2020年03月12日

あるブログのおわりにたちあう

毎日チェックしていたブログが、
きょねんの11月23日以来、更新されなくなった。
そのサイトをひらくと、
いまはうえのスペースが広告につかわれている。
60日間投稿がない場合に広告がのるという。
以前は、月に10回以上更新されていたブログで、
日課として毎日チェックしていた。よめないのはすこしさみしい。
クラスメイトがある日をさがいに、学校にこなくなったような。
まえにもながい間のおやすみがあったけど、
60日以上更新がないのは はじめてだ。
もうすこしたてばまたはじまるのだろうか。
ひとつのブログのおわりにたちあったのかもしれない。
ながくつづいているブログも、こんなふうに
更新が突然とだえ、それっきりになるのか。

わかいひとの場合、かくことがないとか、
PVがのびず、やる気をうしなった、
などがブログをやめる理由になりそうだけど、
高齢者になると、問題はもっと肉体的で、切実なのではないか。
たとえば自分が入院したとか、
家族の介護でブログどこれではなくなった、とか。
家族の介護でいそがしくても、それをネタにすればいいのだから、
いそがしさはやめる理由にならない気がするけど、
ほんとうにへとへとにつかれたら、
ブログどころではない気もちになるのもわかる。
自分の身になにかおきて、入院しても、
かく気さえあれば、いまはなんらかの方法でつづけられる。
それができないとしたら、深刻な状況だ。
からだだけでなく、気もちがよわくなると つづかない。
定期的なブログの更新は、なによりも無事なたよりだ。
ブログをつづけるだけのげんきがあれば大丈夫。
きゅうに更新がとだえたら、
なにかのサインなので心配したほうがいい。
いまかいているこのブログみたいに、
のらりくらりとつづく 意味不明なブログは、
だれも管理者の健康なんか気にしてないだろうけど。

ブログをつづけると、いいことばかり、
みたいにいわれるけど、じっさいは
そんなにありがたいはなしだけではなく、
なげだすほうが普通ともいえる。
自信をもっていえるけど、ただブログをつづけだけでは
なにかが身についたり、かしこくなったりしない。
わたしの場合、よまれなくてもまあしかたがないと、
ひらきなおっており、進歩もないし、PVはふえない。
それでも、かく場があるのはありがたく、
将来の自分がよめば、なにかおもうことがあるだろうと、
日記みたいな内容を、きょうもほそぼそとかきつづける。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月01日

梅棹忠夫さんのいう「家庭を発信局とする情報創造」とは

倉下忠憲さんがすこしまえのブログ(R-style)で
家庭からの情報発信についてかいている。
https://rashita.net/blog/?p=29895
「梅棹は、発信局といった。」
というタイトルからわかるように、
梅棹忠夫さんの発言、
家庭を発信局とする情報創造が行われ、そのための装置がつぎつぎとつくられるだろう。
(『梅棹忠夫のことば』より)

が、なにを意味するのかをさぐったものだ。
「情報発信」ならブログのことだと すんなりよめるけど、
梅棹さんがあえて「発信局」としたのはなぜか。
映像の配信こそが、梅棹がイメージしていたものなのかもしれない。だとすれば、YouTubeの存在が、まさにその予言の精度の証左であろう。現代こそ、家庭が発信局となる時代なのだ。

ユーチューブ、そしてポッドキャストなどの出現を
梅棹さんはみとおしていた。
そして倉下さんは、いわゆるブログでなくても
「ブログ的」な なにかでいいと とらえはじめている。
(糸井重里さんの『インターネット的』というとらえかたにならえば)現代で必要なのは「ブログ的」なものだ。なにも、正真正銘の「ブログ」でなくてもいい。(中略)ただ、ネットにおける自分の「場所」を確立できればそれでいいのだ。そのためのメディアが、ポッドキャストであっても、Youtubeであってもいい。

ブログのもつ意味あいと存在感がかわりつつあるいま、
それでも倉下さんはブログへのおもいをすてきれない。
にもかかわらず。
私は心の奥底では、やっぱりブログを持ち、文章を書くことをお勧めしたい小さな子どもがうろちょろしている。なにしろ「読字」は特別な能力なのだ。

YouTube時代にブログの生死を気にかけるなど、時代遅れも甚だしいのかもしれない。でも、そういうことが書けるのが、やっぱりブログの魅力なのである。

ユーチューブもポッドキャストもやらないわたしは、
ほそぼそとブログをかくしかない。
いまさらブログなんて、みたいにいわれがちだけど、
発言の場をネットのなかにもてるのはありがたい。
倉下さんがブログの魅力をかたりつづけてくれるのも
わたしのささえになっている。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月08日

田中泰延さんの『読みたいことを書けばいい。』がおもしろそう

ほぼ日で、きょうから田中泰延さんのおはなしがはじまった。
https://www.1101.com/n/s/yomitaikoto/2019-10-08.html
田中さんは『読みたいことを書けばいい。』
という本をだされている。
わたしもすこしまえに、
「よみたいことをかけばいいんだ」を発見した。
なんていうと、たちのわるい冗談みたいだけど、
10%くらいはほんとうだ。
ラジオをきいているとき、本についてはなされると、
しぜんと きき耳をたてる自分に気づいた。
どうやらわたしは、自分が関心をもつはなしをききたいらしい。
わたしが関心をもつのは、
本のほかに旅行やトレーニングについての話題で、
したがって、よみたい本やブログは、あたりまえながら、
関心のあるものについてかかれたものとなる。
もちろん、本や旅行についてのものなら なんでもいいわけではなく、
信頼できるひとがかいた書評なり旅行記にかぎられてくる。

本についてかかれたいくつかのブログをよんでみたけど、
あまりしっくりいくブログにであえなかった。
だったら、自分がよみたいような記事を
自分でかけばいいのでは、とおもいはじめる。
というわけで、わたしがかくブログは、
わたしが興味をもったことについてかいてあり、
たくさんのひとによんでもらいたい、
という気もちはあまりない。
田中さんのおはなしと、
いくぶんかさなる点があるような気がする。
あすからのはなしが、どう展開していくのだろう。
僕が一生懸命書いたコラムが182PVだとして、
たとえば宇多田ヒカルさんが
「神保町で食べたトンカツが厚切りで」
と書いたら、256万8320PVになる。
だから「何を書いたか」では勝てない。
なにも絶望しろと言ってるんじゃないんです。
自分が何かを書いてネットに載せたりしたら、
たくさん読んでもらえるんじゃないかと思う心を
一度捨てましょうと言ってるんです。(中略)
だったら僕とかみなさんが何かを書くにしても、
一生懸命に書くのは大事やけど
「書いたものが誰かに影響を与える」とは
思わないようにしましょうよ。
というのが、この本を書いた原点です。

田中さんのおはなしは、7日連続で連載されるという。
あすからの2回目以降をたのしみにしている。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月04日

ブログをつづけて8年

ブログをかきはじめて8年がすぎた。
とぎれないだけが目的の、むりやりな記事もおおく、
いったいなんのために ブログをかいているのか
ふしぎにおもうことがある。
とにかく、のらりくらりと毎日かく。
この8年のあいだに、葬式があり、ノロウイルスにかかり、
ネコのピピをうしない、仕事も2どやめた。
基本的に健康をたもてたから、なんとかズルズルつづけられている。
感情も、あまりおおきな波をたてていない気がする。
機嫌よくすごしていないと、いかにどうでもいい内容とはいえ、
すんなりはかけない。

10年を目標にしているので、ここまできたら
ゴールが現実味をおびてきた。
記事のストックなんて1本もない。
その日のうちに(ほとんど夜)なんとか記事をこしらえる。
こんなふうに、これから2年がすぎていくのだろう。
そして、10年たったところで、
なにもかわらないのはわかっている。
それでも、とにかく毎日かく。
10年たったら、ごほうびになにかを用意しよう。
ブログをつづけるコツなんてとくにない。
こんなどうでもいいことをかいて なんになるのか、
なんて、まじめにかんがえないのが よかったかもしれない。

ブログをかくのはたのしい。だれにもさしずされず、
すきなことを、すきなようにかいていると、
自由だなーとしみじみおもう。
ひらがなをたくさんつかい、
よみにくくなると半角のスペースをあけ、わかちがきをする。
日本語のわかちがきは、ほかであまりみかけないけど、
ひらがなばかりがならび、
よみにくくなったときの工夫として 効果的だ。
ひらがながおおくてよみにくい、といわれても気にしない。
よまれる記事をかく気もちがだんだんうすれ、
ますます なんのためにかいてるのかわからなくなる。
ひとによんでもらうためでないのなら、
なにをのぞんでかいているのだろう。
自分の世界だけにとじこもった タコつぼブログだ。
いいんだそれで、とひらきなおる。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月11日

ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物だった、にしみじみとはげまされる

すこしまえのNHKスペシャルで、
DNAについてとりあげていたのを ときどきおもいだす。
遺伝子をつたえるDNAは、
全体のDNAの2%にすぎず、のこりのDNAは
ゴミだとおもわれていた。
でも、最新の研究により、ゴミだとおもっていたDNAに、
重要な情報もひそんでいることがわかってきた。
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物だった、というはなしだ。

たいせつでないひとなんていない、とよくいわれるけど、
こういう道徳のにおいのする語句をきくと、
ひねたことをいってみたくなる。
ゴミかとおもっていたら宝物、は
これとはまるでちがう。
宝物かもしれない、宝物のはずだ、ではなく、
うごかしようのない事実として、
ゴミではなく宝物なのだ。

わたしのように、なにかとくべつひいでたものがなく、
平凡を絵にかいたような人間は、
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物、に
しみじみと勇気づけられる。
気のせいではなく、かくじつになんらかの宝物が
わたしのからだにねむっている。
いまかいているブログだって、
ほんのすこしのひとによまれているだけだけど、
うもれてしまった記事のおおくは、
じつはそれぞれが特別な価値をもった宝物にちがいない。
また、よまれていないからこそ、
だれもしらないという状況は、アドバンテージである、
といえないこともない。
永遠の新人が、ここにうもれている。

よくにたはなしで、
チンパンジーと人間のDNAは99%おなじとかいうけど、
そんなことをいえば、
わたしと村上春樹さんだって きわめて共通点がおおい。
・ながい距離をはしったりおよいだりするのがすき
・ネコがすき
・料理をする
・ひとみしり
・機械によわい
にたところがたくさんありながら、
実績において格段の差があるのは だれの目にもあきらかだ。
箇条がきに条件をあげても、
全体像へはちかづけないのかもしれない。

たとえば、箇条がきにわたしという人間をあらわすと、
・身長180センチでほっそりした体型
・タバコをすわない
・かけごとをしない
・DVではない
・女性への差別意識がない(つもり)

かなりポイントのたかい男性におもえるけど、
女性にとってほとんど魅力がないようすだ。
ちゃんとみて!と不満なのではなく、
わたしの本質をするどくみぬくなー、と感心する。
ゴミにみえても宝物だから、べつにいいんだけど。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする