2019年12月20日

納豆に糸ひきをもとめるのは、たんなるおもいこみ

ラジオをきいていたら、納豆をテーマにはなしていた。
納豆に、タレとからしをかけてから かきまぜるのはゆるせない、
という つよい意見がよせられていた。
番組側も予想していたこだわりらしく、
やっぱりでましたね、という反応だった。
タレをかけてまぜると、 糸をひきにくくなるらしく、
糸ひきが納豆の命とかんがえているひとは、
それがたまらなくいや、ということらしい。
ちいさなことにこだわるのは、
個人的なあそびとしてたのしいかもしれないけど、
まわりのひとにも 自分のこのみをもとめたりすると
いっきにめんどくさくなる。

高野秀行さんの『謎のアジア納豆』をよむと、
納豆が日本独特の食品ではなく、世界各地でたべられており、
日本は むしろおくれている地域としてとらえられている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/439220603.html
糸ひきにこだわるのは日本人ぐらいだそうで、
たんなるおもいこみにすぎない。
むかしの日本人は、納豆をごはんにまぜるより、
おおくの場合、汁にいれてたべていた、というから、
ねばりこそが納豆のよさ、なんて、ますますどうでもよさそうだ。
どうでもいい、とかんがえるわたしより、
糸ひきにこだわるひとのほうが
食をたのしんでいるのかもしれないけど、
そうしたどうでもいいことであそぶのが
このごろつくずくめんどくさくなってきた。
こだわりなく、なんでもおいしくいただきたい。

けさの朝日新聞で、東畑開人さんの『居るのはつらいよ』が
大佛次郎賞にえらばれたとほうじられている。
わたしがこの本をしったのは、東畑さんと高野さんの対談を、
「週刊読書人」で目にしたことがきっかけだ。
高野さんがすすめるのなら、とよんでみると、
ほんとにおもしろかった。
辺境作家の高野さんは、だれもいかないところへいき、
だれもしないことをかくのが仕事であり、
読書においても、ひとがあまりよまない本にまで
目をくばり、紹介してくれる。
このみの本にであうには、こんなふうに、
自分のすきな作家のおすすめが とても参考になる。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月20日

高野秀行さんに背中をおされ、SF古典がよみたくなった

『本の雑誌』11月号から、高野秀行さんの連載がはじまっている。
タイトルは、「SF音痴が行くSF古典宇宙の旅」。
SFはにがて、とおもいこみ、
これまでさけてきた高野さんが
『三体』をきっかけとして、SFへの意識がかわった。
 どうやら私は今までSFに対して何かネガティブな固定観念に縛られていたらしい。「難解」「過度に科学哲学的」「ひとりよがり」「メカ好きのオタクやマニアの読み物」というような。

高野さんは、SFがすごくおもしろい世界だと気づき、
「今こそ最後の秘境、SF古典宇宙の旅へ漕ぎだそう!」
とSFの古典をよみすすめていく。
1回目の11月号では『星を継ぐもの』(ホーガン)、
2回目の12月号では『夏への扉』(ハインライン)と
『幼年期の終わり』(クラーク)がとりあげられている。

わたしもSFがにがてで、古典といわれる上記の作品を
ひとつもよんでいない。
なんとなくSFを敬遠してきた高野さんの気もちがよくわかる。
よめばそれなりにたのしめる本がおおいけど、
よみだすまでのしきいが やたらとたかい。
理科や物理がさっぱり理解できなかったトラウマかもしれない。
例外は、フレドリック=ブラウンのSFで、
ブラウンは、ミステリーとSFの両方をかく作家だったため、
ブラウンのかいた本をすべておさえたかったわたしは、
ミステリーだけでなく、SFの本にも手をだした。
SFにもいろんなジャンルがありそうで、
ハードなSFだとわたしにはついていけなくても、
ブラウンのSFは わかりやすく、わたしでもたのしめた。

こんかいの企画で、高野さんがタイトルをあげて紹介するSFは、
どれもきいたことがあり、評判をしりながらよんでこなかった。
いつかはよもうと、古本屋さんでみかけたときにかい、
本棚にならべている本もある。
よみたい気もちがありつつ、なんとなく敬遠してしまう
わたしのようなSF初心者には、
高野さんの連載のように、背中をおしてくれるひとことが必要だ。
(『夏への扉』を)読んでみた感想は、「これ、ビートルズじゃん!」。ビートルズはロックだが、いまやロックが全然好きでない人もふつうに聴いて楽しんでいる。世の中にはこういうジャンルを超越したアーティストや作品が存在する。『夏への扉』がまさに典型で、SFに全く興味がなくてもこれは面白いはずだ。恋愛、冒険、時間旅行、痛快な逆転劇、そして猫。そう、本書は猫好きにもたぶんこたえられないだろう。

すごくおもしろそう。わたしの背中をしっかりおしてくれた。
こんな作品をほっておく手はない(ほっておいたのだけど)。

老後には、すきな本の再読をたのしみにしている。
しかし、あたらしい本がどんどんでるし、
よんでないおもしろそうな本もたくさんある。
わたしの本棚だけでも、手にとられるのをまつ
まだよんでいない本がごっそりならんでいる。
いま把握している本だけでも、
わたしは老後を退屈せずにすごせそうだし、
そのうえに、こうしてSFのふかい森へ、
あたらしくふみだすたのしみができた。
「老後」は、定年退職によってスタートとする
まったくあたらしいくらしではなく、50をこえたあたりから、
すこしずつ老後にからだをならしたほうがいいとかんがえている。
SF古典にも、いまのうちから手をつけておこう。
まずは『星を継ぐもの』と『夏への扉』にとりついてみたい。

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2019年08月20日

『辺境メシ』(高野秀行)ネコ用ちゅ〜るさえも体験ずみ

『辺境メシ』(高野秀行・文藝春秋)

辺境作家の高野さんが、これまでに体験した
めずらしいたべものを紹介している。
高野さんファンのわたしは、高野さんの本をほとんどよんでいる。
それでもしらないはなしがおおく、
もともとたべものへの関心がつよいので、たのしくよめた。
アフリカ・南アジアなど、地域ごとに章だてされており、
日本の章では7項目がもうけられている。
おもしろかったのは、ネコ用おやつの「ちゅ〜る」について。
ちゅ〜るはネコに絶大な人気があるおやつで、
しらないネコでも ちゅ〜るをあげると かならずたべてくれる。
そのときの反応は、すこしたべてみて「ん?」となり、
すぐに「はっ!」となって、夢中でたべだす。
あまりにもネコをとりこにしてしまうので、
なにかおかしな成分がふくまれているようにおもってしまうけど、
材料に問題はないようだ。マタタビがはいっているわけではない。

そのちゅ〜るを、高野さんががとりあげたのは、さすがといえる。
ネコだけのたべものにとどめず、
ちゃんと味をたしかめているからすごい。
もっともこのときは、料理研究家の
枝元なほみさんとの対談がきっかけだ。
枝元さんの手により ちゅ〜るはこじゃれた料理になっている。
クラッカーに蕪のスライスを載せ「まぐろ」のちゅ〜るをかけ、ピンク胡椒とイタリアンパセリを散らした見事な一品。パーで頼んだら千円ぐらしそう。(中略)シーチキンをとろとろにしてさらにうま味を加えたような、調味料なのか食べ物なのかよくわからない不思議な食感と味。世界のどこの国でも経験したことがない。

なんだかすごくおいしそう。
「これは人間用にしても受けるのではないか」と、
高野さんはネコと人間が、ちゅ〜るをあらそう日を予言している。

ちゅ〜るのほかでは、タイの東北地方でたべた
「虫パスタ」がおもしろかった。
タイの東北地方は昆虫食の本場として有名で、
このとき高野さんは「虫イタリアン」のお店をたずねている。
高野さんが「何品かたべてみたい」というと、
「まず虫を買ってきて」と店の若者が市場へつれていってくれた。
虫をつかった いくつかの料理をたべたあと、
さいごにでてきたのが「虫パスタ」だ。
食べてみると、トマトソースの深い味わいに感心する。よく熟れたトマトを使って、隠し味にタイの調味料のナンプラーを加えているという。まさに土地の食材と味つけをふんだんに応用した創作イタリアンの好例!なのだが、これも虫が多すぎ。だんだん、げっそりしてくる。
 そして、いったんげっそりしてしまうと、後は食べるのがとても苦痛になってきた。ゲンゴロウがゴキブリに酷似していることもあって、残飯のパスタの上に虫がたかっているようにしか見えなくなるからだ!
「残飯を食べている虫を食べている俺」というイメージが脳内をぐるぐる回ってとまらない。

お皿もられたパスタのうえを たくさんのゴキブリがはいまわり、
そのゴキブリ(によくにたゲンゴロウ)もろとも
残飯のパスタをたべようというのだから、
心理的につよい抵抗があるだろう。
「残飯を食べている虫を食べている俺」は、かなりトホホな場面だ。
昆虫食にわたしは偏見がないけど、ゴキブリだけはたべたくない。

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2016年06月20日

『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行)納豆の常識を、ぜんぶひっくりかえす

『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』
(高野秀行・新潮社)

アジアの納豆といえば、照葉樹林文化論だろう。
日本の縄文時代には、中国の雲南省からヒマラヤにかけて、
お茶やツバキなど、表面がてかてかした
常緑の広葉樹林(照葉樹林)がひろがっていた。
その地域では、お茶・コウジ・納豆・モチなどをこのむ、
日本とおなじような文化がみられると、
植物学者の中尾佐助氏によって
発表されたのが照葉樹林文化論だ。
西日本もかつては照葉樹林がおいしげり、
ヒマラヤや雲南省にくらす民族と共通の文化がみられるという。
縄文時代における農耕の可能性とかさなり、
ロマンチックで壮大なイメージを刺激される。

アジア納豆と日本の納豆は、
おなじ照葉樹林文化にぞくするのだから、
アジアと日本におなじような納豆があったからといって、
なんの不思議もない。
高野さんは なにをいまさらアジアの納豆なんていいだしたのだろう。
でもまあだいすきな高野さんなので、つきあって本書をもとめた。

よみはじめても、照葉樹林文化の説明はみあたらない。
「照葉樹林文化」ということばをさがして
ざっと目をとおすけど、いつまでもでてこない。
350ページの本書にあって、323ページめでようやく
「照葉樹林文化」の語句が顔をみせた。
高野さんは、照葉樹林文化論では
納豆をよくたべる地域を説明できないとして、
否定的なかんがえ方をしめしている。
本書は、照葉樹林文化論とはべつな視点から、
じっさいに納豆をつくり・たべている
ひとたちへの取材をつうじて、
納豆の起源と発祥について仮説をたてている。

日本人は、納豆をたべるのは日本人だけだとおもっているし、
かりにほかの国に納豆とよくにた発酵食品があっても、
それは日本の納豆と根本的に別ものときめつけている。
糸をつよくひくのがよい納豆で、
納豆菌はワラのなかだけにすみ、
納豆特有のにおいがなければほんものの納豆ではなく・・・。
高野さんは、ミャンマー・ネパール・中国、
そして日本での取材により、
これまでおもいこんできた納豆の常識をぜんぶひっくりかえす。

納豆の起源について、納豆が基本的に
山の民によってつくられてきた歴史から、
醤油にかわるダシとしての役割をはたしてきたと 高野さんは指摘する。
醤油や魚醤(ナンプラーやニョクマム)があるところは
納豆のうまみを必要としない。
肉や油がかんたんに手にはいらないからこそ
納豆がもとめられたのだ。
日本でも、納豆をよくたべていた村では、
納豆といえば納豆汁であり、
納豆汁はダシをとらず納豆だけのうまみでつくっていた。

納豆発祥の地についても、
納豆は実に簡単にできる食べ物だ。(中略)いろいろな場所でいろいろは時期に作られるようになり、いったん作られると、近隣の民族にも「お、これ、なかなか美味いな」という調子で伝わっていったのではないか。

煮豆が発酵してしまい、たべてみたらうまかった、
というのが納豆の「おこり」であり、
そんな納豆にはっきりした「発祥の地」は特定できない、
というのが高野さんのかんがえ方だ。

わたしは、納豆について、しっているようで なにもしらなかった。
おおくの日本人もまた、わたしとおなじかんちがいをしている。
これだけポピュラーなたべものなのに、
なぜこんなに理解されてなかったのか ほんとうに不思議だ。
わたしがすきな照葉樹林文化論は否定してあるけれど、
現場での取材をつみあげて 納豆の核心にせまった
迫力のあるノンフィクションとなっている。
日本で納豆をよくたべるのが東北地方と、
照葉樹林文化帯でないだけが問題なのだから、
九州あたりでアジア納豆とおなじ納豆がつくられていたら、
照葉樹林文化論は否定できない。
高野さんによるこれからのさらなる調査をまちたい。

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2015年10月07日

『恋するソマリア』(高野秀行)

『恋するソマリア』(高野秀行・集英社)

『謎の秘密国家ソマリランド』につづく高野さんのソマリ本。
1冊目では、無法地帯とばかりおもっていたソマリアに、
平和で民主的な国があるとしりおどろいた。
2冊目であるこの本は、もはやソマリアを
世間のひとにしってほしくてかかれたものではない。
ソマリずきがこうじた高野さんのねがいは
なんとかソマリのひとに自分をみとめてもらいたいと
反対方向へかわってきた。

しかし、そのおもいは一方的であり、
かたおもいがむくわれるのは かんたんではない。
ソマリはふつうでないから高野さんのこころをとらえた。
非情にアグレッシブで、自分に関係ないことにたいしては
まったく関心をしめさず、ひとなつっこいところもない。
そのソマリ人の特徴が、こんどはブレーキとなって
高野さんのねがいをじゃましてしまう。
かくして『恋するソマリア』は、
高野さんのかたおもいをつづるレポートとなった。

かたおもいはたいへんだ。
ソマリのひとに自分の存在をわすれてほしくないから
高野さんはソマリ関係の仕事をさがし、ソマリをたずねる。
3回目と4回目のソマリ訪問である本書は、
これまでにかなえられなかったソマリランドの日常生活と、
モガディショ以外の南部ソマリアの取材を目的にしていた。
イスラム社会のおおくは、
男性が訪問さきの家で女性としたしくはなしたり、
家の男ぬきでは その家にあがれない。
ソマリランドはそれに輪をかけて
「ふつうの生活」をみるのがむつかしいのだという。
世界の秘境であるソマリの、そのまたいちばんの秘境は
ふつうのくらしだった。
はじめはお茶や食事にさえ まねいてもらえなかったところを、
高野さんはだんだんと料理をおしえてもらえるようになる。
やっと体験できたソマリの家庭料理は、ものすごくテキトーだ。
てきとうな量の油や具材をざざっと入れ、てきとうに鍋に火をかける。なかなか煮えず、汁気が足りなくなると水をつぎ足すだけ。途中で電話がかかってくると、野菜を切る手を止めてしゃべっているし、何かを忘れて家の中に取りに行き、5分ほど帰ってこなかったりもする。(中略)
いつ完成したのかもよくわからない。

南部ソマリアの取材では、念願だった「ふつうのくらし」を
訪問さきの村で体験する。
そこは電気もなく、井戸でもバケツから水をくみあげている。
絵にかいたように素朴な村のくらし。
そんな風景を目にした高野さんは、
アル・シャバーブなど、イスラムの厳格な過激派勢力は
「マオイズム」(農村主義)ではないかと分析する。
誰かに命令されることを何よりも嫌うソマリ人がなぜアル・シャバーブのいうことを聞いているのか。支持する人が多いのか。
それは田舎では別に「過激」でもなんでもないからだ。電気がないのだから、音楽や映画などあるわけがない。酒やタバコなどといった贅沢な商品など買える人はそうそういないだろう。(中略)
ーーこちらの生活のほうが正しいのではないか・・・。(中略)先進国の巨大資本が牛耳り、彼らの価値観がどこまでも押しつけられる世界。そんなゆがんだ世界よりも、伝統にのっとり自然環境に合わせたここの人たちの暮らしのほうがよほどまっとうではないのか、と。

だからといって高野さんが
アル・シャバーブを支持するわけではないけれど、
彼らがうけいれられる環境があり、
かんたんに異質な集団ときめつけられない状況を わたしはしる。

モガディショの治安がよくなったとはいえ、
すこし町をはなれると、
そこにはアル・シャバーブの勢力がおよんでいる。
高野さんたちは、コンボイをくんでの移動中に
アル・シャバーブの攻撃をうけた。
そうした襲撃からまもってくれるウガンダ軍の兵士にたいし、
あろうことか ソマリ人のジャーナリストたちは平気で暴言をはく。
悪気はない。ただおもったことを口にしただけだ。
ソマリ人に入れ込んでも、報われることはないのだろうなとしみじみ思った。
ソマリ人は誰にも助けを求めない。一方的な同情や愛情を必要としてもいない。言ってみれば、彼らは野性のライオンみたいなものだ。野性のライオンを愛するのは勝手だが、ライオンからも愛情を返してもらおうというのは間違っている。彼らの土地で、彼らの素の姿を眺め、一緒に生活をする。
それだけで幸せと思わなければとても一緒にやっていくことはできないのだ。

日本にもどった高野さんは、
ソマリ人の海賊にからんだ事件で
通訳として裁判所にむかう。
ほんのひとこと高野さんとソマリ語をかわしただけで、
そのソマリ人はかたかった表情をくずし、笑顔をみせた。
高野さんは、彼と交流したいとおもいはじめる。
「まだまだソマリへの恋は終わりそうにないのである」
と本書はむすばれている。

posted by カルピス at 15:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする