2017年10月26日

MEC食を1ヶ月ためしてみて

那覇市「こくらクリニック」の渡辺信幸さんが提唱するMEC食
(いちにちに、肉200グラム・卵3個・チーズ120グラムを
よくかんでたべる食事法)
をためしてから1ヶ月になる。
低炭水化物食よりも、目標とする数字がはっきりしているので
なにをたべるのかが わかりやすい。
炭水化物をなるべくたべない、よりも、
たんぱく質をたくさんたべる、のほうが
かんがえ方として健全な気がする。

渡辺さんがMEC食をおもいついた出発点として、
欧米型だった沖縄の食生活が、本土型になるにつれ、
肥満と糖尿病がふえたことをあげている。
離島のおおい沖縄で、病気になると通院がたいへんなので、
大切なのは治療よりも予防と渡辺さんはかんがえた。
沖縄には肉食文化が根づいており、
抵抗なくうけいれられる食事としてMEC食にたどりついた。

やせ型のわたしは、低炭水化物食をこころみると、
たくわえている脂肪がすくないので、カロリー不足になりやすい。
MEC食は、まず必要な栄養素をとりいれてから、
余裕があればほかのたべものを、
という順序なので、わたしにむいている。
漠然とした低炭水化物食では、体重がおちてしまったけど、
MEC食にしてから体重が1キロふえ、
体力に余裕ができた気がする。

わたしはMEC食のかんがえ方がすごくふにおちたけど、
たとえば食のほそい老人にとっても、
MEC食は具体的なめやすとなるのではないか.。
なんとなく 肉や卵をたくさんたべましょう、では、
野菜や炭水化物でおなかがいっぱいになり、
結果として栄養不足になりやすい。
MEC食は、肉や卵をじゅうぶんにたべるので、
野菜を中心にした食事よりもコンパクトになる。
腹八分でも、必要なカロリーをとりいれられる。

卵3個とチーズ120グラムをたべるのは、なんとかなるけど、
肉の200グラムはあんがいハードルがたかい。
MEC食をつづけようとすると、食材にお金がかかるので、
やすい肉料理を工夫したいところだ。
鳥の胸肉がやすいけど、ふつうにやくだけではパサついていて、
そんなにつづけてたべられるものではない。
いまは、クックパッドが
いくつもの料理をおしえてくれるのでたすかる。
ひらきなおって、パサついた胸肉こそが肉食のだいごみ、
と自分にいいきかせるのも手だ。

こんなに肉をたべて、地球環境は大丈夫なのか。
よくいわれるように、穀物を1キロそだてるのよりも、
肉として牛をそだてるのは、はるかに水やエネルギーを必要とする。
倫理面からみた命の問題もある。
MEC食なんていいながら、
おおくの命を自分のためにうばって平気なのか。
食の安全も気になるだろう。
この肉や卵、それにチーズは、
農薬と化学肥料にまみれてそだったのではないか。
MEC食をこころみるのなら、これらの問題から目をそむけられない。
肉の値段ばかりをみて かいものをしていて いいわけがない。
MEC食は、いかに生きるかも といかけてくる。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

アルコール度でワインをえらぶ女性

しりあいの女性(50代)と、お酒についてはなしていた。
彼女は とりあえずなんでものむけれど、ワインは白がいいのだそうで、
肉だろうが魚だろうが、料理にかかわらずいつでも白らしい。
わたしもワインはすきだ。
といっても、ふだんは500円のやすいワインをのんでいるし、
かりに1本3000円のワインをのんでも、たぶんちがいはわからない。
ワインがすきだといっても そのていどだし、
その女性もにたようなレベルだ。
そんなふたりの会話なのでなかみはしょぼい。
500円でのめるチリの安ワイン、アルパカでじゅうぶん満足だ、
とわたしが貧乏派を代表してアルパカのすばらしさをたたえる。
アルパカの赤には、カベルネ・メルローと、
カルメネールの2種類がある。
わたしはいつもカベルネ・メルローをのんでいるけど、
たまたまカルメネールをのんだら、ちがいがまったくわからなかった。
「どちらもおいしい」のは、すばらしい。

その女性は、アルコール度でワインをえらぶという。
13%がおおいなかで、なかには14%のものもあるそうで、
アルコール度がたかいほうがおいしい、というよりも、
アルコール度がたかければ、
手っとりばやくよえるという意味での選択だ。
わたしは、ワインなんてどれも12%かとおもっていた。
女性がこういう視点でワインをえらぶのは、
なんだか男まえでいいなとおもった。
まるで体育会系の男子学生みたいだ。
ワインはどこそこのものにかぎる、よりも、
きっぱりと「ワインは度数でえらぶ」ほうがいさぎよい。

わたしはサッカーの試合をみるのがすきだけど、
そのをとき ふつうはお酒をのまない。
真剣しプレーしている選手に失礼だからだ。
それが基本方針なのに、ある試合をみているとき、
なんとなくワインをのんでしまった。
料理につかったのこりを、コルクのビンから
ペットボトルにうつしてとっておいた。
1000円くらいの、もともとやすいワインだし、
コルクをぬいて1週間たっているので、そうとう味がおちているだろう。
これぐらいのトホホワインなら、
試合ちゅうにのんでもゆるされるのでは、と
よくわかりにく理由をつけてのみはじめる。
でも、おいしかった。
なんだかんだと のこっていた500ccぜんぶをのんでしまう。
サッカーとワインがこんなにあうとはおもわなかった。
デイリーポータルZは、
「お酒にあうスポーツ」を特集してくれないだろうか。

posted by カルピス at 06:50 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

毎週のイオンフードコートはまずしくないか

イオンのフードコートへ つきそうで でかけたら、
ちかくのテーブルに先週もみかけた 親子づれがいるのに気づいた。
女の子ふたりにお父さん・お母さんの4人だ。
おなじ時間に、おなじ場所にすわっている。
こっちだって、おなじ時間、おなじ場所なのだから
にたようなものだけど、
わたしはおでかけの支援として、
そのつど別のひとときている。

この家族は、毎週日曜日のブランチを(10時半なので)
イオンのフードコートときめているのか。
はじめにみたときは、家族でのスペシャルな食事にみえ、
たのしくやってねと、応援をおくっていたけど、
もしかして毎週、となると、印象がちがってくる。
いちどめにみたときは、お父さんが
むすめさんの のこしたラーメンをすすっていた。
にどめはそれぞれが自分の注文したものをたべている。
そんな、ごくふつうの風景が、
いっぺんにさえない日常にみえてきた。

そんなことは、わたしが文句をいう筋あいではない。
毎週のイオンフードコートが団らんの象徴であってもいいわけで、
子どもたちがおおきくなれば、家族がまとまりをもっていた
しあわせな時間だったとなつかしくおもいだすだろう。
わたしは、さえない日常こそが人生だと、ひごろはいってるくせに、
イオンフードコート的な場所を、
気のきかないまずしい選択としてきめつけてしまう。
わたしの発想こそが固定観念にしばられ、偏見にまみれている。
あの家族は、平凡な日常をしゅくしゅくとすごす達人にちがいない。

フードコートをみわたしてみると、
この家族だけでなく、おなじみとなった顔にいくつもであう。
あんがいおおくのひとが、毎週のイオンフードコートをたのしみに
たいくつな一週間をやりすごしているのかもしれない。
いまやイオンフードコートは、すぐれた大衆文化へとそだち、
きわめて日本的で クールな場所になっている。
自分たちの家族だけが ほかのひととちがうところへいくのではなく、
とりあえずたいていのものがそろうイオンへ だれもがなびく。
平和でいい光景なのかもしれない。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

グルテンフリー

本屋さんで『ジョコビッチの生まれ変わる食事』を
ペラペラめくっていたら、
グルテンフリーについてかかれていた。
小麦粉のはいったものをたべない食事だ。

何年かまえから「低炭水化物食」がもてはやされているけど、
いまはそれをさらにすすめて
「日本人はパンをたべるな」みたいな本を
みかけるようになった。
高炭水化物なうえに、小麦粉にふくまれるグルテンが
からだによくないらしい。
むかしから米をたべてきた日本人には、
遺伝的な体質から、とくに小麦粉があわないという。

ジョコビッチの本によると、
グルテンフリーにかえてから、からだの調子がよくなり、
2週間目からはさらに乳製品をやめたら
もっとキレキレにうごけるようになったとある。
パンやパスタなど、小麦を原料したものがたべないで、
良質の肉と油からカロリーをとる。

お金があるひとは、良質の肉を、なんていってられるけど、
一般人はそんなぜいたくをいってられない。
やすくてかんたんに手にはいる材料で
なんとかするしかない。
「ジョコビッチの食事」は
ジョコビッチの経済力があって はじめて可能となる。
やすい肉やあぶらが、どんな環境で生産されているかをかんがえると、
グルテンフリーだからといって、
かんたんにはすすめられないのでは。

わたしがつとめている介護事業所ではクッキーをつくっており、
その材料に小麦粉ではなく米粉をつかっている。
ジョコビッチがグルテンフリーの概念をひろめてくれたので、
ことばだけでもグルテンフリーを おおくのひとがしっている。
グルテンフリーの食事、というとめんどくさそうだけど、
グルテンフリーのクッキーは あんがいクールにひびく。

きょうは、毎週でかけている市役所へ、
クッキー販売におじゃました。
クッキーのはいったカゴをもって ひと部屋ごとにたずねると、
いつもよりお客さんの反応がいい。
まってました、というかんじで
クッキーのまわりにあつまってこられる。
グルテンフリーのおかげ、ではなく、
仕事おさめの12月28日なのがよかったみたいだ。
ことしさいごのクッキー販売なので、
まとめて数袋をかってくれるひとがおおかった。
グルテンフリーだから米粉のクッキーをえらばれたら、
ゆれうごく栄養学の 限定的な解釈につけこむみたいで
あんまりいい気がしないかもしれない。
たんじゅんに、おいしいからかってもらえたほうがうれしい。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

なぜ日本と中国だけが おわんをもってたべるのか

きのうのブログに
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
という説をそのままうけいれて、
日本(と中国)だけが食事のときに
おわんをもってたべるのは
スプーンがないせいだと かんたんに納得してしまった。
われながらのみこみがはやすぎる。
こんなことでは あっさりサギにひっかかりそうだ。

すこしかんがえてみると、
スプーンがなくてこまるのなら、スプーンにかわるなにかを
つくりだせばいいわけで、
「スプーンがないから」と
「おわんにくちをつけてたべる」は
あくまでも理由のひとつでしかない。
なぜ日本はスプーンなしですませてきたかの
説明がほしいところだ。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんを手にもって食事をするのか。

食事をするのにスプーン的な道具がどうしても必要なら、
竹や木をけずっていくらでもつくれる。
「(日本には)スプーンがないから
 おわんにくちをつけてたべる」と
かんたんにきめつけるまえに、
なぜ日本人はスプーンを必要としなかったかを、
不思議におもったほうがいい。
おわんとハシのコンビは完璧であり、
ほかの道具を必要としなかったのだろうか。
そもそも 日本にスプーンなかったから、
というのはほんとうなのか。
日本には「さじ」ということばがあるのだから、
スプーン的なものがいっさい発達しなかったわけではないだろう。

日本と中国にあって韓国にないものはなにか。
ねばりけのあるお米をたべる文化圏では
おわんとハシですべてことたりるので、
スプーンが必要ではなかったのだろうか。
でも、韓国のお米だって 日本ほどではないにしろ、
インディカ米よりもねばりけがある。

わからないことばかりで、
想像でしかものがいえない。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんをもってたべるのかは、
けっきょく謎のままだ。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする