2021年05月13日

古賀さんの「5秒のことを200字かけて書く」に感心する

デイリーポータルZ編集部の古賀さんが
日記は1日のことをまるまる書こうとせずに5秒のことを200字かけて書くと良い

とツイートしていた。
アドバイスというより、お子さんにむけた「布教」だという。
「5秒のことを200字かけて書く」。
なにかすごくふかいことばにおもえる。
ほんの瞬間にすぎない できごとや発言からなにかをかんじ、
そのこころのうごきを文章にする。
ブログでも、このテクニックをいかせそうだ。
いわれてみると、わたしがこのブログにかく記事のおおくは、
こうした「5秒」のできごとをひきのばしてかいている。
そのできごとをみたり きいたりしたときに、
なにかひらめきがあるかどうか。
ひらめきをうまくとらえると、すらすらかけるし、
うまくいかないときは、くるしまぎれに
べつのなにかをひきずりこんで ごまかしたりする。

母親から「5秒のことを200字かけて書く」
といわれた古賀さんのむすめさんは、
「靴下をはいた状態で玄関に立ち
 サンダルと靴どちらを履こうか悩んだ」
と日記にかいて提出したそうだ。
いちにちのながれをだらだらかくよりも、
「サンダルと靴どちらを履こうか悩」むわたしから、
たしかに そのひととなりが うかんできそうだ。
なんだか村上春樹さんのカキフライ理論をおもいだす。
自分についてかきなさいといわれたら、
そんなことスラスラかけるわけないと、頭をかかえたくなる。
でも、そんなときは、すきなカキフライについてかけばいい。
なぜすきか、どうやってたべたらおいしいかなど、
細部にせまっていくと、おのずから
自分という人間がうきぼりになってくる、という理論だ。
カキフライについてかくことは、自分についてかくことでもある。

とはいえ、わたしはだらだら、というか、
淡々とすべてのうごきをおいかけた日記がきらいではない。
日記は文学ではなく記録、というおもいがあるからで、
具体的な時間や値段が かきこまれた記録ほど 価値がたかい。
数字のおおい そうした記述は、いっけん退屈そうだけど、
日記がすきなものからすれば 貴重な記録であり、
だんだんとふかみにはまっていく。
そんな記録をブログにかいても PVはふえないだろうけど、
「1日のことをまるまる書」いた日記にも
それはそれで なんともいえない魅力がある。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月13日

文章をみぢかくするとうまくいく

アルバイトさきのハーブショップでは、
苗の発送にあわせ、スタッフがかいた
「季節のあいさつ」を納品書に同封し、
お客さまへのサービスとしている。
あらためて文章をかくのはたいへんなので、
わたしはブログにかいた記事のうちから適当なものをえらび、
この「季節のあいさつ」につかいまわしをしている。

まるうつしできたららくだけど、40行ほどの記事を、
A5紙におさまるよう、みぢかくする作業が必要で、
これがあんがいむつかしく、勉強にもなる。
ブログをかくときには、必要最小限の記述となるよう
気をくばっているつもりなので、それをさらにみぢかくすると、
もとの趣旨をあらわせないのでは、とはじめはおもっていた。
あるいは、要点だけの文となり、うるおいにかけるのでは、とも。
でも、A5紙におさまるように、大胆なみなおしをかけると、
もとの記事をかなり省略したものになりながらも、
ちゃんとした内容をたもったままの「あいさつ文」ができあがる。
文章がみぢかいだけ、かきなおしたもののほうが、
すんなりつたわりやすいかもしれない。
かくほうは、できるだけわかりやすいように、
いろいろな例をあげて説明したつもりでも、
よむ側からすると、ただくどいだけかもしれないから。

「シゴタノ!」の大橋悦夫さんが、「えのさん」の発行している、
9行のみのメルマガを紹介していた。
https://cyblog.jp/238
えのさんに
「9行以内でスパッと言い切れないなら、結局それは伝わらない」
といわれ、大橋さんはたしかにそうだと納得したという。
1.最初はとりあえず行数を気にせずワーッと書く
2.次に9行に収まるようにどんどん縮めていく
3.努力の甲斐なく9行に収まらなかったら、そのネタは捨てる

せっかくかいた文章をすてるのは、もったいない気がするけど、
「9行以内に収まらないということは自分で扱える範囲を超えているのだと考えています。(中略)そもそも自分でスパッと言い切れないようなことを書いても読んでいる人には伝わらないでしょう」

そして、えのさんは、引用もしないのだそうで、
なぜなら引用なんかしていると、9行におさまらないから。
わたしの記事は、ときには引用だらけなので耳がいたい。

ブログをかくときに、どうにもうまくいかないときは、
ひとまとまりの文をきりすてたら、すんなりまとまることがある。
うまくいかなかったらみぢかくきりすてる、はひとつのコツだ。
とはいえ、9行は、そうとうみぢかい。
40行をA5紙におさめるだけでたいへんなのだから、
9行にしぼるのは、発想をかえないとむつかしそうだ。
のこされた9行は ほんとう必要な情報なのだろう。
えのさんのかんがえ方はおもしろいけど、
わたしにはとてもできそうにないテクニックだ。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月13日

「行(おこな)って」おくりがなをふってまで漢字をつかうのはなぜか

けさの朝日新聞島根版に、
「歓送迎会できるだけ行(おこな)って」という
丸山知事のよびかけがのっていた。
丸山知事は、このところ注目のひとなので、
新型コロナウイルスがらみの発言は、よくとりあげられる。
こんかいは、飲食店を支援するためのよびかけで、
「全国的には飲食店が主要な感染経路かもしれないが
県内ではそうではなく、とりわけリスクが高いわけではない」
とはなしている、とある。

記事がわたしの気をひいたのは、
「できるだけ行って」の
「行って」によみがな「おこな」がそえられていたからだ。
ほかの漢字にはおくりがながなく、
「行って」だけにつかってあるので目をひいた。
県が、丸山知事の発言を文章で発表したのなら、
そしてそこに「行って」と、漢字がつかわれているのなら、
新聞の記事にするとき、そのまま漢字にするはわかる。
発表の原文を尊重するのは当然だ。
でも、こんかいの場合は、知事の発言を
そのままことばとして紹介するのだから、
記事にするときはひらがなにすればいい。
わざわざ「行って」と漢字をつかう意味がわからない。

松江総局に電話して、なぜ「行って」に
ふるがながつかってあるのかたずねた。
「いって」によみまちがえられやすいから、というこたえだ。
そうだろうとおもう。でも、まちがえやすいのなら、
はじめからひらがなで「おこなって」とかけばいいのに、
なぜあえて よみまちがえしやすい「行」にしたのかわからない。
電話にでた方は、わたしがかいた記事ではないので
確認はできませんが、とことわってから、
担当記者がどんな意図で漢字にしたのかわからない、
ひらがなをつかえばいいというご意見は
そのとおりだとおもう、といわれる。

新聞は基本的に常用漢字でかかれていて、
それ以外の漢字についてはふりがながつかわれる。
「行って」はよみかたがわかれるので、
ふりがなをつかうことがときどきあるそうで、
そこらへんの判断は、担当記者にまかされているらしい。
上司がそれをチェックしたうえで記事になる。
「できるだけおこなって」では
ひらがながつづきすぎる、という判断があったのだろうか。

「行」のように、おくりがなに気をつけても
よみまちがえしやすいのなら、漢字をつかわず
ひらがなでいけばいいのに、とおもう。
一般的には、活用によっておくりがながわけられるけど、
それでもまちがえやすい漢字があるのはたしかだ。
ただでさえ おくりがなはまちがえやすいのだから、
わざわざおくりがなをふるのではなく、
はじめからひらがなでかけばいい。

posted by カルピス at 17:19 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月17日

年賀状への返事として寒中みまいをだす

年賀状への返事として寒中みまいをだす。
ほんの10枚ほどだけど、ひと仕事であり、
なかなか腰があがらない。
はやく手をつけなければ、とおもいつつ、
なんとなくおもたい存在になってしまう。
むすこが小学生のときは、家族での年賀状をつくっていた。
親子3人の名前をかき、ネコたちの写真をそえる。
あたらしくむかえる年と、
「あけまして おめでとうございます」だけの文面だ。
あとは手がきで
「おげんきですか。ことしもよろしく おねがいします」
とかつけたして、個別のたより感をだす。
いまとなっては、はるかむかしのおもいでとなった。
いつのまにか、自分からは年賀状はださずに、
おくられてきた年賀状には、寒中みまいでかえしている。

返事をかくのは、あたりまえながら
いくつもの工程にわかれる。

・返事をかく
・印刷する
・サインする
・切手と封筒を準備する
・宛名をかく
・封筒にのりづけする
・切手をはる
・ポストにいれる
・とどいていた年賀状を個人別フォルダにいれる

これだけたくさんの工程にわかれから、
はじめにうごきだすのが すごくめんどくさい。
すこし説明すると、
うちにはプリンターがないので、コンビニへゆき、
1枚10円で印刷する。
切手もきれていたので、コンビニでかう。

敷居をひくくするには、切手と封筒をそろえておく、
プリンターをかう、くらいだけど、
けっきょくいちばんとりくみにくくかんじるのは、
「返事をかく」だ。
1枚いちまいに、それぞれ内容をかえるとたいへんだから、
ほとんどの手紙はおなじ文面にしている。
それでも、さあ返事をかくか、という気には
なかなかならない。

年賀状をかくほうもたいへんだろうに。
はがきにあわせて郵便番号と宛名、そして文面を
印刷するように設定するのはすごくたいへんそうだ。
印刷するぐらいだから、文面はどれもいっしょなので、
もらうほうは あんまりありがたいとはおもわない。
わたしの寒中みまいのほうが、
まだ個別のたよりの体裁をたもっているともいえる。
もう年賀状なんてくれなくてもいいのに、
とブツブツおもいながら
こっちもずるずる返事をだしつづけるので、
いまもまだ10枚ほどが生きのびて おくられてくる。

まとめてかく寒中みまいのいいところは、
仕事をおえたあとの達成感くらいか。
いくつもの工程をクリアーし、
さいごに年賀状を個別フォルダーにいれ、
目のまえからすべてのはがきがきえると、
おおきな課題をやりおえた気がしてすごくホッとする。
ホットした安心感から、しばらくなにもできない。

posted by カルピス at 16:35 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月24日

「言い切る」が気になる

まえから「言い切る」という表現がきらいだ。
「力強く語った」もいやだ。
インタビューなどをまとめた文章で、
なんとか選手は「言い切った」、みたいにいわれると、
だからなんだというのか、とおもってしまう。
個人のこのみでしかないけど、
いつから「言い切る」が市民権をえたのか。

そんなふうに、自分ではこまかいこというくせに、
ひとの了見のせまさは気にさわることがある。
さいきん出版された
『その言い方は「失礼です!」』という本の広告に、
いくつか「失礼」ないいかたの例がのっていた。
それをよむと、そのほとんどが、
わたしにはたいして問題があるとはおもえない。
著者がそうおもってるだけではないのか。
でも、アマゾンのレビューをみると、
いまさらそんなあたりまえなことをいいだすな、
という内容がおおかった。わたしのかんじかたとぜんぜんちがう。

エバーノートで「言い切る」を検索すると、
「『形容詞+です』薄れる違和感」
というノートがひっかかった。
「おいしいです」「あぶないです」は、
明治時代にはみとめられていなかったのが、
だんだんとゆるいあつかいになってきた、
という新聞記事だ。
こういうのを「言い切り形」というのだという。
本多勝一さんの『日本語の作文技術』で、
「体言止めの下品さ」としてとりあげられており、
つかわないよう気をつけるようになった。
はなすときには「おいしいです」といわれても
あまりひっかからないのに、文章にすると子どもっぽくおもえる。
そんな体現どめが「薄れる違和感」になるというから
こどばづかいはいろいろとやっかいだ。

posted by カルピス at 17:42 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする