2020年12月09日

寝不足にならないための ふたつのルール

まいにち7時間はねむりたいのに、どうしてもねるのがおそくなり、
だいたい6時間前後の睡眠時間になってしまう。
夕ごはんやお風呂をすませてからが おたのしみの時間で、
そのために生きている、というとおおげさだけど、
この時間がなければ、まいにちの生活はあまりにもさみしい。
できるだけくつろぎたいので、ついお酒のおかわりをつくったり、
録画をながめたりして、ふとんにはいるのが12時をすぎてしまう。
わかっちゃいるけど、やめられない、とはこのことだ。

問題は、くつろぐ時間がながいのではなく、
それまでに時間がかかりすぎることにある。
ブログや筋肉体操、洗濯ほしにストレッチと、
至福の時間までの日課を すみやかにかたづければ、
11時には本とお酒をまえに くつろいでいるはず。
夕ごはんのあと、ネットをみたり、ブログをかいたりに、
わたしはだいたい1時間半くらいかけており、
どうかんがえても、この時間がながすぎる。
お腹がいっぱいだと、頭がはたらかないといいわけして、
のんびりあちこちのサイトをのぞくのが無駄な時間だ。
ブログはまいにちアップするときめており、
30分ほどかけてかき、手なおしに15分はかかる。
その時間はしかたないとしても、
かきだすまでに時間がかかる日がおおい。
なにについてかくのかきまってないと、
ネットをあちこちうろついて、「なにか」をさがしたりする。

このまえから気をつけているのは、
ブログをアップしないうちは、ネットをみない、ということで、
夕ごはんのあと、ひといきつかずに、すぐにブログにとりかかる。
かかなければ、すきなサイトをひらけない、というルールだ。
そのためには、あらかじめテーマをきめておくことが必要で、
テーマにまよいがなければ、わりとすぐにアップできる。

もうひとつの気づきは、くつろぎの時間に
テレビや音楽にながれない、ということ。
お酒をのみながら本をよんでいると、
もうこれ以上よんでも頭にはいらない、
というよっぱらいの時間にはいる。
そこで録画した映画をなんとなくひらいたりすると、
ただ画面をながめるのは楽なので、
ズルズルと映画をみつづけてしまい、
ベッドにむかうのがおそくなる。
ベッドでも、さらにユーチューブやiPodで音楽をきいたりすると、
つぎの朝は寝不足で、お酒ものこりがちだ。
ねるまえは、テレビと音楽をとおざけることが、
寝不足にならないための、ふたつめのルールとなった。
本はよんでもいい。よっぱらって、内容が頭にはいらないけど、
寝不足や二日よいにはならない。
おなじあやまちをなんどもくりかえしながら、
ようやく2つのルールにたどりついた。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月25日

「人生を変えなかった一言」に影響をうけてきたのかも

デイリーポータルZが「人生を変えなかった一言」
を募集している。
https://dailyportalz.jp/kiji/didnt-change-my-life
大人になると(頼んでもないのに)年長者がアドバイスしてくるけど、聞かなくていいやつがけっこうあることを教えてあげたい!そういう趣旨です。(林雄司)

よくある企画が「人生を変えた一言」だけど、
「人生を変えなかった一言」つまり、
よけいなお世話にすぎないひとことだって
そうとうかたられている。
というか、先生や親のいうことは
たいていきかなくてもいいし、
むしろきかないほうが、ひととしてまともにそだつ(とおもう)。
それでも親や教師、それにふるくからいる職員は、なにかいいたがる。
いちいちまともにとりあっていたら
おかしくなってしまうので、まよわず無視したほうがいい。
デイリーポータルZがそこに目をつけたのは、さすがだ。

そういえば、10年なにかをつづけたら、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばをはげみに
わたしはこのブログをつづけてきた。

「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、

必ずいっちょまえになれる」
作家になりたいなら作家に、靴屋になりたいなら靴屋に、

という具合に、それでめしを食っていけるようになれる。

休んではいけない。

とにかく毎日、作家であるなら、机に向かって、

数文字でもいいから書くことが重要である、と。

実際に、これを実行して、

つまり10年間、休まずに毎日続けて、

いっちょまえになれないようだったら、

「おれの首をやるよ」というところまで、続いた。

これは、吉本さんが糸井重里さんにはなしたことで、
ときどきよみなおしては、
吉本さんが「おれの首をやるよ」というぐらいだから、
とにかく10年つづけたらいいんだ、とげんきづけられた。
そのブログが、いまでは9年と2ヶ月つづいており、
あと10ヶ月まいにちかいたところで、
とても「いっちょまえ」にはならない事態が現実味をおびてきた。
もしかしたらこのひとことは、
「人生を変えなかった一言」だったのではないか。
吉本さんはもう亡くなっているので、
いまさら首をいただくわけにはいかないし・・・。

posted by カルピス at 20:46 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月12日

あるブログのおわりにたちあう

毎日チェックしていたブログが、
きょねんの11月23日以来、更新されなくなった。
そのサイトをひらくと、
いまはうえのスペースが広告につかわれている。
60日間投稿がない場合に広告がのるという。
以前は、月に10回以上更新されていたブログで、
日課として毎日チェックしていた。よめないのはすこしさみしい。
クラスメイトがある日をさがいに、学校にこなくなったような。
まえにもながい間のおやすみがあったけど、
60日以上更新がないのは はじめてだ。
もうすこしたてばまたはじまるのだろうか。
ひとつのブログのおわりにたちあったのかもしれない。
ながくつづいているブログも、こんなふうに
更新が突然とだえ、それっきりになるのか。

わかいひとの場合、かくことがないとか、
PVがのびず、やる気をうしなった、
などがブログをやめる理由になりそうだけど、
高齢者になると、問題はもっと肉体的で、切実なのではないか。
たとえば自分が入院したとか、
家族の介護でブログどこれではなくなった、とか。
家族の介護でいそがしくても、それをネタにすればいいのだから、
いそがしさはやめる理由にならない気がするけど、
ほんとうにへとへとにつかれたら、
ブログどころではない気もちになるのもわかる。
自分の身になにかおきて、入院しても、
かく気さえあれば、いまはなんらかの方法でつづけられる。
それができないとしたら、深刻な状況だ。
からだだけでなく、気もちがよわくなると つづかない。
定期的なブログの更新は、なによりも無事なたよりだ。
ブログをつづけるだけのげんきがあれば大丈夫。
きゅうに更新がとだえたら、
なにかのサインなので心配したほうがいい。
いまかいているこのブログみたいに、
のらりくらりとつづく 意味不明なブログは、
だれも管理者の健康なんか気にしてないだろうけど。

ブログをつづけると、いいことばかり、
みたいにいわれるけど、じっさいは
そんなにありがたいはなしだけではなく、
なげだすほうが普通ともいえる。
自信をもっていえるけど、ただブログをつづけだけでは
なにかが身についたり、かしこくなったりしない。
わたしの場合、よまれなくてもまあしかたがないと、
ひらきなおっており、進歩もないし、PVはふえない。
それでも、かく場があるのはありがたく、
将来の自分がよめば、なにかおもうことがあるだろうと、
日記みたいな内容を、きょうもほそぼそとかきつづける。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月01日

梅棹忠夫さんのいう「家庭を発信局とする情報創造」とは

倉下忠憲さんがすこしまえのブログ(R-style)で
家庭からの情報発信についてかいている。
https://rashita.net/blog/?p=29895
「梅棹は、発信局といった。」
というタイトルからわかるように、
梅棹忠夫さんの発言、
家庭を発信局とする情報創造が行われ、そのための装置がつぎつぎとつくられるだろう。
(『梅棹忠夫のことば』より)

が、なにを意味するのかをさぐったものだ。
「情報発信」ならブログのことだと すんなりよめるけど、
梅棹さんがあえて「発信局」としたのはなぜか。
映像の配信こそが、梅棹がイメージしていたものなのかもしれない。だとすれば、YouTubeの存在が、まさにその予言の精度の証左であろう。現代こそ、家庭が発信局となる時代なのだ。

ユーチューブ、そしてポッドキャストなどの出現を
梅棹さんはみとおしていた。
そして倉下さんは、いわゆるブログでなくても
「ブログ的」な なにかでいいと とらえはじめている。
(糸井重里さんの『インターネット的』というとらえかたにならえば)現代で必要なのは「ブログ的」なものだ。なにも、正真正銘の「ブログ」でなくてもいい。(中略)ただ、ネットにおける自分の「場所」を確立できればそれでいいのだ。そのためのメディアが、ポッドキャストであっても、Youtubeであってもいい。

ブログのもつ意味あいと存在感がかわりつつあるいま、
それでも倉下さんはブログへのおもいをすてきれない。
にもかかわらず。
私は心の奥底では、やっぱりブログを持ち、文章を書くことをお勧めしたい小さな子どもがうろちょろしている。なにしろ「読字」は特別な能力なのだ。

YouTube時代にブログの生死を気にかけるなど、時代遅れも甚だしいのかもしれない。でも、そういうことが書けるのが、やっぱりブログの魅力なのである。

ユーチューブもポッドキャストもやらないわたしは、
ほそぼそとブログをかくしかない。
いまさらブログなんて、みたいにいわれがちだけど、
発言の場をネットのなかにもてるのはありがたい。
倉下さんがブログの魅力をかたりつづけてくれるのも
わたしのささえになっている。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月08日

田中泰延さんの『読みたいことを書けばいい。』がおもしろそう

ほぼ日で、きょうから田中泰延さんのおはなしがはじまった。
https://www.1101.com/n/s/yomitaikoto/2019-10-08.html
田中さんは『読みたいことを書けばいい。』
という本をだされている。
わたしもすこしまえに、
「よみたいことをかけばいいんだ」を発見した。
なんていうと、たちのわるい冗談みたいだけど、
10%くらいはほんとうだ。
ラジオをきいているとき、本についてはなされると、
しぜんと きき耳をたてる自分に気づいた。
どうやらわたしは、自分が関心をもつはなしをききたいらしい。
わたしが関心をもつのは、
本のほかに旅行やトレーニングについての話題で、
したがって、よみたい本やブログは、あたりまえながら、
関心のあるものについてかかれたものとなる。
もちろん、本や旅行についてのものなら なんでもいいわけではなく、
信頼できるひとがかいた書評なり旅行記にかぎられてくる。

本についてかかれたいくつかのブログをよんでみたけど、
あまりしっくりいくブログにであえなかった。
だったら、自分がよみたいような記事を
自分でかけばいいのでは、とおもいはじめる。
というわけで、わたしがかくブログは、
わたしが興味をもったことについてかいてあり、
たくさんのひとによんでもらいたい、
という気もちはあまりない。
田中さんのおはなしと、
いくぶんかさなる点があるような気がする。
あすからのはなしが、どう展開していくのだろう。
僕が一生懸命書いたコラムが182PVだとして、
たとえば宇多田ヒカルさんが
「神保町で食べたトンカツが厚切りで」
と書いたら、256万8320PVになる。
だから「何を書いたか」では勝てない。
なにも絶望しろと言ってるんじゃないんです。
自分が何かを書いてネットに載せたりしたら、
たくさん読んでもらえるんじゃないかと思う心を
一度捨てましょうと言ってるんです。(中略)
だったら僕とかみなさんが何かを書くにしても、
一生懸命に書くのは大事やけど
「書いたものが誰かに影響を与える」とは
思わないようにしましょうよ。
というのが、この本を書いた原点です。

田中さんのおはなしは、7日連続で連載されるという。
あすからの2回目以降をたのしみにしている。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする