2017年03月29日

伊藤理佐さんによる日常生活の冒険

毎週金曜日の朝日新聞に、
「オトナになった女子たちへ」のコラムがあり、
伊藤理佐さんと益田ミリさんが交代で記事をかいている。
まえはちがう曜日で、べつのひともまじえた企画だったとおもうけど、
正確な記憶はない。
とにかく、いまは伊藤さんと益田さんのふたりによるコーナーであり、
伊藤理佐さんの回をわたしはたのしみにしている。
とかくと、益田さんのはどうでもいいみたいだけど、
とくにそうした意味はなく、「どちらかというと」というはなしだ。
しかし、おふたりにとったら、どちらに人気があるかは
たいへん気になるところだろう。
たとえ「どちらかというと」のレベルにしても、
自分の記事のほうが「どちらかというと」
よまれてほしいとねがうのは当然だ。

益田さんは、ときどき伊藤さんへのライバル心をちらつかせる。
気になってしかたがないと、正直に胸のうちをあかされる。
伊藤さんは、そうした益田さんへの返答として、
「会わなくてもわかるひと」を先週かいている。
会おうと思えば会えるけど会わなくてもいい人。会ったら楽しいだろうなあ、でも会わなくてもわかる、というか。いつかどこかで会えると、なぜか思っていて、親戚の集まりで「あの人も来るよ」と聞くとホットするような。でも連絡先は知らないみたいな。

それが益田ミリさんなのだそうだ。うまい。
伊藤さんだって、益田さんへのおもいがあるだろうに、
こんなふうにかけるのは 生活者としての
ゆたかな経験をかんじさせる。

かぞえてみると、わたしは伊藤理佐さんの記事を
この3年間でエバーノートに43とっている。
マンガ家としてよりも、おもしろいエッセイとして、
目のつけどころにいつも感心してきた。
身のまわりでおきた なんでもなさそうなことが話題だ。
伊藤さんがはなしをすすめるうちに、
裏にかくされていた ふかい意味にようやく気づく。
人生は、たとえささやかなできごとでも
みかたをかえれば含蓄にみちている。

たとえば、「雪の朝、私は艦長になった」は、
日常生活にとつぜんおとずれる緊張がテーマだ。
雪がつもった日の朝、幼稚園からはおやすみのメールがとどかない。
幼稚園は、やる気だ。
先生たちの「幼稚園、やります」を裏切れない、と思った時には、地球を出発するヤマトの船員のようになってしまった。(中略)
・・・と、このようにですね、雪が降ると刑事っぽくなって、ボスになって艦長になって、船員になってしまう。

ご自分でかかれたさしえには、
防寒着に身をかためた親子とすれちがう伊藤さんが、
雪とたたかう同士として
キリッとあいさつをかわす場面がえがかれている。
雪をイベントにしてしまう きりだしかたが、
雪の朝あるあるで、すごくたのしい。

宮ア駿さんが、作品にとりあげるのは
身のまわり3メートルの範囲でおきたできごと、
となにかでかたっていた。
伊藤さんのエッセイも そんなかんじ。
おおきな問題はあつかわれない。
目のまえでおきている ささやかなあれやこれにも
とりあげかたによって こんな味がかくされていたとは。
ゆるい人間をよそおいながら、伊藤さんは人生の高段者であり、
どんなものでも行間をふかくよみ、
裏にかくされた秘密をあきらかにする。

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2016年04月13日

手がきの文章をそえるのに、意味があるのか

毎週すこしの時間アルバイトをしているお店で、
自己紹介文をもとめられた。
直筆でかいてほしいという。
納品書のうらにつけて、お客さんへのサービスとするのだ。
ネット注文という 顔のみえない関係でも、
手がきの文章をそえることで、
あたたかみがつたわるという。

わたしはつよい抵抗をしめした。
わたしはものすごく字がきたないため、
パソコン以外で字をかくのが ほんとうにいやだ。
顔に障害のあるひとにたいし、
整形や化粧なしでひとまえにでろというのは暴力だろう。
字のへたなひとに、気にしなくていいからと
直筆をもとめるのもおなじだ。

それに、なにかにつけて直筆をありがたがる感覚が
わたしにまったくはわからない。
直筆でかけば、誠意がつたわるとおもうのはなぜか。
情緒にたよって 相手の関心をひくようで
いかにも気がすすまない。
直筆と誠意とは、まったく関係がない。

たいせつなのは、文章のなかみのはずだ。
達筆で、うまい文章なら問題はないけれど、
わたしのように字がへたなものは、
無理して ていねいにかこうとするよりも、
パソコンをつかって推敲をかさね、
よむにあたいする文章をかいたほうがずっといい。
たぶんお店のひとだって、やりたくてやっているのではなく、
客商売にたずさわるものとして しかたなく、
といったところだろう。
「しかたなく」そうさせる圧力は、 わたしの美意識となじまない。

手がきの自己紹介文に抵抗した結果、
パソコンでかいて、さいごに直筆でサイン、
という形式でいいと 条件をゆるめてもらえた。
直筆で誠意をみせるよりも、内容で判断されるわけだから、
よんでつまらなければ、
そんな文章をかいたわたしがわるいと納得できる。
字がへたくそだから よんでもらえないよりも ずっといい。

ついでにいうと、
わざわざアルファベットでかかれた新聞をさがしてきて、
なにかをくるんだり、かざりにするのも、わたしはいやだ。
おしゃれでしょー、といいたいらしいけど、
いったいなんのことだかわからない。
なぜ日本語の新聞ではダサくて、
アルファベットならすてきなのか。

ずいぶんめんどくさい人間みたいだけど、
手がきによる誠意と、英語の新聞をつかっての包装を、
わたしはずっとうたがっている。

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2015年10月09日

むつかしい女性の会話文

コラム・イナモトをみていたら、
女口調についてのはなしがのっていた。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20060213
女口調で書くとどんどん書けるという話があって、実際にやってみるととてもよくわかるの。

かきやすいかどうか わたしはわからないけど、
本をよんでいると、女性の会話文はむつかしいとよくおもう。
たとえば、「〜だわ」「〜なの」
なんてはなす女性はあまりいないのに、
本のなかではいまだによくでてくる。
日常会話でわたしたちは、
それほど男らしさや女らしさを つかいわけていない。
それをそのまま会話文にすると
だれの発言かわからなくなるので、
本むけの女性ことばがつかわれるのだろうか。

女性作家でも「〜だわ」とやるひとがいるし、
男でも違和感のない会話をかけるひとがいる。
翻訳物のミステリーでは、
女性にどうしゃべらせるかが とりわけむつかしい。
翻訳であること、女性の会話であること、と
ふたつのハードルが 自然な会話のじゃまをする。
頭がよくて、行動派の女性が
「〜だわ」なんていえば、いっぺんに興ざめだ。
ある翻訳家の「〜わ」にどうしてもなじめなくて、
そのひとの本をよまなくなったことがある。
ふだんつかわれていないはなし方を本のなかにもちこんで、
いかに自然な会話としてよませるかが、
作者の力量となる。

とかきながら、わたしの配偶者は、
いまでも「〜だわ」「〜よ」を ふつうにつかっている。
なんのつもりだろうか。絶滅危惧種かもしれない。
そんなしゃべりかたは本のなかだけにして、
とおもいながら、ほろびられてはこまるので なにもいわない。

イナモトさんはことばあそびの天才なので、
女口調のはなしをエスカレートさせる。
「会社の議事録を女口調で書くのはダメ」が
イナモトさんのアドバイスだ。
<営業会議議事録(2006年2月13日)
作成:田中太郎
1.山田部長より
・最近、売り上げが目に見えて減ってるの
・A社の新製品「バラダイン・スーパーX」が価格・性能面で脅威ということもあるの
・でも、こういうときこそ、営業部の力をアピールするときよ☆

こうした女口調をおもいついたのは だれなのだろう。
ふだん女性でもつかわないはなし方を、
文字にするときだけとりいれたのは
画期的なつかい方だったのではないか。
とりあつかいに注意がいるとはいえ、
おもしろい発明だとおもう。
イナモトさんみたいに、わたしも女口調をためしてみたら、
配偶者とのあいだによこたわるふかい谷が
すこしは形をかえるかもしれない。

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2014年03月31日

文章は、かけなくてあたりまえ

文章のかきかたについて、いろいろな本がでているし、
注意すべき点や、大切なコツとかをよく耳(目にも)にする。
それぞれもっともな指摘であるにしても、
まずおさえておいたほうがいいのは
かけなくてあたりまえ、ということだ。

うつくしい文章をめざすわけではなくても、
正確でわかりやすくかくことでさえ、どれだけむつかしいことか。
ながい語句をまえに、とか、句読点のうちかたとか、
文章のセンスとはなんの関係もなく、
ただきまりをまもればいいようなことを説明しても、
おおくのひとはできない。
これは、できないひとの能力がたりないのではなく、
文章をかくことはそれだけむつかしいということだ。
できないことを基準にかんがえる。
文章力の基準は、そうとうひくくみつもってまちがいない。
期待しなければ失望もない、というのとはちがう。
文章力を、だれにもそなわっているはずの能力と、
とらえないほうが実態をあらわしているのだ。
一般的におもわれているほど、文章をかくのはやさしいことではない。
かけないのは、そのひとのせいではなく、かけなくてあたりまえなのだ。

義務教育で英語を勉強しても、
ほとんどのひとはつかえるようにならない。
はしりはばとびや100メートル走にしても、
あるレベル以上になると、だれにでもこえられる記録ではない。
文章力もそれとおなじだ。
できないのがふつうだと おもったほうがいい。
文章力だけが、なぜだれにでも身につくちからだと しんじられているのだろう。
日常的に日本語をはなしているからといって、
それを文章であらわすのは、またべつの能力であり、
つかいこなすためには、かなりの時間をかける必要がある。
かけなくてあたりまえであり、それを前提に
わかりやすく 正確につたわるかきかたを かんがえる。

「今まで文書を書くことが苦手だった人にも、
ワープロの普及で文書を作成する機会が増えました。
しかし、カナ漢字変換によって難しい漢字が文面に増えてきて
読みづらさを感じることがあります。
漢字は一目見て多くの概念を伝えることができる有用な文字ですが、
文中に漢字が多すぎるものは圧迫感があります。
そのため、新聞などでは長年の実践の中で記載方法を整理してきています。
私たちも、その成果に学びたいものです」

これは、あるサイトにのっていた「文章の書き方」だ。
なにかの冗談かとおもった。
「成果に学びたい」といいながら
じゅうぶんに圧迫感のある漢字のおおさだ。

文章についておしえる側になると、
かけないひとへのいらだちからか、
ちからがはいってすべってしまう例がおおい。
わかりやすく説明しようとして、
そこなし沼にとらわれたように 身うごきがつかなくなる。
うえから目線のかきかたにもなりやすいようだ。
ものすごくたくさんの英語についての本があるように、
ものすごくたくさんの文章についての本がある。
両方とも、決定版はうまれていない。

さらにいえば、文章だけでなく、すべてにおいて
「できなくてあたりまえ」とおもっていたほうが、
謙虚に、こころしずかに生きることができる。
才能なんて、ないのがあたりまえであり、
ないことを基準にかんがえれば、あることが とてもありがたくなる。
お金も時間も、ないのがあたりまえであり、あるのがありがたい。

まいにちブログをかいていると、
「あれ、これはまえにかいたことかも」ということがよくある。
そんなときには「おぼえていなくてあたりまえ」のひとことにすくわれる。
「あたりまえ」にすりかえてしまえば、
記憶力のわるさになやむこともない。
すこしぐらいよくにた内容についてかいたとしても、
それがどうしたというのだ。

と、これはただのひらきなおりであり、
こうなってしまうと とりあつかいのむつかしい
やっかいな人間になってしまう。
謙虚さと傲慢さは、紙一重だ。

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2013年11月07日

形容詞についてかんがえる。「目をそむけたくなるほど、なさけない男」って、どんなヤツなのだろう

自動車の運転中、ラジオのロシヤ語講座をきいていたら、
講師のカーチャさんが、
ロシア映画のはなしをしていた。
ひとりの女性をめぐる男たちのものがたりのようだ。
4人の男がいて、そのひとりひとりについて
カーチャさんがキャラクターを説明する。
3番めの男は
「目をそむけたくなるほど、なさけない男だったのです」
と紹介される。
カーチャさんのたどたどしくて、かわいらしい日本語で、
「目をそむけたくなるほど、なさけない男」
ということばがはなされると
すごくおかしかった。

「目をそむけたくなるほど、なさけない男」
とは、どんな男なのだろう。
番組のとちゅうで用事がはいったので、
具体的な「なさけなさ」はききそびれた。
それにしてもずいぶんインパクトのある表現だ。

以前、宮崎駿さんが
「文章は形容詞からくさってくる」と
なにかにかいておられた。
形容詞にたよっていると、
たとえば「日本の誇るゼロ戦」などという、
根拠のない紋切り型のことばに無神経になってしまう、という文脈だった。
それ以来、できるだけ形容詞をつかわない文章を意識するようになる。
といっても「基本方針は」ということで、
形容詞をギリギリにけずった文章は、そうかんたんではない。

すこしまえの「ほぼ日」に、糸井重里さんが
それまで形容詞を「あんまり重要じゃないもの」
としてとらえていたけれど、

「ぼくが大事にしてきたのは、
案外『形容詞』のほうだったのかもしれない」

とかかれていた。

「いろんなことの判断をするときに、
『あたたかい・やわらかい・かるい・あかるい』を、
選ぼうとしてた」

かならずしも文章における形容詞ではないにしても、
これもまた新鮮な視点だ。

カーチャさんの
「目をそむけたくなるほど、なさけない男」
は、ただ単純に「なさけなさ」を強調したのだろうけど、
ことばのおもしろさって、形容詞なのかも、
とカーチャさんのはなしをきいているとおもえてきた。

posted by カルピス at 10:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする