2016年12月28日

グルテンフリー

本屋さんで『ジョコビッチの生まれ変わる食事』を
ペラペラめくっていたら、
グルテンフリーについてかかれていた。
小麦粉のはいったものをたべない食事だ。

何年かまえから「低炭水化物食」がもてはやされているけど、
いまはそれをさらにすすめて
「日本人はパンをたべるな」みたいな本を
みかけるようになった。
高炭水化物なうえに、小麦粉にふくまれるグルテンが
からだによくないらしい。
むかしから米をたべてきた日本人には、
遺伝的な体質から、とくに小麦粉があわないという。

ジョコビッチの本によると、
グルテンフリーにかえてから、からだの調子がよくなり、
2週間目からはさらに乳製品をやめたら
もっとキレキレにうごけるようになったとある。
パンやパスタなど、小麦を原料したものがたべないで、
良質の肉と油からカロリーをとる。

お金があるひとは、良質の肉を、なんていってられるけど、
一般人はそんなぜいたくをいってられない。
やすくてかんたんに手にはいる材料で
なんとかするしかない。
「ジョコビッチの食事」は
ジョコビッチの経済力があって はじめて可能となる。
やすい肉やあぶらが、どんな環境で生産されているかをかんがえると、
グルテンフリーだからといって、
かんたんにはすすめられないのでは。

わたしがつとめている介護事業所ではクッキーをつくっており、
その材料に小麦粉ではなく米粉をつかっている。
ジョコビッチがグルテンフリーの概念をひろめてくれたので、
ことばだけでもグルテンフリーを おおくのひとがしっている。
グルテンフリーの食事、というとめんどくさそうだけど、
グルテンフリーのクッキーは あんがいクールにひびく。

きょうは、毎週でかけている市役所へ、
クッキー販売におじゃました。
クッキーのはいったカゴをもって ひと部屋ごとにたずねると、
いつもよりお客さんの反応がいい。
まってました、というかんじで
クッキーのまわりにあつまってこられる。
グルテンフリーのおかげ、ではなく、
仕事おさめの12月28日なのがよかったみたいだ。
ことしさいごのクッキー販売なので、
まとめて数袋をかってくれるひとがおおかった。
グルテンフリーだから米粉のクッキーをえらばれたら、
ゆれうごく栄養学の 限定的な解釈につけこむみたいで
あんまりいい気がしないかもしれない。
たんじゅんに、おいしいからかってもらえたほうがうれしい。

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2016年12月12日

なぜ日本と中国だけが おわんをもってたべるのか

きのうのブログに
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
という説をそのままうけいれて、
日本(と中国)だけが食事のときに
おわんをもってたべるのは
スプーンがないせいだと かんたんに納得してしまった。
われながらのみこみがはやすぎる。
こんなことでは あっさりサギにひっかかりそうだ。

すこしかんがえてみると、
スプーンがなくてこまるのなら、スプーンにかわるなにかを
つくりだせばいいわけで、
「スプーンがないから」と
「おわんにくちをつけてたべる」は
あくまでも理由のひとつでしかない。
なぜ日本はスプーンなしですませてきたかの
説明がほしいところだ。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんを手にもって食事をするのか。

食事をするのにスプーン的な道具がどうしても必要なら、
竹や木をけずっていくらでもつくれる。
「(日本には)スプーンがないから
 おわんにくちをつけてたべる」と
かんたんにきめつけるまえに、
なぜ日本人はスプーンを必要としなかったかを、
不思議におもったほうがいい。
おわんとハシのコンビは完璧であり、
ほかの道具を必要としなかったのだろうか。
そもそも 日本にスプーンなかったから、
というのはほんとうなのか。
日本には「さじ」ということばがあるのだから、
スプーン的なものがいっさい発達しなかったわけではないだろう。

日本と中国にあって韓国にないものはなにか。
ねばりけのあるお米をたべる文化圏では
おわんとハシですべてことたりるので、
スプーンが必要ではなかったのだろうか。
でも、韓国のお米だって 日本ほどではないにしろ、
インディカ米よりもねばりけがある。

わからないことばかりで、
想像でしかものがいえない。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんをもってたべるのかは、
けっきょく謎のままだ。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

スプーンがなかったから

テレビ番組で、韓国の礼儀作法をとりあげていた。
韓国では、食事のときにおわんをもちあげないで、
テーブルにおいたままたべるそうだ。
中国はおわんをもちながら、ハシでわしわしと
おかずをのせたごはんをかきこんでいく。
極東に位置するご近所の国として、
ましてやハシの文化を共有する国どうしとして、
日本・中国・韓国は、おなじように
おわんをもってたべるかとおもっていたのに、
韓国だけちがっていた。
タイやカンボジアとおなじように、
韓国でも おわんをもちあげてたべるのは
無作法なふるまいとなる。

なぜ日本と中国だけが世界のほかの国と
ちがうたべ方をするのかを、
まえにブログでとりあげたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/231356877.html?1481455043
食事だけでなく、なにかの起源をかんがえるのはたのしい。
なぜおわんをもってたべる文化と、
もたない文化にわかれるのだろう。

このまえ「クールジャパン」で和食器をとりあげたとき、
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
ということを、女性のゲストがはなしていた。
そうなのか。そんなことが理由だったのか。
中国にはレンゲがありながら、おわんをもってたべる。
レンゲはスプーンににているけど、
もともとはべつの機能を目的に うまれたのかもしれない。
スプーンがないから、うつわに直接くちをつけてたべる
という指摘には 説得力がある。

ものすごくふかい精神性のもとに、
ややこしい作法ができあがったわけではなく、
いまあるしきたりのおおくは、
「スプーンがなかったから」みたいに、
物理的な必然からうまれたにすぎないのではないか。
なにかで無作法を指摘されたとしても、
その起源にどうせたいした理由はないので、
「スプーンがなかったから」と、
すましてこたえればいいみたいだ。

posted by カルピス at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

スリランカ料理めあてにでかけて うどんをたべる

勤務先の事業所を利用するHさんに つきあってもらい、
なじみのスリランカ料理の店へ。
仕事としての余暇支援ではなく、
純粋に「友だち」としてのつきあいだ。
わたしとHさんの両方が、そのスリランカ料理の店を気にいっており、
おいしくたべて おしゃべりもたのしめることから、
半年にいちどくらいのわりあいで いっしょにでかけている。
スリランカ料理といっても、とくにきどったお店ではなく、
スリランカの家庭料理は こんなかんじだろう、とおもえるような、
季節の野菜をつかった さりげないカレーをたべさせてくれる。

ところが 今夜たずねると、営業日が変則的になっており、
月曜日の午後はうどん屋さんにかわっていた。
そこらへんのこまかい事情はよくわからないけど、
うどん屋さんの店長は、スリランカ料理店とおなじひとだ。
うどん屋をするときは、スリランカ料理の店の となりの店をあけ、
うどん屋さんだけの営業となる。
カレーをたべるつもりででかけたのに、
きゅうにうどんといわれても、なかなかからだが対応できない。
それでも、料理をたべるだけでなく、
お店をたずねる理由の半分くらいは
お店のひとにあいたいからなので、
スリランカ料理をあきらめ うどん屋さんにはいる。

お店はレトロな雰囲気をコンセプトに、
ブラウン管のちいさなテレビがおかれ、
あかりには 暖色系の白熱灯がつかわれている。
たまたまナツメロの番組をやっていたこともあり、
お店のなかはすっかり昭和調だ。
うどんをすするのには ふさわしい演出かもしれない。

わたしにつきあってくれたHさんは、
店長や お手つだいの女性との おしゃべりが目あてだ。
はじめはお店がすいていて、
むかしのテレビ番組などを話題に 機嫌よくはなしかけていたけど、
そのうちお客さんでカウンターがいっぱいになる。
どうもHさんは商売繁盛の福の神のようで、
今夜だけでなく Hさんさんといく日は
しばしばこういうことがおきる。
店長が本格的にいそがしくなってきたので、
Hさんとしては不本意なはやい時間に われわれは店をあとにした。

Hさんがつぎにまわったのは、ちかくの駅にある足湯だ。
足湯をたのしみたい、というよりも、
パターン化したうごきを なぞりたい傾向がHさんにはあり、
わたしとしても そこがHさんといっしょにであるく
たのしさでもある。
Hさんといっしょにでかけなければ、夜に足湯なんて ふつうしない。
いそがしさで うるおいのない生活になっているとき、
Hさんといっしょにいるだけで 時間のながれがかわってくる。
足湯をおえ、Hさんを家までおくりに 夜道をあるく。
わたしとHさんだけをのこして 世界がおわったみたいに 町がしずかだ。
島根ではよくあることで、夜8時をすぎた松江の町は、
鷹の爪カレンダーの自虐ギャグになるくらい
(「夜7時を過ぎても明るい町づくり。」など)、
ひとどおりがすくない。
あわただしくすぎた きょういちにちの あんなこと、こんなことが、
Hさんといっしょにすごしたおかげで、みごとにリセットされた。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

『世界入りにくい居酒屋』みたいなお店の 常連になりたい

仕事の時間がふえたり、旅行番組をみたりすると、
とたんに旅行にいきたくなる。
しらない町のちいさなカフェにこしかけて、
外の景色をみたり、店主とはなしたり すこし本をよんだり。
なじみの店になり、常連たちともすこしおしゃべりしたい。
われながらワンパターンなイメージで、
ようするに旅行というよりも、
その町でくらすかんじにあこがれるみたいだ。

NHK-BSプレミアムの『世界入りにくい居酒屋』は、
わたしが理想とする店より、ちょっとさわがしいけど、
たのしそうな番組の雰囲気が気にいっている。
女性ふたりの出演者(ほとんど声だけ)が、
ただ「おいしそー!」「これは絶対おいしいわ!」と
おおさわぎしながら感想をかたるだけ。
ほんとうに もう、「おいしそー!」しかいわないのだ。
なかよしの女の子ふたりが、テレビをみながら
すきかってにつっこんでいるかるさがいい。

その町やお店について、彼女たちはなんの情報も もってなく、
映像をみながら 自分たちもはじめてお店にはいったお客として
テキトーに 無責任なあいの手をいれる。
おいしそうな料理に ただ「おいしそー!」というだけで、
これだけひねりのない感想は かえってめずらしい。
よくありがちな旅番組は、
有名な女優がリポーターとなり、
名物料理の店や、特産品をつくる工房を
うっとりとした表情でほめたたえる。
そうした番組には、こちらのひがみからか 距離をかんじるのに、
『世界入りにくい居酒屋』は
彼女たちといっしょに番組をみているかんじだ。

世界じゅうに、常連たちがたいせつにする
いごこちのよさそうなお店がある。
店のスタイルはそれぞれだけど、
店主がお金もうけをめざすのではなく、
自分の生活のいちぶとしてお店にいるのが共通している。
お店にいるのが、店主にとって生活であり、
常連たちも そんな店がまえに気をゆるして
そこを自分の居場所にしていく。
こんなお店がサードプレイスとして、
生活をすこしだけたのしくしてくれるのだろう。

そんなのは、わざわざ旅行にでかけなくても、
いますんでいる町でもできる。
いまやらないでおいて、
いつか旅行にいったときに なじみのお店をつくろうなんて、
発想がそもそもずれている。
それに、気のおけない常連となるのは、
気づいたら常連になっていたわけで、
なろうとして常連をめざすのは なんだかへんだ。
けっきょく、どう生きてきたかが
自分の生活のたのしさをきめるという
あたりまえな結論におちついてしまう。
『世界入りにくい居酒屋』は、
そんな残念な反省をしなくてもいい かるさにすくわれる。

posted by カルピス at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする