「夏はやっぱり野宿でしょ!」と、
上高地での一夜を紹介している。
https://www.bushikaku.net/article/36236
あつくてねぐるしいうえに、蚊になやまされる夏が、
「やっぱり野宿」に最適とはおもえないけど、
かとうさんにとったら、ほんとうに
いちねんじゅうが野宿の季節みたいだ。
・1月は正月で酒がのめるぞ・・・
・2月は節分で酒がのめるぞ・・・
と、なんだかんだいって 酒をのむ理由にする歌があったけど、
かとうさんは、いちねんを あの歌のように野宿しているのではないか。
それにしても、台風の影響で雨と風がつよく、
びしょびしょになっても なお
悪夢を見たり、びしょびしょになっても、やっぱり一晩夜を過ごすと楽しいし、ゆっくりできます。
というのだから、かとうさんが野宿にむける愛はどこまでもふかい。
わたしだったら、びしょびしょにならないように、
寝袋カバーを用意するだろうけど、
そうやってなんだかんだと準備するうちに、
どんどん自由がうしなわれていく。
かとうさんは、だれもがとびつきがちな便利さよりも、
なにもかまえない自由な精神がすきなのだろう。
いや、「自由な精神」なんて かまえてしまうのではなく、
かとうさんは、ただめんどくさくてやらない。
めんどくさいと、なにも準備しないででかけ、
その結果、自由な野宿に到達できる。
めんどくささは、あんがい自由な精神と
ふかい関係があるのではないか。
村上春樹の『騎士団長殺し』をよんでいたら、
「ここにあるものは、すべてがみたいなものなのです」
というセリフがでてきた。
大胆な仮説として、『騎士団長殺し』は、
ちまたでいわれている「もっともらしさ」への疑問が
おおきなテーマといえるかもしれない。
「もっともらし」くあるよりも、
しょせんすべては「みたいなもの」なのだ。
かとうさんは、いぜんから「のようなもの」として
すべての「らしいもの」のとりあつかいに慎重だ。
いまやっているお店も、
「お店のようなもの」がただしいお店の名前であり、
お店らしいお店を期待したらいけないよ、
とちゃんとおことわりしている。
野宿伝道師と、かるい肩書をなのっているけど、
かとうさんこそが、ほんものの伝道師であり、
『騎士団長殺し』の第三部には、「のようなもの」を自在にあつかう
かとうさん(のようなひと)がでてくるのでは。