2016年12月11日

スプーンがなかったから

テレビ番組で、韓国の礼儀作法をとりあげていた。
韓国では、食事のときにおわんをもちあげないで、
テーブルにおいたままたべるそうだ。
中国はおわんをもちながら、ハシでわしわしと
おかずをのせたごはんをかきこんでいく。
極東に位置するご近所の国として、
ましてやハシの文化を共有する国どうしとして、
日本・中国・韓国は、おなじように
おわんをもってたべるかとおもっていたのに、
韓国だけちがっていた。
タイやカンボジアとおなじように、
韓国でも おわんをもちあげてたべるのは
無作法なふるまいとなる。

なぜ日本と中国だけが世界のほかの国と
ちがうたべ方をするのかを、
まえにブログでとりあげたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/231356877.html?1481455043
食事だけでなく、なにかの起源をかんがえるのはたのしい。
なぜおわんをもってたべる文化と、
もたない文化にわかれるのだろう。

このまえ「クールジャパン」で和食器をとりあげたとき、
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
ということを、女性のゲストがはなしていた。
そうなのか。そんなことが理由だったのか。
中国にはレンゲがありながら、おわんをもってたべる。
レンゲはスプーンににているけど、
もともとはべつの機能を目的に うまれたのかもしれない。
スプーンがないから、うつわに直接くちをつけてたべる
という指摘には 説得力がある。

ものすごくふかい精神性のもとに、
ややこしい作法ができあがったわけではなく、
いまあるしきたりのおおくは、
「スプーンがなかったから」みたいに、
物理的な必然からうまれたにすぎないのではないか。
なにかで無作法を指摘されたとしても、
その起源にどうせたいした理由はないので、
「スプーンがなかったから」と、
すましてこたえればいいみたいだ。

posted by カルピス at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

スリランカ料理めあてにでかけて うどんをたべる

勤務先の事業所を利用するHさんに つきあってもらい、
なじみのスリランカ料理の店へ。
仕事としての余暇支援ではなく、
純粋に「友だち」としてのつきあいだ。
わたしとHさんの両方が、そのスリランカ料理の店を気にいっており、
おいしくたべて おしゃべりもたのしめることから、
半年にいちどくらいのわりあいで いっしょにでかけている。
スリランカ料理といっても、とくにきどったお店ではなく、
スリランカの家庭料理は こんなかんじだろう、とおもえるような、
季節の野菜をつかった さりげないカレーをたべさせてくれる。

ところが 今夜たずねると、営業日が変則的になっており、
月曜日の午後はうどん屋さんにかわっていた。
そこらへんのこまかい事情はよくわからないけど、
うどん屋さんの店長は、スリランカ料理店とおなじひとだ。
うどん屋をするときは、スリランカ料理の店の となりの店をあけ、
うどん屋さんだけの営業となる。
カレーをたべるつもりででかけたのに、
きゅうにうどんといわれても、なかなかからだが対応できない。
それでも、料理をたべるだけでなく、
お店をたずねる理由の半分くらいは
お店のひとにあいたいからなので、
スリランカ料理をあきらめ うどん屋さんにはいる。

お店はレトロな雰囲気をコンセプトに、
ブラウン管のちいさなテレビがおかれ、
あかりには 暖色系の白熱灯がつかわれている。
たまたまナツメロの番組をやっていたこともあり、
お店のなかはすっかり昭和調だ。
うどんをすするのには ふさわしい演出かもしれない。

わたしにつきあってくれたHさんは、
店長や お手つだいの女性との おしゃべりが目あてだ。
はじめはお店がすいていて、
むかしのテレビ番組などを話題に 機嫌よくはなしかけていたけど、
そのうちお客さんでカウンターがいっぱいになる。
どうもHさんは商売繁盛の福の神のようで、
今夜だけでなく Hさんさんといく日は
しばしばこういうことがおきる。
店長が本格的にいそがしくなってきたので、
Hさんとしては不本意なはやい時間に われわれは店をあとにした。

Hさんがつぎにまわったのは、ちかくの駅にある足湯だ。
足湯をたのしみたい、というよりも、
パターン化したうごきを なぞりたい傾向がHさんにはあり、
わたしとしても そこがHさんといっしょにであるく
たのしさでもある。
Hさんといっしょにでかけなければ、夜に足湯なんて ふつうしない。
いそがしさで うるおいのない生活になっているとき、
Hさんといっしょにいるだけで 時間のながれがかわってくる。
足湯をおえ、Hさんを家までおくりに 夜道をあるく。
わたしとHさんだけをのこして 世界がおわったみたいに 町がしずかだ。
島根ではよくあることで、夜8時をすぎた松江の町は、
鷹の爪カレンダーの自虐ギャグになるくらい
(「夜7時を過ぎても明るい町づくり。」など)、
ひとどおりがすくない。
あわただしくすぎた きょういちにちの あんなこと、こんなことが、
Hさんといっしょにすごしたおかげで、みごとにリセットされた。

posted by カルピス at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

『世界入りにくい居酒屋』みたいなお店の 常連になりたい

仕事の時間がふえたり、旅行番組をみたりすると、
とたんに旅行にいきたくなる。
しらない町のちいさなカフェにこしかけて、
外の景色をみたり、店主とはなしたり すこし本をよんだり。
なじみの店になり、常連たちともすこしおしゃべりしたい。
われながらワンパターンなイメージで、
ようするに旅行というよりも、
その町でくらすかんじにあこがれるみたいだ。

NHK-BSプレミアムの『世界入りにくい居酒屋』は、
わたしが理想とする店より、ちょっとさわがしいけど、
たのしそうな番組の雰囲気が気にいっている。
女性ふたりの出演者(ほとんど声だけ)が、
ただ「おいしそー!」「これは絶対おいしいわ!」と
おおさわぎしながら感想をかたるだけ。
ほんとうに もう、「おいしそー!」しかいわないのだ。
なかよしの女の子ふたりが、テレビをみながら
すきかってにつっこんでいるかるさがいい。

その町やお店について、彼女たちはなんの情報も もってなく、
映像をみながら 自分たちもはじめてお店にはいったお客として
テキトーに 無責任なあいの手をいれる。
おいしそうな料理に ただ「おいしそー!」というだけで、
これだけひねりのない感想は かえってめずらしい。
よくありがちな旅番組は、
有名な女優がリポーターとなり、
名物料理の店や、特産品をつくる工房を
うっとりとした表情でほめたたえる。
そうした番組には、こちらのひがみからか 距離をかんじるのに、
『世界入りにくい居酒屋』は
彼女たちといっしょに番組をみているかんじだ。

世界じゅうに、常連たちがたいせつにする
いごこちのよさそうなお店がある。
店のスタイルはそれぞれだけど、
店主がお金もうけをめざすのではなく、
自分の生活のいちぶとしてお店にいるのが共通している。
お店にいるのが、店主にとって生活であり、
常連たちも そんな店がまえに気をゆるして
そこを自分の居場所にしていく。
こんなお店がサードプレイスとして、
生活をすこしだけたのしくしてくれるのだろう。

そんなのは、わざわざ旅行にでかけなくても、
いますんでいる町でもできる。
いまやらないでおいて、
いつか旅行にいったときに なじみのお店をつくろうなんて、
発想がそもそもずれている。
それに、気のおけない常連となるのは、
気づいたら常連になっていたわけで、
なろうとして常連をめざすのは なんだかへんだ。
けっきょく、どう生きてきたかが
自分の生活のたのしさをきめるという
あたりまえな結論におちついてしまう。
『世界入りにくい居酒屋』は、
そんな残念な反省をしなくてもいい かるさにすくわれる。

posted by カルピス at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

高炭水化物な食事をたのしむ

きのうは配偶者の実家へむかうとちゅう
わたしだけ車をおりて 10キロはしった。
いつになくおだやかな天気がつづく年末年始となり、
順調にトレーニングがすすんでいる。

もっとも いつもながらゆっくりしかはしれず、
こんなランナーをみたら なにかの異常事態だと
かんちがいするひとがいるのではないか。
しりあいに
「はしっているのをみかけたよ」
といわれたら
「なんでたすけてくれなかったの?」
とききかえすことにしている。
それぐらいヘロヘロなはしりなのだ。
リハビリ中や、ものすごくていねいな
ウォーミングアップにみえたらありがたい。
LSDというには、はしりに余裕がなさすぎる。

たくさんはしってなにをするかというと、
ひるごはんをガツガツたべる。
ごはん・メン類・パンと、めちゃくちゃな献立の日がおおい。
献立というよりも、主食をならべただけ。
わたしにとっての食事とは、でんぷんをたっぷりとることで、
どうしてもごはんとメンとパン、みたいな
炭水化物の摂取に特化した食事となる。
すきなだけたべるために はしっているような気もする。
のこりもののおかずでごはんをたべたあと、
メン、そしてパンにうつる。
メンといっても、たいていはゆでたスパゲッティに
醤油とたっぷりのバターをからめただけだし、
パンもバターつき食パンがおおい。
スポーツ栄養学からみたときに、
こういう食事はどう評価されるのだろう。

このごろは、炭水化物がなにかと悪玉になっているけど、
こうした情報のうつろいやすさをよくしっているので、
低炭水化物ダイエットなんかにふりまわされない。
大胆に炭水化物をとりこみながら
低炭水化物ダイエットをしているひとに、
うらやましいでしょーと自慢したくなる。
炭水化物をたべれなくて、なにが食事かとおもう。

人類は、ながい歴史のうち
炭水化物をえられるようになったのは ごく最近にすぎず、
大量の炭水化物を処理できるからだに なっていないそうだ。
やっとふんだんに 炭水化物をたべられるようになったうれしさから、
わたしみたいな食事になるのかもしれない。
炭水化物をならべたメニューは
おさえられてきた欲求の反動であり、
人類が夢みてきた食事、ひとつの到達点ともいえる。
そういえば、すきな旅番組で料理がでてきても、
わたしが関心をよせるのたべものは パンやメンがおおく、
豪華な肉料理には ほとんどそそられない。
せっかく高炭水化物な食事を
かんたんにたべられるようになったのだから、
しっかりからだをうごかして、
ごはんとメンとパン、さらにいえば
粉モンとイモ類をたのしみたい。
いい時代に生まれたとおもう。

posted by カルピス at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

ひとりでうつくしくたべるのは、あんがいむつかしい

ひるごはんなど、台所でのこりものをたべているときによくおもうけど、
ひとりできれいに食事するのは、あんがいむつかしい。
たべているとちゅうでいろんなこと、
たとえばおかずをレンジであたためたり、
とりわすれたおかずをおもいだして冷蔵庫をあけたり、
たべおえたお皿を、まだほかのものをたべているのに ながしにはこんだり、
そのときにお皿のよごれを、ついでに紙でふきとったり。
ひとりでたべているのに、やたらとあわただしい。
たべながら、腰をあげるのがおおすぎるのだ。
ひとりでたべるときくらい、
すきにやればいいようなものだけど、
ひとりのときこそ おちついてうつくしくたべたくもある。

自閉症の障害特性のひとつとして、視覚優位があげられる。
耳からはいる情報よりも、目にはいるもののほうへ 敏感に反応するという特性だ。
しかしこれは、自閉症にかぎらず おおくのひとにいえることで、
目にはいると だれでもついおもってなかったことをやってしまう。
よごれたお皿をみるとながしにもっていきたくなるし、
レンジのフタがあいているとすぐにしめたくなる。
冷蔵庫におかずをしまうとちゅうに テーブルのうえにだしてあるバターをみると、
手がふさがっているのに、それもついでにかたづけたくなる。
あんがいわたしはかなり視覚優位な人間かもしれない。
目にはいらなければ気にならないのだから、
調教のとき馬につけるような道具(ブリンカーというのだそうだ)をつかい、
目にはいる範囲をせまくかぎってしまえば たべることに集中できるだろう。
しかし、もちろんそんなものにたよりたくはない。

これらをすべて解決できるのがお弁当だ。
どれだけたべたらいいのかに なやむことがないし、
いろんなお皿がまわりにちらかりもしない。
お弁当箱にはいっているのがすべてなのだから、
すごくわかりやすい。
箱にいれる手間をいとわなければ、
お弁当くらいすばらしい方法はない。

おちついてテーブルにつくというのとはべつに、
おはしのつかい方やちゃわんのもち方など、
きれいにたべるためのハードルはたかい。
「わたしばし」はよくないというけれど、
そもそもわたしのうちには はしおきがない。
これらの「作法」もおおきな問題ではあるけれど、今回は そこまでふれない。

よく、ひとりでくらすときにも、
手をぬかずに食事や身のまわりをととのえる大切さを指摘される。
ひとり分でも わたしはおそうざいにたよらずに
自分でかいものをして料理する自信がある。
でも、せっかくそうやってつくっても、
きれいにたべられなかったら なんだかピントをはずしているみたいだ。
これからさき、なんにんかでテーブルにつき、
おしゃべりしながらたべられるときばかりではないだろう。
ひとりのときにでも、だれにみられてもはずかしくない食事は
わたしにとってすごくむつかしい。

posted by カルピス at 13:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする