2017年12月07日

「やさしい日本語」がやさしくない悲劇

けさの朝日新聞に、
「やさしい日本語」を紹介する記事がのっていた。
外国人にもわかりやすい「やさしい日本語」をつかい、
生活情報をつたえる活動がひろがっているという。
こうしたとりくみがわたしはすきで、
自分でも、できるだけ「やさしい日本語」による、
わかりやすい文章をかいているつもりだ。

記事をよんでみると、こまったことに
すんなり頭にはいってこない。
記事がなにを紹介したいのかはわかるけど、
文章はけしてやさしくはない。
紹介してある具体例も、よくわからない。
「やさしい日本語」の記事がやさしくないなんて、
わるい冗談みたいだ。

たとえば、
「やさしい日本語の主なルール」として

・難しいことばを避け、簡単なことばを使う
・1文を短くする
・漢字の分量に注意し、ふりがなをふる
・二重否定の表現は避ける
・ローマ字は使わない

とあるけど、
そういうルールにした理由が説明してないし、
具体的な例があげてないのでわかりづらい。
なぜ「ローマ字は使わない」のか、
理由がわからなければ、ルールとして参考にできない。
「二重否定の表現を避ける」も、
どんな表現を二重否定というのかが、
わたしにはわからない。
いじわるして わからないふりをしてるのではなく、
ほんとうにわからない。

このまえ町をあるいているときに
「お洒落貴族」というさんぱつ屋さんの看板が目にはいった。
自分から「お洒落」なんていいだせば、
ハードルをぐんとあがてしまう。
お店のすべてを「お洒落」にきめなければ かっこがつかない。
自分で自分の首をしめてるようなものではないか。

「やさしい日本語」にしても、そういうからには、
ほんとうにやさしい日本語をのぞみたい。
記事には、オープンキャンパスで
「やさしい日本語」を高校生に説明している写真がのっている。
壁にはってある模造紙に
「減災のための『やさしい日本語』」と
タイトルがかいてある。
「減災のため」が、そもそもやさしくないと
なんで気づかないのだろう。
「難しいことばを避け、簡単なことばを使う」のが
ルールではなかったのか。

ネットで「やさしい日本語」のルールをみると、
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo/EJ9tsukurikata.ujie.htm#%EF%BC%91%EF%BC%91
ローマ字をつかわない理由について、
ローマ字は、駅名や地名などの固有名詞を表記するためのもので、文を書くことには不向きです。ローマ字を使って日本語の文を表記することはしないでください

とあった。
ひとつのかんがえ方ではあるけれど、
賛成できない基本方針だ。
ほかにも、わたしのこのみをはずれるルールがいくつもある。
「やさしい日本語」は、わたしがおもっている わかりやすい日本語と、
かなりちがうとりくみのようだ。すこしがっかりする。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

要約をこばむ 糸井重里さんの文章

糸井重里さんの文章は、要約がとてもむずかしい。
どこかの1行をひっぱってこようとしても、
いいくぎりがみつからないまま、
ずるずるとながい文章をうつしかねない。
たとえば、ほぼ日の「今日のダーリン」は、
いちにち分がそれほどながくない、
日記みたいなエッセイなのに、
そのなかには、おおきなテーマになりそうなはなしが
いくつも もりこまれている。

きょうの「今日のダーリン」は、
「矢野顕子さんが出演する番組に
 ゲストみたいなかたちでおじゃましてきた」
ではじまる。
番組のなかで話題になった新曲は、
矢野さんと糸井さんが1981年につくった曲の
アンサーソングであるという。
あれから36年たち、曲のなかでうたわれているふたりは
その後どう生きたのだろう、
というのも、じつに魅力的な話題だ。

糸井さんは、そこから話題をよこにふって、
曲のなかのふたりに、矢野さんと自分とをかさねてみる。
ロミオことまさおくんと、ジュリエットのみどりちゃんの
人生の時計は、もちろん36年分も進んでいるけれど、
これ、矢野顕子とぼくの作曲作詞のコンビも、
それくらいの年月生きてきたということでもある。

どちらも健康で生きているから歌がつくれた。
もうちょっと言えば、ある程度の品質の歌を、
まだつくれるほどには現役でいる、ということでもある。

健康で、しかも現役として仕事ができるしあわせ。
しかし、はなしはそれでおわらない。
(糸井さんの)「しあわせ」みたいなものを、
ひとつずつ集めて献立表にしたら、
「矢野顕子との歌づくりが続いている」ということは、
とても太い文字で書かれているだろうなとね。

しあわせとは、なが生きしつつ、
よい友人と いっしょに仕事ができるすばらしさかも。

おわりのほうで、
こんどの『Soft Landing』というアルバムのなかでは、
他に2曲、矢野顕子依頼の「野球が好きだ」という曲と、
ぼくが勝手につくった、ある種のラブソング、
「夕焼けのなかに」という曲がある。

というから、それもまたききたくなってくる。

と、けきょく 引用だらけとなり、
むりにまとめようとすると、
本文の魅力がゴソッとぬけおちてしまう。
このように、糸井重里さんの文章は、
きれめがなく、どこまでもゆるやかにつながっていて、
チョコチョコっとあんちょこな引用をこばむところがある。
紹介しようとすると、かきだしから おわりまでの
すべてにふれなければ 全体の意味をつたえられない。
かんたんな文章にみせながら、じつに個性的で、
まねしようとしても すぐにボロがでてしまう。
全体がひとつとして 強力にまとまっており、
一部だけをかりてきても、鮮度をたもてない。

「今日のダーリン」をエバーノートにとりこみながら、
タイトル名をどうつけるのかに、いつもこまっている。

posted by カルピス at 09:38 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月01日

災害時だけでなく、いつも「やさしい日本語」を

10月29日の朝日新聞に、
外国人を避難誘導するさいの、
わかりやすい日本語がとりあげられていた。
災害のときに、外国人にむけて
避難をよびかけることばを、
消防局がみなおしているという。
2020年に東京オリンピックがひらかれるので、
はやく具体的な方針をうちだす必要があるのだろう。
英語や中国語などの、特定のことばに訳してつたえるのではなく、
あくまでも日本語で、というのが基本となるかんがえ方だ。

これまでのよびかけ例と、
それを「やさしい日本語」にするとどうなるかが
いくつか紹介されている。
自然と、むつかしい熟語ではなく、
耳できいたときにわかりやすいことばがえらばれる。

「余震に注意して下さい」は、
「後からくる地震に気をつけて下さい」に、
「消火しているので迂回して下さい」は、
「火を消しているので違う道を行って下さい」となる。

そもそも外国人にむけて
「余震に注意して下さい」なんて、いうほうがどうかしている。
災害のときは、いのちにかかわることなので、
ことばについて、本質的なといかけがなされている。
でも、災害だけでなく、あらゆる場面で
「やさしい日本語」は おたがいの理解をふかめ、
コミュニケーションをたすけてくれるはずだ。
司法でつかわれる日本語が、あまりにも日常でつかうことばから
かけはなれていると、よく指摘される。
司法だって、いのちにかかわるわけで、
だれもがきいてわかることばのほうが、いいにきまっている。

その点、わたしのブログは、
できるだけわかりやすいことばをえらんでいるつもりなのに、
いまだに評価されず、残念な日々をすごしている。
日本語を、いきた文章としてまなべる場なので、
おおくの外国人によんでもらえたらうれしい。
わたしのブログをよみなれていたら、
災害のときのよびかけが、じゅうぶん理解できるだろう。
いのちをすくう日本語力養成ブログとして、
外国人のかたにつよくおすすめしたい。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

手がきの文章をそえるのに、意味があるのか

毎週すこしの時間アルバイトをしているお店で、
自己紹介文をもとめられた。
直筆でかいてほしいという。
納品書のうらにつけて、お客さんへのサービスとするのだ。
ネット注文という 顔のみえない関係でも、
手がきの文章をそえることで、
あたたかみがつたわるという。

わたしはつよい抵抗をしめした。
わたしはものすごく字がきたないため、
パソコン以外で字をかくのが ほんとうにいやだ。
顔に障害のあるひとにたいし、
整形や化粧なしでひとまえにでろというのは暴力だろう。
字のへたなひとに、気にしなくていいからと
直筆をもとめるのもおなじだ。

それに、なにかにつけて直筆をありがたがる感覚が
わたしにまったくはわからない。
直筆でかけば、誠意がつたわるとおもうのはなぜか。
情緒にたよって 相手の関心をひくようで
いかにも気がすすまない。
直筆と誠意とは、まったく関係がない。

たいせつなのは、文章のなかみのはずだ。
達筆で、うまい文章なら問題はないけれど、
わたしのように字がへたなものは、
無理して ていねいにかこうとするよりも、
パソコンをつかって推敲をかさね、
よむにあたいする文章をかいたほうがずっといい。
たぶんお店のひとだって、やりたくてやっているのではなく、
客商売にたずさわるものとして しかたなく、
といったところだろう。
「しかたなく」そうさせる圧力は、 わたしの美意識となじまない。

手がきの自己紹介文に抵抗した結果、
パソコンでかいて、さいごに直筆でサイン、
という形式でいいと 条件をゆるめてもらえた。
直筆で誠意をみせるよりも、内容で判断されるわけだから、
よんでつまらなければ、
そんな文章をかいたわたしがわるいと納得できる。
字がへたくそだから よんでもらえないよりも ずっといい。

ついでにいうと、
わざわざアルファベットでかかれた新聞をさがしてきて、
なにかをくるんだり、かざりにするのも、わたしはいやだ。
おしゃれでしょー、といいたいらしいけど、
いったいなんのことだかわからない。
なぜ日本語の新聞ではダサくて、
アルファベットならすてきなのか。

ずいぶんめんどくさい人間みたいだけど、
手がきによる誠意と、英語の新聞をつかっての包装を、
わたしはずっとうたがっている。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月09日

むつかしい女性の会話文

コラム・イナモトをみていたら、
女口調についてのはなしがのっていた。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20060213
女口調で書くとどんどん書けるという話があって、実際にやってみるととてもよくわかるの。

かきやすいかどうか わたしはわからないけど、
本をよんでいると、女性の会話文はむつかしいとよくおもう。
たとえば、「〜だわ」「〜なの」
なんてはなす女性はあまりいないのに、
本のなかではいまだによくでてくる。
日常会話でわたしたちは、
それほど男らしさや女らしさを つかいわけていない。
それをそのまま会話文にすると
だれの発言かわからなくなるので、
本むけの女性ことばがつかわれるのだろうか。

女性作家でも「〜だわ」とやるひとがいるし、
男でも違和感のない会話をかけるひとがいる。
翻訳物のミステリーでは、
女性にどうしゃべらせるかが とりわけむつかしい。
翻訳であること、女性の会話であること、と
ふたつのハードルが 自然な会話のじゃまをする。
頭がよくて、行動派の女性が
「〜だわ」なんていえば、いっぺんに興ざめだ。
ある翻訳家の「〜わ」にどうしてもなじめなくて、
そのひとの本をよまなくなったことがある。
ふだんつかわれていないはなし方を本のなかにもちこんで、
いかに自然な会話としてよませるかが、
作者の力量となる。

とかきながら、わたしの配偶者は、
いまでも「〜だわ」「〜よ」を ふつうにつかっている。
なんのつもりだろうか。絶滅危惧種かもしれない。
そんなしゃべりかたは本のなかだけにして、
とおもいながら、ほろびられてはこまるので なにもいわない。

イナモトさんはことばあそびの天才なので、
女口調のはなしをエスカレートさせる。
「会社の議事録を女口調で書くのはダメ」が
イナモトさんのアドバイスだ。
<営業会議議事録(2006年2月13日)
作成:田中太郎
1.山田部長より
・最近、売り上げが目に見えて減ってるの
・A社の新製品「バラダイン・スーパーX」が価格・性能面で脅威ということもあるの
・でも、こういうときこそ、営業部の力をアピールするときよ☆

こうした女口調をおもいついたのは だれなのだろう。
ふだん女性でもつかわないはなし方を、
文字にするときだけとりいれたのは
画期的なつかい方だったのではないか。
とりあつかいに注意がいるとはいえ、
おもしろい発明だとおもう。
イナモトさんみたいに、わたしも女口調をためしてみたら、
配偶者とのあいだによこたわるふかい谷が
すこしは形をかえるかもしれない。

posted by カルピス at 15:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする