2017年08月22日

毎週のイオンフードコートはまずしくないか

イオンのフードコートへ つきそうで でかけたら、
ちかくのテーブルに先週もみかけた 親子づれがいるのに気づいた。
女の子ふたりにお父さん・お母さんの4人だ。
おなじ時間に、おなじ場所にすわっている。
こっちだって、おなじ時間、おなじ場所なのだから
にたようなものだけど、
わたしはおでかけの支援として、
そのつど別のひとときている。

この家族は、毎週日曜日のブランチを(10時半なので)
イオンのフードコートときめているのか。
はじめにみたときは、家族でのスペシャルな食事にみえ、
たのしくやってねと、応援をおくっていたけど、
もしかして毎週、となると、印象がちがってくる。
いちどめにみたときは、お父さんが
むすめさんの のこしたラーメンをすすっていた。
にどめはそれぞれが自分の注文したものをたべている。
そんな、ごくふつうの風景が、
いっぺんにさえない日常にみえてきた。

そんなことは、わたしが文句をいう筋あいではない。
毎週のイオンフードコートが団らんの象徴であってもいいわけで、
子どもたちがおおきくなれば、家族がまとまりをもっていた
しあわせな時間だったとなつかしくおもいだすだろう。
わたしは、さえない日常こそが人生だと、ひごろはいってるくせに、
イオンフードコート的な場所を、
気のきかないまずしい選択としてきめつけてしまう。
わたしの発想こそが固定観念にしばられ、偏見にまみれている。
あの家族は、平凡な日常をしゅくしゅくとすごす達人にちがいない。

フードコートをみわたしてみると、
この家族だけでなく、おなじみとなった顔にいくつもであう。
あんがいおおくのひとが、毎週のイオンフードコートをたのしみに
たいくつな一週間をやりすごしているのかもしれない。
いまやイオンフードコートは、すぐれた大衆文化へとそだち、
きわめて日本的で クールな場所になっている。
自分たちの家族だけが ほかのひととちがうところへいくのではなく、
とりあえずたいていのものがそろうイオンへ だれもがなびく。
平和でいい光景なのかもしれない。

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2016年12月28日

グルテンフリー

本屋さんで『ジョコビッチの生まれ変わる食事』を
ペラペラめくっていたら、
グルテンフリーについてかかれていた。
小麦粉のはいったものをたべない食事だ。

何年かまえから「低炭水化物食」がもてはやされているけど、
いまはそれをさらにすすめて
「日本人はパンをたべるな」みたいな本を
みかけるようになった。
高炭水化物なうえに、小麦粉にふくまれるグルテンが
からだによくないらしい。
むかしから米をたべてきた日本人には、
遺伝的な体質から、とくに小麦粉があわないという。

ジョコビッチの本によると、
グルテンフリーにかえてから、からだの調子がよくなり、
2週間目からはさらに乳製品をやめたら
もっとキレキレにうごけるようになったとある。
パンやパスタなど、小麦を原料したものがたべないで、
良質の肉と油からカロリーをとる。

お金があるひとは、良質の肉を、なんていってられるけど、
一般人はそんなぜいたくをいってられない。
やすくてかんたんに手にはいる材料で
なんとかするしかない。
「ジョコビッチの食事」は
ジョコビッチの経済力があって はじめて可能となる。
やすい肉やあぶらが、どんな環境で生産されているかをかんがえると、
グルテンフリーだからといって、
かんたんにはすすめられないのでは。

わたしがつとめている介護事業所ではクッキーをつくっており、
その材料に小麦粉ではなく米粉をつかっている。
ジョコビッチがグルテンフリーの概念をひろめてくれたので、
ことばだけでもグルテンフリーを おおくのひとがしっている。
グルテンフリーの食事、というとめんどくさそうだけど、
グルテンフリーのクッキーは あんがいクールにひびく。

きょうは、毎週でかけている市役所へ、
クッキー販売におじゃました。
クッキーのはいったカゴをもって ひと部屋ごとにたずねると、
いつもよりお客さんの反応がいい。
まってました、というかんじで
クッキーのまわりにあつまってこられる。
グルテンフリーのおかげ、ではなく、
仕事おさめの12月28日なのがよかったみたいだ。
ことしさいごのクッキー販売なので、
まとめて数袋をかってくれるひとがおおかった。
グルテンフリーだから米粉のクッキーをえらばれたら、
ゆれうごく栄養学の 限定的な解釈につけこむみたいで
あんまりいい気がしないかもしれない。
たんじゅんに、おいしいからかってもらえたほうがうれしい。

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2016年12月12日

なぜ日本と中国だけが おわんをもってたべるのか

きのうのブログに
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
という説をそのままうけいれて、
日本(と中国)だけが食事のときに
おわんをもってたべるのは
スプーンがないせいだと かんたんに納得してしまった。
われながらのみこみがはやすぎる。
こんなことでは あっさりサギにひっかかりそうだ。

すこしかんがえてみると、
スプーンがなくてこまるのなら、スプーンにかわるなにかを
つくりだせばいいわけで、
「スプーンがないから」と
「おわんにくちをつけてたべる」は
あくまでも理由のひとつでしかない。
なぜ日本はスプーンなしですませてきたかの
説明がほしいところだ。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんを手にもって食事をするのか。

食事をするのにスプーン的な道具がどうしても必要なら、
竹や木をけずっていくらでもつくれる。
「(日本には)スプーンがないから
 おわんにくちをつけてたべる」と
かんたんにきめつけるまえに、
なぜ日本人はスプーンを必要としなかったかを、
不思議におもったほうがいい。
おわんとハシのコンビは完璧であり、
ほかの道具を必要としなかったのだろうか。
そもそも 日本にスプーンなかったから、
というのはほんとうなのか。
日本には「さじ」ということばがあるのだから、
スプーン的なものがいっさい発達しなかったわけではないだろう。

日本と中国にあって韓国にないものはなにか。
ねばりけのあるお米をたべる文化圏では
おわんとハシですべてことたりるので、
スプーンが必要ではなかったのだろうか。
でも、韓国のお米だって 日本ほどではないにしろ、
インディカ米よりもねばりけがある。

わからないことばかりで、
想像でしかものがいえない。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんをもってたべるのかは、
けっきょく謎のままだ。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

スプーンがなかったから

テレビ番組で、韓国の礼儀作法をとりあげていた。
韓国では、食事のときにおわんをもちあげないで、
テーブルにおいたままたべるそうだ。
中国はおわんをもちながら、ハシでわしわしと
おかずをのせたごはんをかきこんでいく。
極東に位置するご近所の国として、
ましてやハシの文化を共有する国どうしとして、
日本・中国・韓国は、おなじように
おわんをもってたべるかとおもっていたのに、
韓国だけちがっていた。
タイやカンボジアとおなじように、
韓国でも おわんをもちあげてたべるのは
無作法なふるまいとなる。

なぜ日本と中国だけが世界のほかの国と
ちがうたべ方をするのかを、
まえにブログでとりあげたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/231356877.html?1481455043
食事だけでなく、なにかの起源をかんがえるのはたのしい。
なぜおわんをもってたべる文化と、
もたない文化にわかれるのだろう。

このまえ「クールジャパン」で和食器をとりあげたとき、
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
ということを、女性のゲストがはなしていた。
そうなのか。そんなことが理由だったのか。
中国にはレンゲがありながら、おわんをもってたべる。
レンゲはスプーンににているけど、
もともとはべつの機能を目的に うまれたのかもしれない。
スプーンがないから、うつわに直接くちをつけてたべる
という指摘には 説得力がある。

ものすごくふかい精神性のもとに、
ややこしい作法ができあがったわけではなく、
いまあるしきたりのおおくは、
「スプーンがなかったから」みたいに、
物理的な必然からうまれたにすぎないのではないか。
なにかで無作法を指摘されたとしても、
その起源にどうせたいした理由はないので、
「スプーンがなかったから」と、
すましてこたえればいいみたいだ。

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2016年04月04日

スリランカ料理めあてにでかけて うどんをたべる

勤務先の事業所を利用するHさんに つきあってもらい、
なじみのスリランカ料理の店へ。
仕事としての余暇支援ではなく、
純粋に「友だち」としてのつきあいだ。
わたしとHさんの両方が、そのスリランカ料理の店を気にいっており、
おいしくたべて おしゃべりもたのしめることから、
半年にいちどくらいのわりあいで いっしょにでかけている。
スリランカ料理といっても、とくにきどったお店ではなく、
スリランカの家庭料理は こんなかんじだろう、とおもえるような、
季節の野菜をつかった さりげないカレーをたべさせてくれる。

ところが 今夜たずねると、営業日が変則的になっており、
月曜日の午後はうどん屋さんにかわっていた。
そこらへんのこまかい事情はよくわからないけど、
うどん屋さんの店長は、スリランカ料理店とおなじひとだ。
うどん屋をするときは、スリランカ料理の店の となりの店をあけ、
うどん屋さんだけの営業となる。
カレーをたべるつもりででかけたのに、
きゅうにうどんといわれても、なかなかからだが対応できない。
それでも、料理をたべるだけでなく、
お店をたずねる理由の半分くらいは
お店のひとにあいたいからなので、
スリランカ料理をあきらめ うどん屋さんにはいる。

お店はレトロな雰囲気をコンセプトに、
ブラウン管のちいさなテレビがおかれ、
あかりには 暖色系の白熱灯がつかわれている。
たまたまナツメロの番組をやっていたこともあり、
お店のなかはすっかり昭和調だ。
うどんをすするのには ふさわしい演出かもしれない。

わたしにつきあってくれたHさんは、
店長や お手つだいの女性との おしゃべりが目あてだ。
はじめはお店がすいていて、
むかしのテレビ番組などを話題に 機嫌よくはなしかけていたけど、
そのうちお客さんでカウンターがいっぱいになる。
どうもHさんは商売繁盛の福の神のようで、
今夜だけでなく Hさんさんといく日は
しばしばこういうことがおきる。
店長が本格的にいそがしくなってきたので、
Hさんとしては不本意なはやい時間に われわれは店をあとにした。

Hさんがつぎにまわったのは、ちかくの駅にある足湯だ。
足湯をたのしみたい、というよりも、
パターン化したうごきを なぞりたい傾向がHさんにはあり、
わたしとしても そこがHさんといっしょにであるく
たのしさでもある。
Hさんといっしょにでかけなければ、夜に足湯なんて ふつうしない。
いそがしさで うるおいのない生活になっているとき、
Hさんといっしょにいるだけで 時間のながれがかわってくる。
足湯をおえ、Hさんを家までおくりに 夜道をあるく。
わたしとHさんだけをのこして 世界がおわったみたいに 町がしずかだ。
島根ではよくあることで、夜8時をすぎた松江の町は、
鷹の爪カレンダーの自虐ギャグになるくらい
(「夜7時を過ぎても明るい町づくり。」など)、
ひとどおりがすくない。
あわただしくすぎた きょういちにちの あんなこと、こんなことが、
Hさんといっしょにすごしたおかげで、みごとにリセットされた。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする