2020年04月12日

「いずれにいたしましても」の自粛をもとめた富山県議会

朝日新聞の土曜日に連載されている「ことば/サプリ」が
「いずれにいたしましても」をとりあげていた。
答える側には使い勝手がよいかもしれませんが、聞く方は耳障り
(『公務員の議会答弁術』の著者、森下寿さん)

なことばだという。
 最後に結論を言うときの枕ことばですが、確信をぼかす、かわす言葉としての印象も強いです。(中略)富山県議会では約10年前に答弁の際に「いずれにいたしましても」の言い回しを自粛するよう県執行部に求め、要請の前後で使用頻度を10分の1に減らす効果を上げています。

いわれるまで、問題のあることばだとおもわなかった。
議会をきく機会がほとんどなく、気にさわるほど
わたしの耳にはいっていなかったのかもしれない。
「ことば/サプリ」が
「いずれにいたしましても」をとりあげたのは、
このみの問題ではなく、実害というか、
つかわないほうがこのましいからだ。
自粛をもとめるほど腹にすえかねたのだから、
いったいどれだけ多用するひとがいたのだろう。
もちろん富山県議会だけでなく、
国会でもよくつかわれることばだという。
首相別の発言回数でいうと、1位は安倍首相
(在職日数でわった使用頻度では6位)だと紹介されている。
ちなみに、小泉元首相はゼロというから、
つかう、つかわないが、ひとにより はっきりわかれたことばだ。

ことばに すき・きらいをいいだすと、きりがない。
きりがないとわかっていても、この話題がわたしはすきだ。
わたしは「ほっこり」と「つむぐ」がきらいで、
ずるいことばというイメージがある。
どちらのことばも、くちにしたものがちで、
「ほっこり」「つむぐ」といいさえすれば、
こころやさしい善良な人間とみられることを、
おてがるにもとめているような気がする。

「なんか」といわれるのもいやだ。
ラジオをきいていると、わかい女性におおいけど、
「なんか」を連発するひとがいて、
おしゃべりのなかで、あまりにも「なんか」がでてくると
イライラしてしまう。

わたしがすきなデイリーポータルZ(の編集部)は、
すきなようにかいてるようでいて、
気になることばはつかってない。
ことばではでにあそびながら、方向性ははずしていない。
「今日のダーリン」をかく糸井重里さんも、
ことばづかいがうまく、いつも感心している。
自由自在にことばをあやつる達人だ。
うますぎて、一般人には参考にならないけど。

posted by カルピス at 20:22 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月16日

「受け身 やめられない?」をよみ、あわてて「れる・られる」をチェックする

毎週土曜日の「ことばサプリ」(朝日新聞)をたのしみにしている。
校閲センターの丹羽のり子さんが担当されており(「受け身」だ)、
きのうは、
「受け身 やめられない?」のタイトルだった。
「受け身」とは、
「高齢化という課題がつきつけられている」
「今後の成り行きが注目される」
など、「れる・られる」をつかった文章のことをいう。
「誰が」や「誰に」が具体的に想像できず、何かひとごとのような、自然の成り行きに任せるような印象を受けないでしょうか。

つい「受け身」でかいてしまうのは、
「受け身の形を使った『私』を消す表現(自然構文)が好まれる文化があるからだと思います」と静岡大学の原沢伊都夫教授(日本語学)は説明します。「『私は富士山を見た』より、主語の隠れた『富士山が見えた』の方がしっくりする。人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映です。

ということで、そういわれると、「受け身」だからといって
かならずしもわるい表現ばかりではない気がしてきた。

「受け身」(受動態)でかくと、
外国語を直訳したような文章になる、
みたいなことをどこかでききかじり、
わたしは受動態をなるべくつかわないようにしている。
とはいえ、「できるだけ」ていどの こころがまえにすぎず、
どれだけ原則をまもっているかの自信はない。
ブログにさいきんかいた記事をよみなおし、
「れる・られる」についてチェックしてみたところ、
そうおおくないので安心した。
ぜんぶの文に主語をたてるのはくるしいけど、
できるだけ「富士山が見えた」とならないように気をつけたい。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月15日

読書感想文のかきかた(「自由ポータルZ」)がおもしろかった

デイリーポータルZでは、毎週金曜日に、
読者がかいた記事を「自由ポータルZ」として紹介している。
専属ライターによる記事ではなく、
デイリーポータルZに記事を発表したいひとは、
まずこの「自由ポータルZ」に投稿してください、という位置づけだ。
投稿コーナーではありますが、ライター登用の窓口も兼ねています。
ライター希望のかたもまずは投稿を。
素晴らしい作品をコンスタントに送ってくれる方にはこちらから連絡して即青田買いです。

投稿すれば なんでものせてもらえるわけではもちろんなく、
わたしは何年かまえに、種まきから収穫まで、
自然農法によるコメづくりの体験を記事としてまとめ、
投稿したけど だめだった。

今週の「自由ポータルZ」にのった
「読書感想文『あらすじだけ読んで書く』VS『ちゃんと本を読んで書く』
どっちが早いか比べてみた」(なべとびすこ)がおもしろかった。
https://crazystudy.info/arasuji-reading
夏やすみの宿題に読書感想文はつきもので、
小学生のときはかきかたがわからずこまったものだ。
中学生になると、北杜夫の本がすきになり、
小説にたいするコンプレックスがなくなくなった。
読書感想文なんて、どうでもいいことを
テキトーにかいても大丈夫だとわかってきた。
いまでは、よんだ本について、おおくをブログにかいており、
これも一種の読書感想文といえるだろう。
ちなみに、あらすじだけのデーターから、本をよんだような顔をして、
ブログの記事にしたてたことはいちどもない。
ただ、本のタイトルから内容を想像して、記事をかいたことがある。
もちろんそのときは、まだよんでいない「事情」を
ちゃんと説明したうえで記事にした。

読書感想文についての記事をかいた なべとびすこさんは、
課題図書から一冊をえらび、
まず、課題図書一覧にのっていた
「あらすじ」と「見どころ」だけを手がかりに、
読書感想文をかいてみる。
情報がかぎられているので、想像にたよるしかない。
それでもなんとか文字をうめていくところは、
ブログをかくのとよくにている。
日本の島国体質という、もはや本の内容から全く関係ない話をはじめていますが、あらすじしか読んでいないので自分の知っている話を膨らますしかないのです。

つぎに、おなじ本を、こんどはじっさいによんでから感想文をかく。
こちらは、さきほどの「あらすじ」だけでかくより
ずっとおもしろそうだ。
なべとびすこさんは 宿題であることをわすれ、
夢中になってかいている。
自分の意見をのべられるたのしさをかんじるくらいだから、
なべとびすこさんは、もともとかくのがすきなひとなのだろう。

けっきょく、読書感想文をかくのに必要だった時間は、
「あらすじ」と「見どころ」だけでかいても、
ちゃんと本をよんでかいても、どちらも30分だった。
とはいえ、書きやすさ的にはぜったい「ちゃんと本を読んで書く」のが良いです!!(中略)
いろいろな知識があるならばあらすじだけでも読書感想文を書けるかもしれませんが、なかなか難しいです。
「あらすじだけ読んで書く」のは、楽をしているようで、じつはイバラの道なのかもしれません。

読書感想文は、ちゃんと本を読んで書こう!!!!

が、なべとびすこさんの結論だ。
結論はあたりまえだけど、
そこにいたる実験をていねいにすすめている。
わらいをとろうとか、おおげさな表現がなく、好感がもてる。
とはいえ、読書感想文がにが手なひとは、
たとえこの記事をよんでも教訓とはせず、
「あらすじだけ」で でっちあげるのではないか。
どうしたら読書感想文をすらすらかけるようになるのか。

ひとつの方法は、ひらきなおって、
デイリーポータルZが開発した
「読書感想文ジェネレーター」にたより、
自動的に文章をかいてもらう。
https://dailyportalz.jp/kiji/kansoubun-generator
そのままではさすがにひどいから、
自分なりにすこし表現をやわらげたら、学校に提出できるのでは。
でも、「すこし表現をやわらげる」のは、
「あらすじだけ」をよんでかくのと、おなじような手間かもしれない。
けっきょく、読書感想文にかぎらず、
文章をかくのは そうかんたんではない。
だから「読書感想文ジェネレーター」がうまれたわけだけど。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

「やさしい日本語」がやさしくない悲劇

けさの朝日新聞に、
「やさしい日本語」を紹介する記事がのっていた。
外国人にもわかりやすい「やさしい日本語」をつかい、
生活情報をつたえる活動がひろがっているという。
こうしたとりくみがわたしはすきで、
自分でも、できるだけ「やさしい日本語」による、
わかりやすい文章をかいているつもりだ。

記事をよんでみると、こまったことに
すんなり頭にはいってこない。
記事がなにを紹介したいのかはわかるけど、
文章はけしてやさしくはない。
紹介してある具体例も、よくわからない。
「やさしい日本語」の記事がやさしくないなんて、
わるい冗談みたいだ。

たとえば、
「やさしい日本語の主なルール」として

・難しいことばを避け、簡単なことばを使う
・1文を短くする
・漢字の分量に注意し、ふりがなをふる
・二重否定の表現は避ける
・ローマ字は使わない

とあるけど、
そういうルールにした理由が説明してないし、
具体的な例があげてないのでわかりづらい。
なぜ「ローマ字は使わない」のか、
理由がわからなければ、ルールとして参考にできない。
「二重否定の表現を避ける」も、
どんな表現を二重否定というのかが、
わたしにはわからない。
いじわるして わからないふりをしてるのではなく、
ほんとうにわからない。

このまえ町をあるいているときに
「お洒落貴族」というさんぱつ屋さんの看板が目にはいった。
自分から「お洒落」なんていいだせば、
ハードルをぐんとあがてしまう。
お店のすべてを「お洒落」にきめなければ かっこがつかない。
自分で自分の首をしめてるようなものではないか。

「やさしい日本語」にしても、そういうからには、
ほんとうにやさしい日本語をのぞみたい。
記事には、オープンキャンパスで
「やさしい日本語」を高校生に説明している写真がのっている。
壁にはってある模造紙に
「減災のための『やさしい日本語』」と
タイトルがかいてある。
「減災のため」が、そもそもやさしくないと
なんで気づかないのだろう。
「難しいことばを避け、簡単なことばを使う」のが
ルールではなかったのか。

ネットで「やさしい日本語」のルールをみると、
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/kokugo/EJ9tsukurikata.ujie.htm#%EF%BC%91%EF%BC%91
ローマ字をつかわない理由について、
ローマ字は、駅名や地名などの固有名詞を表記するためのもので、文を書くことには不向きです。ローマ字を使って日本語の文を表記することはしないでください

とあった。
ひとつのかんがえ方ではあるけれど、
賛成できない基本方針だ。
ほかにも、わたしのこのみをはずれるルールがいくつもある。
「やさしい日本語」は、わたしがおもっている わかりやすい日本語と、
かなりちがうとりくみのようだ。すこしがっかりする。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

要約をこばむ 糸井重里さんの文章

糸井重里さんの文章は、要約がとてもむずかしい。
どこかの1行をひっぱってこようとしても、
いいくぎりがみつからないまま、
ずるずるとながい文章をうつしかねない。
たとえば、ほぼ日の「今日のダーリン」は、
いちにち分がそれほどながくない、
日記みたいなエッセイなのに、
そのなかには、おおきなテーマになりそうなはなしが
いくつも もりこまれている。

きょうの「今日のダーリン」は、
「矢野顕子さんが出演する番組に
 ゲストみたいなかたちでおじゃましてきた」
ではじまる。
番組のなかで話題になった新曲は、
矢野さんと糸井さんが1981年につくった曲の
アンサーソングであるという。
あれから36年たち、曲のなかでうたわれているふたりは
その後どう生きたのだろう、
というのも、じつに魅力的な話題だ。

糸井さんは、そこから話題をよこにふって、
曲のなかのふたりに、矢野さんと自分とをかさねてみる。
ロミオことまさおくんと、ジュリエットのみどりちゃんの
人生の時計は、もちろん36年分も進んでいるけれど、
これ、矢野顕子とぼくの作曲作詞のコンビも、
それくらいの年月生きてきたということでもある。

どちらも健康で生きているから歌がつくれた。
もうちょっと言えば、ある程度の品質の歌を、
まだつくれるほどには現役でいる、ということでもある。

健康で、しかも現役として仕事ができるしあわせ。
しかし、はなしはそれでおわらない。
(糸井さんの)「しあわせ」みたいなものを、
ひとつずつ集めて献立表にしたら、
「矢野顕子との歌づくりが続いている」ということは、
とても太い文字で書かれているだろうなとね。

しあわせとは、なが生きしつつ、
よい友人と いっしょに仕事ができるすばらしさかも。

おわりのほうで、
こんどの『Soft Landing』というアルバムのなかでは、
他に2曲、矢野顕子依頼の「野球が好きだ」という曲と、
ぼくが勝手につくった、ある種のラブソング、
「夕焼けのなかに」という曲がある。

というから、それもまたききたくなってくる。

と、けきょく 引用だらけとなり、
むりにまとめようとすると、
本文の魅力がゴソッとぬけおちてしまう。
このように、糸井重里さんの文章は、
きれめがなく、どこまでもゆるやかにつながっていて、
チョコチョコっとあんちょこな引用をこばむところがある。
紹介しようとすると、かきだしから おわりまでの
すべてにふれなければ 全体の意味をつたえられない。
かんたんな文章にみせながら、じつに個性的で、
まねしようとしても すぐにボロがでてしまう。
全体がひとつとして 強力にまとまっており、
一部だけをかりてきても、鮮度をたもてない。

「今日のダーリン」をエバーノートにとりこみながら、
タイトル名をどうつけるのかに、いつもこまっている。

posted by カルピス at 09:38 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする