2013年12月26日

『いつも旅のなか』(角田光代) 旅が年齢とつりあわなくなること

『いつも旅のなか』(角田光代/アクセス・パブリッシング)

ラオスを旅行中、角田さんは「なんかつまんない」とおもいはじめる。
安宿にとまり、屋台で食事をし、自分の足でくまなく町をあるきと、
以前とおなじことをやってもたのしくない。
町ともしたしくなれず、なんとなく調子がでない。

そんなときに、角田さんはわかい日本人カップルにであう。
彼らは旅行中にしりあい、意気投合して
いっしょにうごくようになった旅行者だった。
ふたりの関係がわかったとき、角田さんは「つまんない」とかんじる。
この「つまんない」は旅行中にかんじていた「つまんない」とよくにていた。
そして角田さんは理解した。

「以前までの旅の仕方が、私にはもう釣り合わないのだと」

このときの角田さんはまだ32歳で、まだわかいともいえるだけに、
まさか自分がかわったから「つまんない」なんて、
しんじられなかったのだろう。

「旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、
その年齢でしかできない旅がある。
このことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。(中略)
自分の年齢の重ね具合と、最大限に楽しめる旅具合を、
目下調整中、といったところか」

経験や経済力とは関係なく、
角田さんは年齢だけに焦点をあてている。
一般的にいって、歳をとればお金に余裕ができる一方、
体力はだんだんとおとろえていく。
でも、どんなにわかいころの体力をたもっていたとしても、
20代前半にふさわしい旅は、
20代前半にしかできないというのがこわいところだ。
わたしの旅デビューは26歳のときで、
なんの経験もないから効率のわるいうごきしかできなかった。
そもそもうまくやろうなんていう余裕がないので、
目にはいるもの、自分の身におこったことを、
からだひとつでうけとめていたようにおもう。
それしかできなかったわけで、
たしかにわかく、無知で、そのぶん印象にのこる旅行となっている。
水シャワーなんてあたりまえだし、
やすさから、個室より当然ドミトリーをえらんでいた。
旅とはそういうものだとおもっていたのだ。
そうおもえるのがわかさなのだろう。

年齢によって旅のおもしろさがちがってくるのは
あたりまえといえば、あたりまえのはなしだ。
ふつうは歳をとるとお金のかかった格好をし、
いいホテルをえらんだりとスタイルをかえる。
角田さんは以前とおなじようなこぎたない服装で、
デイパックをせおって旅をしていたのに、
旅との温度差をかんじたことが、よほどショックだったのだろう。

仕事や恋愛に年齢がからんでくるように、
旅にもまた、年齢があった。
よく、歳のことなんかかんがえないほうがいい、
というひともいるけれど、
わたしは角田さんの「発見」に賛成だ。
歳相応ということをはずすとまわりからみて「いたい」し、
本人もけっきょくは「つまんない」おもいをする。
旅に年齢があるのだから、ほかのことにも
それなりの年齢があるとおもったほうがいいだろう。
すべてに年齢がある。
だから歳をごまかして生きるべきではない。

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2013年11月10日

『私たちには物語がある』(角田光代)ほんとうに、なんというありがたいこと

『私たちには物語がある』(角田光代・小学館文庫)

いいタイトルだ。
『私たちには物語がある』。

角田さんが、どのように本とであい、つきあいをふかめてきたか。
1章のサブタイトルである「本のある世界でよかった」は、
本という存在について、まさに角田さんがかんじている率直な気もちだ。
どの「感想」にも、その本のすばらしさがかいてあるなかで、
ジョン=アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』についてのものは、
とりわけ角田さんの感動がつよくかたられている。

10代のころから、なんどもよもうとしたものの、
角田さんはなかなかこの本の「おもしろさ」に
はいっていけなかったという。
しかし、36歳になったとき、なにかのきっかけでふたたび手にとり、
気がつけばのめりこんでいた。

「下巻のなかほどまで読み進めたころだと思う。
ベッドのなかで読んでいたのだが、
唐突にわたしは至高感に襲われた。
こんなにおもしろいものが世界にはある。
本が、物語がある世界とは、なんとすばらしいのだろう。
私はなんとすばらしい場所で生き、
なんとすばらしいものを享受しているのだろう。(中略)
ほとんど泣きたいくらいの至高感だった。
あれはもしかして、読書ハイというものだったのかもしれない」

この本は、角田さんがよんできた170冊ちかくの本についての
「感想」(書評ではないそうだ)をあつめたものだ。
わたしがすきな本もいくつかあり、
それについての「感想」をよむのもいいし、
「つまらない」とわたしがかんじた本について、
角田さんがどんな「感想」をのべているかもたのしい。

角田さんは、『星の王子さま』での体験から、

「以来、私はおもしろいと思えない本を読んでも、
『つまらない』と決めつけないようになった。(中略)
つまらない本は中身がつまらないのではなくて、
相性が悪いか、こちらの狭小な好みに外れるか、
どちらかなだけだ。(中略)
つまらない、と片づけてしまうのは、
(書いた人間にではなく)書かれ、すでに存在している本に対して、
失礼である」

という態度でせっするようになる。
「すでに存在している本に対して、失礼である」
というところがすばらしい。

わたしはジョン=アーヴィングを
村上春樹さんの本でおしえられてよみはじめ、
『ホテル・ニューハンプシャー』は大切な一冊
(文庫だから2冊だけど)になっている。
角田さんがおぼえたという至高感は、
そのままわたしの気もちだ。
『星の王子さま』にははいりこめなくて
とちゅうでなげだしてしまった。
それぞれの本とのであいをおもいだしながら、
「私たちには物語がある」という角田さんに
はげしく共感した。

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2013年10月25日

『さがしもの』(角田光代)旅と本について角田さんがかけばこんなおもしろい本になる

『さがしもの』(角田光代・新潮文庫)

本にまつわるはなしをあつめた短篇集だ。
象徴的なのが『旅する本』で、古本屋にうった本が、
どこまでもついてくる、というはなし。
卒業旅行でおとずれたネパール、仕事でたちよったアイルランドで、
「私」は高校生のときに古本屋にうった本をみつけてしまう。
おなじ題名の別の本ではなく、高校生だった「私」がらくがきをした、
「その」本だ。
旅さきでよみかえしてみると、まるでおもいちがいしていたことに気づく。

「主人公の友達の妹だと思っていた女性は
彼の恋人だったし、
彼らはホテルを泊まり歩いているとなぜか思いこんでいたが、
実際は、安アパートを借りて住んでいた」

3ど目を、アイルランドでよんだときも、
その本はまた意味をかえていた。

「そして私は、薄暗いパブの片隅で気づく。
かわっているのは本ではなくて、
私自身なのだと」

べつの短編『だれか』では、
タイのサムイ島で片岡義男の本をみつけ、
マラリアの熱にうかされながらなんどもよみかえす。
どんなひとがこの本をここにもちこんだのだろう。
想像しているうちに、
「突然私の頭のなかで、そのだれかがはっきりとした輪郭を持つ」
部屋のなかにちらかしたコンビニ弁当の空箱など、
すごくリアルにひとりの男性が南の島に旅だつまでをおもいえがく。

わたしも以前ポカラの古本屋さんにお世話になったことがあり、
個人的ななつかしさもあってたのしくよめた。
ポカラもカトマンズも、日本人旅行者がおおいことを反映して、
何軒かの店に日本語の本がコーナーがつくられていた。
かうときはそれなりの値段がしたけど、
よみおえて、もういちどその店にもっていくと、
かったときの値段の半額でひきとる、
というシステムだった。

旅さきのゲストハウスや古本屋さんでみかける本は
あまりわたしのこのみと一致しない。
本はおもい荷物となってしまうものだから、
自分にとって大切なものを慎重にえらびそうなものなのに、
ちょっとヒマをつぶせたらいいや、
という目的でえらばれた本がおおいような気がする。
ヒマつぶし用の本だから、古本屋にうったともいえるけど。
とにかく、日本語の本は貴重だったので、
手にできたときはありがたくよんだ。
司馬遼太郎と赤川次郎のおもしろさをしったのは、
旅行さきのゲストハウスだ。
ヘルマン=ヘッセの『荒野のおおかみ』をよんだときは、
運命的なであいだとおもいこんだ。
これはわたしのためにかかれた本であり、
なんでこのひとはわたしのことがこんなにわかるのかとおどろく
はじめての体験だった。

片岡義男をサムイ島にもちこんだ男について、
こまかな点まで想像してひとつのストーリーをつくってしまうのは、
本をえらぶには、それなりの理由があったはず、と
角田さんがかんがえるからだろう。
また、旅と本とはとても親和性がたかい。
よむ場所と気分がおたがいに影響をあたえあい、
旅行での読書ならではの特別な体験となる。

この本は、旅ずきの角田さんと、本ずきの角田さんが、
本と旅をテーマにかくという、とびきりの短篇集となった。
よみおえたあとで、「このはなしはよかった」「これもまたいい」と、
いくつものはなしに、わたしはおもわずメモをのこした。
旅と本を角田光代が題材にすれば、
こういうすてきな本ができあがる。

旅さきでよむ本について。旅をする本について。
旅はからまないけど、本についてのはなし。
どれもそれぞれに、角田光代ならでは短編があつめられている。

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2013年10月23日

『今、何してる?』(角田光代)角田さんはなぜ旅にでるのか

『今、何してる?』(角田光代・朝日新聞社)

「どうしても旅慣れることができない」

「慣れない旅に出る理由」というエッセイのかきだしだ。
これまでにたくさんの旅行者をかいてきた角田さんが
こんなことをいいだしても、とてもしんじられないけど、
角田さんの旅の、ある一面をあらわしたことばなのだろう。
角田さんの小説にでてくる登場人物のおおくが、
あまりお金をもたず、アジアの国々をあてもなくさまよっている。
いくら小説の登場人物は作者と同一ではない、といっても、
角田さんもまた、おなじようなスタイルで旅行をしてきたひとだとおもう。

角田さんにおける「旅慣れなさ」とは、
「いったいなんだって私はこんなところにいるのだろう?」
とついおもってしまうことなのだという。
このエッセイでは、モンゴルを旅行しているときに
大粒の雨がふりだし、びしょぬれになってビルの軒先に非難する。
角田さんは例によって「なんだってわたしは・・・」とため息をつく。

そんなときに、黒い野良犬がきゅうにとびだし、
車にひかれてしまったのだそうだ。
おおきな外傷はないものの、すわりこんだままその場からうごかない。
このままでは、べつの車にほんとうにひかれてしまう。

「どうしよう、と思ったその瞬間、
どこからか四人のちいさな子どもたちが走り出てきた。
行き交う車にクラクションを鳴らされながらも犬に近づき、
四人で犬を抱き上げて、路地へとつれていく。
ビルの陰に犬をそっとおろすと、
子どもたちはまたどこかへと走り去っていった。(中略)
いったい私は何を見たのか。(中略)
神さまのつかいだったのではないかと本気で考えた。(中略)
こういうなんでもない、しかし奇跡にも似た瞬間をこの目で見るために、
私は慣れない難儀な旅を、この先もずっと続けていくのだろう」

わたしはいったいなにをもとめて旅行にでるのだろう。
わかいころの旅行に理由なんてとくになく、
ただいってみたいから。いかずにはおれなかった。
以来、なんどかの旅行にでかけながら、
わたしも角田さんがいっているのとおなじ意味において、
いつまでも旅なれない。
ささいなことにビビり、不安になり、
うまくいかないとずいぶんガッカリしてしまう。
旅行にでると、わたしはじつは旅行がすきではないのかも、
とおもえたりする。
目のまえの景色よりも、
どうでもいいようなことを頭のなかでいじくりまわしている。
それでもわたしは、日本にいるときよりも
ずいぶんと素直になる自分をしっている。
土地のひととはなすときなど、妙にあかるくふるまったりして、
わたしはこんなおりこーちゃんだったのか、と
びっくりしたりする。
わたしは、外国にいるときの自分のほうが気にいっている。
それもわたしが旅行にいきたがるひとつの理由だろう。

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2013年10月08日

『幸福な遊戯』(角田光代)

『幸福な遊戯』(角田光代・角川文庫)

短編が3つおさめられた作品集。
1990年にかかれた表題作『幸福な遊戯』が
角田光代のデビュー作なのだそうだ。
デビュー作にその作家のすべてがあらわれる、
ということを実感する。

『幸福な遊戯』では男女3人での共同生活がえがかれる。
なにをしてもいいけど、「同居人同士の不純異性行為」だけは禁止で、
といいながら、そのとりきめは1ページ目でやぶられる。
角田光代の小説には、夫婦ではない男女の共同生活がよくえがかれる。
いまでいうシェアハウスだけど、
「私」は家族との生活でえられなかったなにかを
この家でのくらしにもとめているので、
シェアハウスほど距離感のある関係ではない。

ふたつめの作品の『無愁天使』では、なにも説明のないまま
「私」がいろんなものをかいあさる。
ものがあふれかえる家で、
ここでも「私」はなにかをとりもどそうとしている。
3編目の『銭湯』では、就職しないと母親に宣言したくせに、
どうでもいいような仕事についてもんもんとする「私」が
毎日銭湯にかよう。

「私は天井を見上げ、天井がただの天井であることに
なぜか安らぎを覚えた」(『無愁天使』)

3作ともどこからどこまでも角田光代の作品だ。
デビュー作とはたいしたものだとおもう。

「解説」で、本屋さんの売場担当者とはなしたときのことを
永江朗氏がかいている。

「角田光代さんって、本屋が応援したくなる作家なのよね」(中略)
「大ベストセラーがあるわけではないし、
テレビや雑誌のグラビアにしょっちゅう登場するわけでもない。
大きな賞をたくさん受けているわけでもない。
だけど、私たちが読んで、本当にいい作品だ、と
心から思えるような本を書いている人」
「もう一押しでメジャーになるだろうから、
その一押しを私がしてあげたいって思う」

この文庫本がつくられた2003年当時の角田光代は
そういう存在だったのだ。
もっとも「作品のすばらしさに比べて」ということであり、
それまでもおおくの賞を受賞されている。
この店員さんのように
「一押し」したいとおもったひとがかずおおくいたようで、
それ以降の角田光代の評価と充実、それにうれゆきはすばらしい。
どの本も角田光代ならではの世界観がえがかれており、
たくさんよめばよむほど、
それらの作品が頭のなかでミックスされ、ぐちゃぐちゃになる。
そのすべてのスタートは、この『幸福な遊戯』にあったのだ。

posted by カルピス at 09:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする