2019年12月12日

「深めずに『浅めたら』どうでしょう」という糸井さんの提案

「今日のダーリン」(ほぼ日)に、糸井重里さんが、
「『浅めたら』どうでしょうね、深めずに」
とかいている。
もともとは、永田農法の永田先生にいわれたことばだという。
永田先生の言う「まちがった農法」は、
根を深く伸ばそうとしているやり方だった。
正しいのは、根を浅く細かくふわっと生えさせること。
細かい根が浅いところに綿のように広がるのがいいのだ。
先生は、とにかく繰りかえし言っていた
「頭のいい連中は、なんでも深く深く掘ろうとする。
それがいちばんだめなんですよ」と。
農業の方法ばかりでなく、なんでもそうだと言っていた。

わたしも、根はふかくはるのがいいとおもいこんでいた。
自然農法をこころみて、田んぼにモミをまき、
はえてきた稲をひっぱると、かるいちからでぬけた。
根があさく、いかにもたよりない根のはりかただった。
でも、よくないのは、ひろがりのないはり方であり、
あささではなかったのだ。

糸井さんは、永田さんのことばに影響をうけ、
その問題、深く深く掘っていくと、
切りもなくわけわからないところに行きそうなので、
「浅めたら」どうでしょうね、深めずに

といえるようになっている。
「浅めたら」なんて、いままできいたことがないことばだ。
常識だとおもっていたことが、じつは逆だった、
というのはよくあるけど、
まさか、ふかくはった根まで、まちがっていたとは。

わたしは、永田農法について、まったくしらなかった。
ウィキペディアをみると、
「必要最小限の水と肥料で作物を育てることが特色」
とある。
有機肥料ではなく、化学肥料をつかうというから、
それだけですでに有機農法ではない。
農業は土づくりが大切、とよくいわれるし、
肥料には堆肥などの有機肥料がすすめられるのに、
永田農法はずいぶんかわっている。
やせた土のほうが おいしい作物にそだつというのだから、
ふつうにいわれているのと逆だ。

わたしは、ふかくさぐっていくのがにが手なくせに、
ただしいのは、ふかめることだとおもっていた。
よこに、よこに「浅めて」いくのがいいのなら、
わたしにできることがなにかありそうだ。
「深く掘ろうとする」のがだめ、なんて、
ことしいちばんのカルチャーショックだった。
タグ:永田農法

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2019年08月10日

糸井重里さんの「夢をあきらめ、ほんとに助かったよ」に共感する

すこしまえの「今日のダーリン」に
夢をあきらめて、ほんとに助かったよ、と
糸井重里さんがかいている。
どういうことかというと、
糸井さんがむかしなりたかったマンガ家に、
もしかなりの努力をはらい なっていたとしたら、
水木しげるさんや吉田戦車さんの
「しょうばいがたき」になっていたということで、
危なかったぜ! ほんとうのじぶんより40倍くらい
才能があったり努力ができたりしていたら、
もっとずっとキビシイ人生を送っていたにちがいない。 (中略)
夢をあきらめ、努力もせずに生きてきてどうでしょうか。
結論的に言えば、ほんとに助かったよ、でした。

というはなし。
糸井さんだったら、かなりの人気マンガ家として
わたしたちをたのしませていたとおもうけど、
まあ、ご本人がそういわれるのだから、
そういうことにしておくとして、
夢をあぎらめるな、あきらめないかぎり夢はかなう、
みたいなことをよく耳にするけど、
あきらめといて「ほんとに助かったよ」は
あまりきかれない発想なのでおもしろかった。

わたしは、小学生のときにプロ野球選手、
そのあとは『野生のエルザ』の影響で、
アフリカの自然公園につとめる狩猟監視官を
ばくぜんと夢みていた。
とはいえ、そのために具体的な努力をはらったわけではなく、
なにもしないまま、まったくの夢でおわっている。
おとなになってからも、とくになにかをめざしたことはなく、
夢にむかってあきらめずに努力するよりも、
はやばやと、なにかをめざしてがんばるのをやめた気がする。
そんな消極的な生き方を、いまになって後悔しているわけではなく、
糸井さんとはちがう理由から
「夢をあきらめ、努力もせずに生きてきてほんとに助かったよ」
とおもう。
もし夢にむかって生きていたら、
くるしさにたえきれず、もうすこしのところでやめてしまい、
ふかい挫折感をあじわっていたのではないか。
そのキズをひきずって、ずっと後悔するよりも、
わたしみたいなヘタレは、はやめのリタイアがちょうどいい。
それはそれで ひとつの人生としてなりたちそうだ。

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2018年08月08日

つよがりでなく「弱いチーム」でよかったとおもいはじめている糸井重里さん

きのうの「今日のダーリン」で、
糸井重里さんが、
「(巨人が)『弱いチーム』になって、よかった」
とかいている。
糸井さんは巨人ファンでしられ、
ここ数年を「さっぱり」な気もちですごされていたとおもう。
それが、いよいよ「『弱いチーム』になって、よかった」
とまで、ひらきなおるにいたったのかと、
気のどくにおもいながらよんでいたら、
どうもほんとうに「よかった」と達観されたみたいだ。
こういうメンバーで、こういう戦い方をするだろうと、
4月までに予定に入っていた選手たちが、
ことごとく不調だったり、ケガをしたりしています。
ある程度安心してまかせられるはずのエースも、
大事なところで「まさか」という乱調になります。
ふつう、これくらいで勝てるだろうというような試合を、
まさかというくらい、奇跡のように落とします。
逆に、これはこのまま負けだなと思うような試合を、
じたばたと粘って奇跡的に追いついたりして、負けます。

「・・・乱調になります。
 ・・・奇跡のように落とします。
 ・・・奇跡的に追いついたりして、負けます。」

がすごくおかしい。
ようするに、どうやっても
安定してかちつづけられない。
大切な試合にことごとくまけ、
どうでもいい試合をムダにかって、
お、調子がでてきたのか?とおもわせておきながら、
けっきょくは安定して不安定なことしの、
いや、ここ数年のジャイアンツ。
たたみかけるようにトホホの状況がかたられたのち、
活躍する予定だった選手がいなくて、
一軍の名簿にもなかった選手たちが観客席を湧かせてる。
かんたんに言うと、ぐちゃぐちゃな弱いチームなのです。 (中略)
なにが起こるかわからない試合をして、負けるのはOK! 
可能性をはらんだ「ぐちゃぐちゃ」が、チームを変える。

とあるから、いまの「弱いチーム」がくりひろげる
ぐちゃぐちゃ ならではの必死な野球を
糸井さんはほんとうに おもしろがっている。
巨人が圧倒的につよかった時代には、
想像できなかったたのしみ方だろう。
客観的にみれば、このような体験をつみながら、
巨人ファンも ようやくほかのチームのファンとおなじ視線で
野球をみられるようになるのだから、
よわさもけしてわるいことばかりではない。
「弱いチーム」は、ファンのこころをきたえてくれる。
人格形成のために応援するわけではないとはいえ、
副産物として おおくをもたらしてくれる 巨人のよわさに
敵ながらあっぱれの拍手をおくる。

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2018年03月27日

糸井重里さんちのブイヨンが亡くなった

糸井重里さんちのブイヨンが、3月21日に亡くなった。
ほぼ日の「今日のダーリン」では、
ここ数日、ブイヨンへのおもいを糸井さんがつづっている。
いま糸井さんがむきあっているかなしみ・さみしさ・つらさを、
家の動物をうしなったとき、おおくのひとが体験してきた。
糸井さんが「今日のダーリン」にかいている気もちのゆれは、
ペットレスにくるしむひとに、
ひとつのモデルをしめしているのではないか。
のりきるマニュアルなんて、あるわけないけど、
糸井さんがブイヨンをおもってかいた「今日のダーリン」は
かなしみにうなだれる 家族の胸にとどくだろう。

糸井さんが「今日のダーリン」にかいた内容は、
ブイヨンが亡くなってからの日にちがたつにつれ、
すこしずつかわってきている。
もちろん、かなしさになれたわけではないけど、
はじめはブイヨンについてだけだったのが、
だんだんまわりのひとたちへの感謝や、
何日か、ブイヨンがいない日をすごして
ますますつのってくるかなしみを、
糸井さんはとても正直にすくいあげている。

いまわたしも、16歳になるピピ(ネコ)といっしょにくらしており、
4年まえに口内炎をわずらったときに、
のこりわずかな命でしかないと覚悟した。
さいわい、そのあとも細々とごはんをたべつづけ、
やせほそりながら4年も生きている。
もうじゅうぶんに看病と介護をした気になったので、
たとえ食欲がなくなっても、病院へはつれていかず、
家でしずかに最後をみとろうとおもっている。
その程度の愛でしかないのか、
といわれたら そのとおりというしかない。
病院で数日だけ寿命がのびるとしても、
さいごは家でのんびりすごさせてやりたい。

糸井さんは、医師と納得のいくまで相談をして、
ブイヨンがなおる可能性がすこしでもあれば、
あらゆる治療をほどこしている。
それでも容態はいいほうにむかわず、
糸井さんはすこしずつ覚悟をきめたようだ。
だれにでもできる治療ではない。
さいごまで「いいこだった」ブイヨンの
冥福をいのりたい。
わたしもピピにいつも「かわいいね」とはなしかけている。
ピピはかわいいね。すてきなネコだね。
いっしょにいてくれるだけで、どれだけありがたいか。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

横尾忠則さんの「すべては未完である」がもたらす自由

「今日のダーリン」(ほぼ日)にのった
横尾忠則さんの「すべては未完である」は、
ものすごくふかいかんがえなのではないか。
横尾忠則さんの大きなテーマは、
「すべては未完である」ということです。
なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
 頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
これ、言うのは簡単ですけど、
ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
でも、その感覚を我がものにすることができたら、
もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
得られるんじゃないかと思うんですよね。

これは、横尾忠則さんとの対談でききだしたはなしを、
凡人にもわかるように、糸井さんが説明してくれたものだ。
よんだだけでも、こころがおだやかにみたされた気がする。
これはもう、思想といっていい。

一般的に、いまの世のなかでは、
達成感をとてもいいことのようにとらえているけど、
それを排除するかんがえがあったのだ。
老子の思想は、勇気を否定しているそうで、
ききかじったわたしは、おかげでずいぶん楽になった。
おなじように、達成感の排除はこころを自由にしてくれる。
弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
しなくてもいいということでしょうね。
それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。

ひらきなおりみたいだけど、なげやりではない。
バカボンのパパのいう、
「これでいいのだ」というかんがえ方につながっている。

ほぼ日にのった糸井さんと横尾さんの対談、
「ヨコオライフ」をよむと、
http://www.1101.com/yokoolife/index.html
もう、あきれるぐらい どうでもよさそうなことを
延々とふたりがはなしている。
たとえば、カレーライスのたべ方。
まず、あついごはんに できたてのあついカレーをかけてたべ、
夜になるとカレーとごはんがひえているので、
つめたいごはんにつめたいカレーをかけ、
ほかにもつめたいごはんにあついカレーという手もあり、
これがあんがいおいしくて、みたいなはなしを横尾さんがつぶやき、
ふむふむと糸井さんがきいて、かんじたことを横尾さんにかえす。
こんなやりとりから、糸井さんはどうやって
「すべては未完である」とまとめられたのだろう。

わたしは横尾さんについてまったくしらない。
糸井さんがこんなふうに ときあかしてくれなかったら、
わたしには横尾さんがなにをいっているのか
さっぱり理解できなかっただろう。
糸井重里というよいきき手のおかげで、
わたしは独創性にすぐれた 達人たちのかんがえにふれられる。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする