとはおもうものの、
正直なところ、どうでもいいようなことに神経をつかう
彼女たちの価値観が理解できない。
5人の女性とも専業主婦で、夫はほとんど子そだてに口をださない。
女性たちは、けっきょくヒマな時間がおおすぎるから
なやみをかかえてしまうだけにわたしはおもえる。

高級マンションにすみ、部屋のなかは まるでグラビアでみた写真みたいにととのっており、
ブランドものの服に高級外車と、絵にかいたようなくらし。
子どもはもちろん有名な学校にかよっている。
こういうくらしに当然のものとしてなじめるひとはいいけれど、
以前からのあこがれとしてたどりついたひとは、
あとになってゆがみがでてくる。
しあわせだといいきかせてきた自分にたいする疑問だったり、
子どもが精神的にダメージをうけていたり。

わたしのことでいうと、「お受験」にまったく縁のない生活をおくってきた。
自分が子どものときにもそうだったし、
自分の子どもについても「お受験」を体験しなかった。
これは、ちいさな町にくらしているという環境と、
収入によって規定される階層のちがいからくるのだろう。
私立にするか、国立にするか、公立にするか、
わたしが子どものときも、わたしの子どものときも、
そもそもほとんど選択肢がない。
その「ほとんどない」なかで、
いちぶの階層にぞくするひとたちは、
それなりに「お受験」を体験されたのではないか。
わたしには気がつかなかっただけで、
わたしのまわりにも「お受験」があったのだろう。

「お受験」のことをきけば、だれだってそんなに無理をしなくても、
とおもうにちがいない。
それなのに、おおくのひとが「お受験」にからめとられてしまうのは、
よりうえをめざそうとする親たちの価値観が一般的なものだからだ。
わたしとしても、自分には関係ない、とおもっていても、
配偶者が「お受験」に価値をみいだしてしまったら、
父親としてなにがしかの決断をせまられる。
わたしがいちども子どもの進路について心配したことがなかったのは、
わたしの信念というよりただのなりゆきにちかい。
ひごろ町でみかけるお母さんとおさない子どもたちは、
こんなにも どうでもいいようなプレッシャーにさらされているのか。

ヨーロッパだけでなく、日本も階級社会で、なんてよくいうけど、
めざせばうえにあがれる柔軟な構造は、きびしい階級社会とはいわないだろう。
へたに選択肢がゆたかなだけにあきらめがつかず、
自分にふさわしくないうえの階級を夢みてしまう。
そのひずみが、やがて子どもに、そしてけっきょくは自分にもおよんでくる。
自分がうえのくらしにあがろうと努力するのはいいとしても、
子どももまたうえの階級にあげようと「お受験」をセットでかんがえると、
子どもはたいへんだ。
ちいさいころは、いろんなことができるようになりやすいので、
商売として、あるいは産業としてつけこまれてしまう。
わたしのむすこがかよった保育園は、よみ・かきをおしえない方針だった。
わたしは、それでいいとおもった。

「お受験」だけの小説ではないのだろう。
目的としてめざしてきたことが、やがて自分の意識をはなれ、
状況にふりまわされていくようになる。
それまでうたがったことのない自分の価値観が
どれだけしっかりとした根をもたない ふたしかなものかに気づく。
だれにも自分を完璧にコントロールすることなど できない。
自分たちがめざしてきたゆたかなくらしとはなんだったのか。

角田光代さんは、本のさいしょに登場させた5人のその後を、
最後にぜんぶひっくりかえしてしまった。
そのたたみかけが角田さんならではのものとはいえ、
わたしたちの生活は それぐらいこころもとないものなのだ。
夫たちは、みんなふつう男だったのに、ほとんど存在感がなく、
彼女たちのちからになれなかった。
しかし、ふつうの男だったからこそ、家族はこわれずにすんだのかもしれない。
現実はもっと悲惨なのだろうか。

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2014年07月20日

『ツリーハウス』角田光代による 壮大でかるい家族小説

『ツリーハウス』(角田光代・文春文庫)

本のまんなかくらいでわたしはやっと気づいた。
これは大河小説だ。
でも、それにしてはずいぶんかるい。
昭和初期から平成にかけて、日本社会のうごきを背景に、
ある日本人家族のうつりかわりをたどる。
ものがたりがすごく地味にはじまり、
とてもそんなおおきな小説とはおもえなかったので、
さほど期待せず、なんとなくよみすすめていた。

20代の青年、良嗣の家は、祖父の代から「翡翠飯店」をいとなんでいる。
家で療養中だった祖父がある日なくなり、
そのせいか祖母はすっかりげんきをなくしてしまった。
口をひらけば「帰りたい」という。
ボケたのかと良嗣は心配したけど、もしかしたら
祖母がわかいころすごした満州へ
かえりたいといっていのかもしれないとおもいついた。
祖母はそこで祖父とであい、戦争がおわってから日本にひきあげてきたという。
良嗣は旧満州への旅をおもいつき、祖母をさそって大連へと出発する。

ものがたりは、旧満州をおとずれた良嗣と祖母のうごき、
そして祖父と祖母が満州でスタートさせた藤代家の家族史と、
ふたつの時間軸でかたられていく。
満州からひきあげると、祖父たちは東京で「翡翠飯店」をはじめる。
日本の経済成長にものっかって、
店はなんとかたべていけるくらいに繁盛する。
まずしい生活ながら、やがて家にテレビがはいり、
世間では浅間山荘事件事件がおき、
茶の間でピンクレディーのものまねをする。
時代の波にもまれながら
藤代家の3世代は成長し、家族をつくり 子をそだててゆく。
昭和から平成へと、ときがうつっても、家族のひとりひとりが、
お約束のようにまえの世代がたどってきた歴史をくりかえす。

良嗣は、自分の家がまわりとはどこかちがう へんな家族であることをかんじていた。
仕事をやめてもとくになにかいわれるわけでもないし、
ひきこもりのおじの存在も、なんとなくみとめられている。
旧満州をたずねたことで、良嗣は祖父母だけでなく、
両親についてもすこしずつしるようになる。
母が一流大学を卒業していたこと、
父はマンガ家をめざしていたこと、
ふたりが恋愛結婚だったこと、
ひきこもりのおじがむかしは教師だったこと。
家族間のむすびつきがつよいとか、
おたがいがあいてをおもいやってくらしているとか、
そんなきれいごとはいっさいなくても、
これはこれでわるくない 家族のありかたに良嗣はおもえてくる。

たかい理想にむけてつきすすんでいるひとたちではない。
親世代は自分たちがにげてばかりいたやましさがあるし、
子どもたちにしても、仕事にやる気がなかったり、
学生運動にかかわったり、仕事をしないで自分さがしをしたり、
ろくでもない男にひっかかったりと、
まともなのがいないのに、「翡翠飯店」には不思議な求心力がある。
店が繁盛しているうちはなんとかなるし、
かたむいたとしても、「翡翠飯店」はすがたをかえて再スタートする。
家族のむすびつきについてかかれているわけではないのに、
全体としては家族小説というよりない。

477ページと、けしてうすくはないが、
70年にわたるものがたりなのだから、
角田さんはもっと壮大な大河小説にすることもできたはずだ。
もったいないような気もするけど、
豊富な材料を角田さんらしく料理して
おもくなりすぎないようにしあげたとみるべきだろうか。
藤代家の歴史を淡々とおいながら、
さいごまでおもしろくよませる角田さんのちからに いつもながら感心する。
日本の近代史でもあり、藤代家の家族史でもあり、
家族とはなにかについてかんがえる本でもあった。

家族とはなにか。
もちろんこたえなんかない。
なにかの目的のためにあつまった集団ではないのだから
どんなかたちでもいいといえる。
藤代家の方向性は祖父たちがしめした。
根となるものなどもたなくてもいい。
自分のことしかかんがえないときがあってもいい。
いきあたりばったりでもいい。
それでもバラバラにならなかったのは、
祖父たちの世界観がおおきな影響をあたえている。
にげてばかりでも、ひとのやくにたたなくてもいい。
ただ生きていければ、それでいい。

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2014年04月28日

『カップリング・ノー・チューニング』(角田光代)B級トホホ作品の傑作

『カップリング・ノー・チューニング』(角田光代・河出書房新社)

かったばかりの中古のシビックにのりたくて、
「ぼく」は友だちの家をたずねてまわる。
かっこつけたくて、きめたくて、それしか頭にない
どこにでもいそうなかるい男の子だ。
シビックをみせびらかせたかったのだけど、
「ぼく」のはなしにつきあってくれるほどひまなやつはいない。
かんがえてみれば、中古のシビックなんて
ひとに自慢できるような車ではない。

高校1,2年のときおなじクラスだった春香の家をたずねる。
春香みたいにふにゃふにゃした女はすきではなかったけど、
ほかにはなしをきいてくれる友だちがいないからしかたなかった。
春香は車をみるだけでは気がすまず、のせてほしいといいだす。
おりろといわれたらどこでもおりるから、
一日だけでものせてほしいという。
一日だけ、といったくせに、
春香はおおきなボストンバッグをさげて車にのりこんでくる。
どこに、なにしにいくのか、あてがあるわけではない「旅」がはじまる。

車のなかで春香は、高校のときみたいに、
あいかわらずふにゃふにゃしたはなし方をする。
高校のときの、中学校のときの、どうでもいいはなしを延々とつづける。
ラブホテルにはいっても、なんだかんだいってやらせてくれない。
なんでこんな女をのせてしまったのか、「ぼく」はだんだんうんざりしてくる。

ようするに、これはトホホ感いっぱいのロードムービー小説なのだ。
おなじ著者の『キッドナップ・ツアー』は、
ロードムービーという枠ぐみはいっしょだし、
トホホなお父さんがでてきたけど、もうすこしピリッとしていた。
お父さんがへんなぶんだけ、女の子はまともなにそだっていた。
この『カップリング・ノー・チューニング』はそうではない。
どこまでもしまらないはなしだ。
角田光代の作品として、あまりいいできとはおもわない。
でも、わたしはこういうトホホ作品がだいすきなのだ。
知的な青少年もいいけれど、この作品にでてくる「ぼく」みたいな
等身大主人公にもすくわれる。
高校生のときによんでたら、きっとおおよろこびしていただろう。
なんていうことのないこういうB級作品でも、さいごまでよませるから
角田光代はたいしたものだともいえる。

春香のあと「ぼく」は2人の女性をシビックにのせることになる。
ひとりはつきあっていた男からにげている。
もうひとりは、沖縄にいくのにヒッチハイクをしている女性。

「ぼく」はかるいけど、わるいやつではない。
2人目にシビックにのせた女性は
すきな映画が『スモーク』といってるのに、
「ぼく」は『小さな恋のメロディ』なんていいだす。
小学生のときみて感動し、それから10回もみてるのだそうだ。
たしかに『小さな恋のメロディ』はタイトルから想像されるような、
チャラチャラした作品ではない。
当時のイギリス社会のいきづまったかんじがよくあらわれている
すてきな映画だ。
でも、ここではそんなこと関係ない。20歳の男の子は、
とくに女性のまえで『小さな恋のメロディ』がすき、なんていってはいけないのだ。

それに、「ぼく」は15万円の中古シビックに
「ネモ号」なんて名前をつけてしまう。
いくらかっこいいスニーカーできめようとしても、
おぼっちゃん性をけせないぐらいいいやつなのだ。

ダサいことをおそれるどこにでもいそうな男の子。
シビックにのせた3人の女性は、
それぞれ「ぼく」がおもいえがいている世界と
ちがうところで生きている。
「ぼく」は、ささやかな体験をつむうちに、
いったいなにがかっこいいことなのかわからなくなってくる。
世界はへんなやつばっかりなのだ。

3人目にのせた女の子は、沖縄へいく、といって
「ぼく」のさそいをことわり、ひとりで車からはなれていった。
サービスエリアにあったゴミ箱に、それまではいていたビーチサンダルをおしこむ。そんなふうに、それまで大切にしていたものをかんたんにすてる女の子をみて、
「ぼく」もまた自由にすきなところへいけるようになりたいとおもう。

だれかとはなしたくなって、電話ボックスからしりあいの番号にかける。
いそいでいたせいか、番号をまちがえたみたいで、
電話にでたのはききおぼえのない ちいさな女の子の声だった。

「どこだかわからない場所で、
だれだかわからない相手としゃべっている自分がおかしくて、
ガキの声に答えながらふきだしそうになる。(中略)
もしどこかに行きたくなったら、行き先なんてわからなくても、
何ひとつ目的がなくても、とりあえずどこかへ行きたくなったら、
となりに乗せてあげるよ、と言いたくてたまらなくなる」

いきさきなんか、どこでもいいし、
目的なんかなくてもいい。
どこかへいきたくなることが大切なのだ。

電話ボックスをでたときに「ぼく」は

「ずいぶん涼しくなったもんだ、と、独り言を言った」

それまでの「ぼく」は、ひとりごとをいうような人間ではなかった。
ひとりでのりこえるつよさを身につけたから、
ひとりごとがいえるようになったのだ。
いまではひとをたよらずに、自分をはなしあいてにして、
ひとりでやっていける。
ショボい「旅」だったし、なにかをなしとげたわけではないけど、
「ぼく」はふかい充実感とともに「ネモ号」にもどった。

トホホだけど、そんなにわるくないはなしだ。
カフカくんほどかしこい男の子ではないけれど、
「ぼく」のみじかい旅だって、おわってみれば一皮むける体験となっている。
こんな無防備な旅は、わかいときにしかできない。

(本書は、2006年に河出書房新社から文庫として出版されたとき
『ぼくとネモ号と彼女たち』というタイトルにかわっている。
『カップリング・ノー・チューニング』じゃあ、
たしかにぜんぜん意味がわからない。
かといって、あたらしいタイトルもそんなにいいとはおもわないけど)

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする