ブログをかきはじめて8年がすぎた。
とぎれないだけが目的の、むりやりな記事もおおく、
いったいなんのために ブログをかいているのか
ふしぎにおもうことがある。
とにかく、のらりくらりと毎日かく。
この8年のあいだに、葬式があり、ノロウイルスにかかり、
ネコのピピをうしない、仕事も2どやめた。
基本的に健康をたもてたから、なんとかズルズルつづけられている。
感情も、あまりおおきな波をたてていない気がする。
機嫌よくすごしていないと、いかにどうでもいい内容とはいえ、
すんなりはかけない。
10年を目標にしているので、ここまできたら
ゴールが現実味をおびてきた。
記事のストックなんて1本もない。
その日のうちに(ほとんど夜)なんとか記事をこしらえる。
こんなふうに、これから2年がすぎていくのだろう。
そして、10年たったところで、
なにもかわらないのはわかっている。
それでも、とにかく毎日かく。
10年たったら、ごほうびになにかを用意しよう。
ブログをつづけるコツなんてとくにない。
こんなどうでもいいことをかいて なんになるのか、
なんて、まじめにかんがえないのが よかったかもしれない。
ブログをかくのはたのしい。だれにもさしずされず、
すきなことを、すきなようにかいていると、
自由だなーとしみじみおもう。
ひらがなをたくさんつかい、
よみにくくなると半角のスペースをあけ、わかちがきをする。
日本語のわかちがきは、ほかであまりみかけないけど、
ひらがなばかりがならび、
よみにくくなったときの工夫として 効果的だ。
ひらがながおおくてよみにくい、といわれても気にしない。
よまれる記事をかく気もちがだんだんうすれ、
ますます なんのためにかいてるのかわからなくなる。
ひとによんでもらうためでないのなら、
なにをのぞんでかいているのだろう。
自分の世界だけにとじこもった タコつぼブログだ。
いいんだそれで、とひらきなおる。
2019年09月04日
2019年07月11日
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物だった、にしみじみとはげまされる
すこしまえのNHKスペシャルで、
DNAについてとりあげていたのを ときどきおもいだす。
遺伝子をつたえるDNAは、
全体のDNAの2%にすぎず、のこりのDNAは
ゴミだとおもわれていた。
でも、最新の研究により、ゴミだとおもっていたDNAに、
重要な情報もひそんでいることがわかってきた。
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物だった、というはなしだ。
たいせつでないひとなんていない、とよくいわれるけど、
こういう道徳のにおいのする語句をきくと、
ひねたことをいってみたくなる。
ゴミかとおもっていたら宝物、は
これとはまるでちがう。
宝物かもしれない、宝物のはずだ、ではなく、
うごかしようのない事実として、
ゴミではなく宝物なのだ。
わたしのように、なにかとくべつひいでたものがなく、
平凡を絵にかいたような人間は、
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物、に
しみじみと勇気づけられる。
気のせいではなく、かくじつになんらかの宝物が
わたしのからだにねむっている。
いまかいているブログだって、
ほんのすこしのひとによまれているだけだけど、
うもれてしまった記事のおおくは、
じつはそれぞれが特別な価値をもった宝物にちがいない。
また、よまれていないからこそ、
だれもしらないという状況は、アドバンテージである、
といえないこともない。
永遠の新人が、ここにうもれている。
よくにたはなしで、
チンパンジーと人間のDNAは99%おなじとかいうけど、
そんなことをいえば、
わたしと村上春樹さんだって きわめて共通点がおおい。
・ながい距離をはしったりおよいだりするのがすき
・ネコがすき
・料理をする
・ひとみしり
・機械によわい
にたところがたくさんありながら、
実績において格段の差があるのは だれの目にもあきらかだ。
箇条がきに条件をあげても、
全体像へはちかづけないのかもしれない。
たとえば、箇条がきにわたしという人間をあらわすと、
・身長180センチでほっそりした体型
・タバコをすわない
・かけごとをしない
・DVではない
・女性への差別意識がない(つもり)
かなりポイントのたかい男性におもえるけど、
女性にとってほとんど魅力がないようすだ。
ちゃんとみて!と不満なのではなく、
わたしの本質をするどくみぬくなー、と感心する。
ゴミにみえても宝物だから、べつにいいんだけど。
DNAについてとりあげていたのを ときどきおもいだす。
遺伝子をつたえるDNAは、
全体のDNAの2%にすぎず、のこりのDNAは
ゴミだとおもわれていた。
でも、最新の研究により、ゴミだとおもっていたDNAに、
重要な情報もひそんでいることがわかってきた。
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物だった、というはなしだ。
たいせつでないひとなんていない、とよくいわれるけど、
こういう道徳のにおいのする語句をきくと、
ひねたことをいってみたくなる。
ゴミかとおもっていたら宝物、は
これとはまるでちがう。
宝物かもしれない、宝物のはずだ、ではなく、
うごかしようのない事実として、
ゴミではなく宝物なのだ。
わたしのように、なにかとくべつひいでたものがなく、
平凡を絵にかいたような人間は、
ゴミだとおもっていたのが、じつは宝物、に
しみじみと勇気づけられる。
気のせいではなく、かくじつになんらかの宝物が
わたしのからだにねむっている。
いまかいているブログだって、
ほんのすこしのひとによまれているだけだけど、
うもれてしまった記事のおおくは、
じつはそれぞれが特別な価値をもった宝物にちがいない。
また、よまれていないからこそ、
だれもしらないという状況は、アドバンテージである、
といえないこともない。
永遠の新人が、ここにうもれている。
よくにたはなしで、
チンパンジーと人間のDNAは99%おなじとかいうけど、
そんなことをいえば、
わたしと村上春樹さんだって きわめて共通点がおおい。
・ながい距離をはしったりおよいだりするのがすき
・ネコがすき
・料理をする
・ひとみしり
・機械によわい
にたところがたくさんありながら、
実績において格段の差があるのは だれの目にもあきらかだ。
箇条がきに条件をあげても、
全体像へはちかづけないのかもしれない。
たとえば、箇条がきにわたしという人間をあらわすと、
・身長180センチでほっそりした体型
・タバコをすわない
・かけごとをしない
・DVではない
・女性への差別意識がない(つもり)
かなりポイントのたかい男性におもえるけど、
女性にとってほとんど魅力がないようすだ。
ちゃんとみて!と不満なのではなく、
わたしの本質をするどくみぬくなー、と感心する。
ゴミにみえても宝物だから、べつにいいんだけど。
2019年05月07日
KDPによる2冊目の本づくり
連休ちゅうにとりくむタスクとして、
2冊目の本づくりをあげていた。
題材は、「秘密結社鷹の爪」について。
これまでブログにかいてきた記事を、
そのまま本にするだけだから、
そう手間はかからないはずだ。
じっさいに、いちばん気をつかったのは、
どうやってとりかかるかであり、
いったん腰をあげたら あとはスムーズにすすんだ。
文章に手をいれたら きりがないので、よみなおさない。
ただ、記事をかいた順番にならべるだけでは
内容がふるいだけに いかにも地味なので、
はじめのほうに、インパクトのある記事をおく。
表紙は、あればいいというレベルだ。
ココがねている写真をつかう。
5年まえに、KDPで1冊つくったことがあるけど、
やり方はまったくおぼえていない。
『KDPではじめるセルフ・パブリッシング』(倉下忠憲)を参考に、
いちからとりくみはじめる。
「EPUB3」をつかうと、かんたんにEPUB書類ができるけど、
よこがきに対応していないようなので、
でんでんコンバーターにした。
各章のみだしを、おおきな文字にするには
(##)をあたまにつければいいと、倉下さんのブログにあったので
参考にさせてもらう。
EPUB書類の用意がととのえば、
あとはアマゾンにアップロードするだけだ。
1冊目をつくったときに、アマゾンへの登録ができているので、
スルスルっとアマゾンのページをクリアーして待機中の表示となる。
そして、きょうチェックすると、それが販売中にかわっていた。
本ができあがったこともうれしいけど、
自分できめたタスクが、予定どおりにすすんだのを、自分でおどろく。
ゆうべはおいわいのお酒をのみすぎてしまう。

タイトルは『秘密結社鷹の爪としまねの吉田くん』。
吉田くんのふるさと しまねから、本場の「鷹の爪」愛をとどけたい。
35本の記事がはいっているけど、
かなりふるい記事もあり、残念ながらあまり新鮮味はない。
歯をくいしばっても、どうでもいい内容、とはいいたくないけど、
じっさいは、いまさらなんで鷹の爪?という気配がつよくただよう。
テレビ放送をしているうちに、はやく本にすればよかった。
それに、本ができあがってしまうと、
もっと文章をととのえれば、というおもいもわいてくる。
本をつくることが目的となってしまい、
内容はどうでもよくなってしまった。
3冊目こそ、飛躍の本づくりとしたい。
2冊目の本づくりをあげていた。
題材は、「秘密結社鷹の爪」について。
これまでブログにかいてきた記事を、
そのまま本にするだけだから、
そう手間はかからないはずだ。
じっさいに、いちばん気をつかったのは、
どうやってとりかかるかであり、
いったん腰をあげたら あとはスムーズにすすんだ。
文章に手をいれたら きりがないので、よみなおさない。
ただ、記事をかいた順番にならべるだけでは
内容がふるいだけに いかにも地味なので、
はじめのほうに、インパクトのある記事をおく。
表紙は、あればいいというレベルだ。
ココがねている写真をつかう。
5年まえに、KDPで1冊つくったことがあるけど、
やり方はまったくおぼえていない。
『KDPではじめるセルフ・パブリッシング』(倉下忠憲)を参考に、
いちからとりくみはじめる。
「EPUB3」をつかうと、かんたんにEPUB書類ができるけど、
よこがきに対応していないようなので、
でんでんコンバーターにした。
各章のみだしを、おおきな文字にするには
(##)をあたまにつければいいと、倉下さんのブログにあったので
参考にさせてもらう。
EPUB書類の用意がととのえば、
あとはアマゾンにアップロードするだけだ。
1冊目をつくったときに、アマゾンへの登録ができているので、
スルスルっとアマゾンのページをクリアーして待機中の表示となる。
そして、きょうチェックすると、それが販売中にかわっていた。
本ができあがったこともうれしいけど、
自分できめたタスクが、予定どおりにすすんだのを、自分でおどろく。
ゆうべはおいわいのお酒をのみすぎてしまう。

タイトルは『秘密結社鷹の爪としまねの吉田くん』。
吉田くんのふるさと しまねから、本場の「鷹の爪」愛をとどけたい。
35本の記事がはいっているけど、
かなりふるい記事もあり、残念ながらあまり新鮮味はない。
歯をくいしばっても、どうでもいい内容、とはいいたくないけど、
じっさいは、いまさらなんで鷹の爪?という気配がつよくただよう。
テレビ放送をしているうちに、はやく本にすればよかった。
それに、本ができあがってしまうと、
もっと文章をととのえれば、というおもいもわいてくる。
本をつくることが目的となってしまい、
内容はどうでもよくなってしまった。
3冊目こそ、飛躍の本づくりとしたい。
2019年01月23日
ツイッターがこころのささえ、でも ぜんぜんオッケー
わたしはツイッターでつぶやいたことがなく、
いったいなにがおもしろいのか理解できないのだけど、
新聞でなにかの記事をよんだとき、あるひとが、自分なりの方法で、
すごくたのしそうにツイッターとつきあっていた。
べつにだれがよもうとも、自分がいまを生きているあかしとして、
ブツブツつぶやくのもありなのだと気づく。
一方的な発信であってもかまわない。
ツイッターでなくても、ひとによっては
それがフェイスブックかもしれない。
まわりからは、ひとりさみしく くらしているようにみえても、
本人は、ツイッターにかきこむことを、こころのささえとして、
じゅうじつした時間をすごしているかもしれない。
それはそれで、いいんだ、とおもえてきた。
親密なコミュニケーションではないかもしれないけど、
だれかとつながっている実感は、けしてわるいものではない。
これからさき、世界じゅうで問題となっている高齢化において、
ツイッターなどのSNSが、おおくの老人にとって、
大切なこころの支柱となっていくかもしれない。
純粋なログでいいのなら、
わたしもツイッターでつぶやこうかともおもったけど、
入力に手間がかかりすぎて、実用的でない。
わたしにはブログのほうがあっているみたいだ。
わたしは7年まえからブログをかいており、
ほとんど関心をもたれないにもかかわらず、
あきらかにわたしの生活のなかで
ブログはひとつの句読点となっている。
いちにちにいちどの苦行、ではなく、たのしみとして。
「ブログをかいていなかったらとおもうと、すこしこわい」
と、すこしまえの記事にかいていた。
とも、何年もまえにかいている。
なかなか含蓄のあることばのような気がしてきた。
糸井重里さんが「ほぼ日」のどこかで、
なんでも10年やすみなくつづければ、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばを紹介していた。
気のきいたことはかけないとしても、
つづけるだけならわたしにもできるかもしれないと、
そのことばをささえに、10年をめざしてブログをかいている。
10年たったある日、わたしはなにを身につけているだろうか。
あたたかな部屋にストーブがもえていて、
テーブルのうえにはMacBook Airがあり、
ひざのうえにはネコがくつろいでいる。
ねるまえの読書にぴったりのミステリーと、すこしの寝酒。
いちにちに1本の記事をトボトボかきつづけ、
あのおじいさんは、けっこうしあわせにくらしましたとさ、
みたいな老人で、ぜんぜんオッケーだ。
10年のブログで獲得するのは、
あんがいそんな かれた心境だったりして。
なんだか、グルム童話かなにかの、むかしばなしみたいだ。
いったいなにがおもしろいのか理解できないのだけど、
新聞でなにかの記事をよんだとき、あるひとが、自分なりの方法で、
すごくたのしそうにツイッターとつきあっていた。
べつにだれがよもうとも、自分がいまを生きているあかしとして、
ブツブツつぶやくのもありなのだと気づく。
一方的な発信であってもかまわない。
ツイッターでなくても、ひとによっては
それがフェイスブックかもしれない。
まわりからは、ひとりさみしく くらしているようにみえても、
本人は、ツイッターにかきこむことを、こころのささえとして、
じゅうじつした時間をすごしているかもしれない。
それはそれで、いいんだ、とおもえてきた。
親密なコミュニケーションではないかもしれないけど、
だれかとつながっている実感は、けしてわるいものではない。
これからさき、世界じゅうで問題となっている高齢化において、
ツイッターなどのSNSが、おおくの老人にとって、
大切なこころの支柱となっていくかもしれない。
純粋なログでいいのなら、
わたしもツイッターでつぶやこうかともおもったけど、
入力に手間がかかりすぎて、実用的でない。
わたしにはブログのほうがあっているみたいだ。
わたしは7年まえからブログをかいており、
ほとんど関心をもたれないにもかかわらず、
あきらかにわたしの生活のなかで
ブログはひとつの句読点となっている。
いちにちにいちどの苦行、ではなく、たのしみとして。
「ブログをかいていなかったらとおもうと、すこしこわい」
と、すこしまえの記事にかいていた。
ほおっておいても明日はくるけど、
ほおっておいたらブログの1000回目はこない
とも、何年もまえにかいている。
なかなか含蓄のあることばのような気がしてきた。
糸井重里さんが「ほぼ日」のどこかで、
なんでも10年やすみなくつづければ、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばを紹介していた。
気のきいたことはかけないとしても、
つづけるだけならわたしにもできるかもしれないと、
そのことばをささえに、10年をめざしてブログをかいている。
10年たったある日、わたしはなにを身につけているだろうか。
あたたかな部屋にストーブがもえていて、
テーブルのうえにはMacBook Airがあり、
ひざのうえにはネコがくつろいでいる。
ねるまえの読書にぴったりのミステリーと、すこしの寝酒。
いちにちに1本の記事をトボトボかきつづけ、
あのおじいさんは、けっこうしあわせにくらしましたとさ、
みたいな老人で、ぜんぜんオッケーだ。
10年のブログで獲得するのは、
あんがいそんな かれた心境だったりして。
なんだか、グルム童話かなにかの、むかしばなしみたいだ。
2018年12月07日
どこにメモしたかをさがすのは すごく無駄だけどなんとかなる
なかなかなりやまない電話について きのうかいた記事は、
かきはじめてから ほんの30分でアップできた。
ただ そのまえに、ざっとメモした
ことのあらましをさがすのに 45分かかけている。
コピペすれば、すぐにできあがるほど、
完成度のたかいメモをかいたはずなのに、どこにもみあたらない。
あれさえあれば、すぐにアップできてらくだからと、
なんどもおなじ場所を無駄にさがしていた。
エバーノートにかいたとおもっていたのに、ちがった。
Scrapbox でも、WorkFlowyでもなかった。
ほぼ日手帳だったかなと、よみかえしてみるけど、ない。
さがしているうちに、いったいどれだけまえのことなのか
わからなくなってきて、ずいぶんさかのぼってさがした。
けっきょく、ロディアのメモ帳にあったのだけど、
記憶にあったような ほぼ完璧なメモではなく、
ただ数行をかきなぐっただけのものだった。
ロディアだと気づくまえに記事をかきだしており、
じっさい、ロディアにかいたメモがなくても
ぜんぜんさしつかえなかった。
この件の教訓は、
にがした魚は、じつはそんなにおおきくない、ではなくて、
たいしてやくにたたないから、
メモをしなくても大丈夫、でもなくて、
どこにメモしたかをさがすと、時間が無駄なので、
ひとつの場所にきめたようがいいみたい、でもない。
そうかくと、おりこーちゃん的ですてきだけど、
じっさいは、なかなかメモがみつからなくても、
けっきょくなんとかなる、というのが実感だ。
よくいわれるように、さがしものの時間は無駄でしかない。
あたりまえすぎるけど、ひらきなおっていえば、
教訓とはだいたいあたりまえのことがおおい。
あたりまえのことを、あたりまえにやるには、
なにか しくみづくりがほしいところだ。
わたしの場合、はじめにメモする場所はどこでもいいとして、
それらをエバーノートで一元管理したほうがまぎれにくい。
いつもはエバーノートになんでもあつめているつもりなのに、
今回の件では、つい手をゆるめてしまった。
でもまあ、それはそれで味のある時間をすごせた。
自由ポータルZの記事にたいする編集部からのコメントに、
「資料やメモを撮っておく」とあった。
これは、写真でとっておくと、管理がらくだよ、ということと、
執筆までは原紙も保管しておきましょう!
と、おしえてくれている。
保管しておく期限をかぎっているのがミソだ。
執筆さえすませれば用はすむのですててもいい。
執筆(アウトプット)までは一元管理で。
目的をはたしたあとは、どうあつかっても問題ない。
かきはじめてから ほんの30分でアップできた。
ただ そのまえに、ざっとメモした
ことのあらましをさがすのに 45分かかけている。
コピペすれば、すぐにできあがるほど、
完成度のたかいメモをかいたはずなのに、どこにもみあたらない。
あれさえあれば、すぐにアップできてらくだからと、
なんどもおなじ場所を無駄にさがしていた。
エバーノートにかいたとおもっていたのに、ちがった。
Scrapbox でも、WorkFlowyでもなかった。
ほぼ日手帳だったかなと、よみかえしてみるけど、ない。
さがしているうちに、いったいどれだけまえのことなのか
わからなくなってきて、ずいぶんさかのぼってさがした。
けっきょく、ロディアのメモ帳にあったのだけど、
記憶にあったような ほぼ完璧なメモではなく、
ただ数行をかきなぐっただけのものだった。
ロディアだと気づくまえに記事をかきだしており、
じっさい、ロディアにかいたメモがなくても
ぜんぜんさしつかえなかった。
この件の教訓は、
にがした魚は、じつはそんなにおおきくない、ではなくて、
たいしてやくにたたないから、
メモをしなくても大丈夫、でもなくて、
どこにメモしたかをさがすと、時間が無駄なので、
ひとつの場所にきめたようがいいみたい、でもない。
そうかくと、おりこーちゃん的ですてきだけど、
じっさいは、なかなかメモがみつからなくても、
けっきょくなんとかなる、というのが実感だ。
よくいわれるように、さがしものの時間は無駄でしかない。
あたりまえすぎるけど、ひらきなおっていえば、
教訓とはだいたいあたりまえのことがおおい。
あたりまえのことを、あたりまえにやるには、
なにか しくみづくりがほしいところだ。
わたしの場合、はじめにメモする場所はどこでもいいとして、
それらをエバーノートで一元管理したほうがまぎれにくい。
いつもはエバーノートになんでもあつめているつもりなのに、
今回の件では、つい手をゆるめてしまった。
でもまあ、それはそれで味のある時間をすごせた。
自由ポータルZの記事にたいする編集部からのコメントに、
「資料やメモを撮っておく」とあった。
撮影の時にメモを取ったり、取材の場合は資料をもらうじゃないですか。紙であればもちろん手元には残るんですけど、あわせてその場で写真に撮っておくといいです。紛失することがなくなるし、写真とひとまとめで管理できるので、楽です。
ただ、撮ったからといってすぐ捨ててしまうと、あとで映りが悪くて判読できない場合があります。執筆までは原紙も保管しておきましょう!
これは、写真でとっておくと、管理がらくだよ、ということと、
執筆までは原紙も保管しておきましょう!
と、おしえてくれている。
保管しておく期限をかぎっているのがミソだ。
執筆さえすませれば用はすむのですててもいい。
執筆(アウトプット)までは一元管理で。
目的をはたしたあとは、どうあつかっても問題ない。
タグ:メモ