わたしはこの10年間、ウィルコム
(いまはワイモバイル)の携帯をつかってきた。
ウィルコムがだいすきだったわけではなく、
ただスマホにうつりそこねただけだ。
10年まえにその携帯をかったときは、
サッカー日本代表の監督をオシムさんがしていた。
その以来、岡田→ザッケローニ→アギーレ→ハリルホジッチと
4人が代表監督として指揮をとり、
わたしはあいかわらずウィルコムのままだ。
総理大臣でいうと、10年まえは小泉純一郎氏が首相だったのだから、
10年といえば ほんとうに「ひとむかし」を実感する。
なんどかスマホをかんがえたけど、
もうひとつふみきれなかった。
SNSにほとんど関心のないわたしが、
スマホをもったからといって
こまめにつぶやいたり、ひとのうごきをチェックするとはおもえない。
それでも数年まえから格安スマホがでまわり、
携帯電話料金よりもやすいプランをみかけるようになると、
いつまでもウィルコムをつかいつづける 理由がなくなってきた。
スマホよりもたかいお金をはらってまで
携帯電話をつかう意味はないので、
ようやくおもい腰をあげてスマホをさがしはじめた。
マンガをよんでいたら、気のやさしい女の子ふたりが
なにかでしりあった男性についてはなしていた。
「アンテナつき携帯をいまだにつかっているひと」と
さみしそうに、ふっとつぶやく。
とおい星からきた生物みたいなあつかいだ。
いいひとかもしれないけど、「男」としては問題外。
彼女たちにとって、アンテナつきの携帯を
無神経につかいつづける男は、
想像をぜっする ふるいいきものでしかない。
存在じたいが気もちわるく、すんでいるところがちがうので、
そんな人種がいることを彼女たちは理解できない。
やばい。わたしのことだ。
ここにきて、わたしはようやく
ふるい携帯をつかいつづけるデメリットをおもった。
もしかしたら、人間をやめるくらい
スマホとそうでない世界とは おおきな断絶がある。
いったんかうときめれば、スマホえらびはあんがいかんたんだ。
ドコモやソフトバンクの料金プランは
わたしにとってたかすぎるので、
ねらうのはとうぜん格安スマホとなる。
携帯電話のときは、いろいろな料金体系が複雑すぎて、
よく理解できなかった。
会社によるちがいがたいしてないのに、
わずかな差をつくろうとするから無理がある。
それにくらべると、スマホの料金には実質的な差が存在し、
どういいつくろっても 大手の会社は格安スマホよりもたかい。
シムフリーの料金はシンプルで、スマホ本体を一括でかうと、
あとはデーター量によって 月づきの利用料金がかわるだけだ。
イオンのお店をみてまわると、
イオンモバイルが ほかの会社よりずいぶんやすい。
ただ、そこではあまりいいスマホをあつかっていなかった。
せっかくシムフリーのスマホにするのだからと ネットでさがしたら、
フリーテルのスマホが目についた。1万7800円。
5インチの画面で、そこそこの性能らしい。
スマホ初心者のわたしには、これでじゅうぶんだろう。
注文すると2日でとどいた。
めんどくさかったのは、携帯電話の番号をひきつぐ MNPの手つづきで、
ワイモバイルに電話をかけても、
音声ガイダンスではらちがあかず、MNPまでなかなかたどりつかない。
オペレーターとのやりとりを希望すると、15分ほどまたされた。
でもまあ、なんとか予約番号を手にできた。
あとはスマホをもってイオンへゆき、シムカードをえらべばいい。
こんどのやすみの日に、わたしはいよいよスマホを手にいれるはずだ。
2016年04月11日
2016年02月22日
世界じゅうでスマホをつかうのを、もっとおどろいたほうがいいのでは
ほぼ日の「今日のダーリン」に
と糸井さんがかいている。
ネパールの山奥でくらすおかみさんが、
スマホでなにをしているのか すごく気になる。
懐中電灯?電卓だろうか。カメラかもしれない。
あんがい電話だったりして。
電話だけどスマホをつかいたい、
という欲求がこの場合重要だ。
よくみる旅番組で、ローマの居酒屋をとりあげていた。
ローマっ子が満足する こってりしたローマ料理をだし、
土地のひとに人気の店だ。
ふつうにつくってもギトギトなのに、
そのうえにさらにクリームやらオリーブオイルやらを
ドバドバのっけて「ローマ料理」と
うれしがるお客たちをみると、
日本人との このみの差が とてもおおきいのにおどろく。
あつまるひとたちの価値観も、いかにもラテン系で、
人生はたのしむためにあると、
だれもが当然のようにとらえているようだ。
日本とのちがいばかりがめだつこの店で、
お客たちがつかっているのは
日本の風景とおなじスマホだった。
生活スタイルやかんがえ方がまるでちがうのに、
つかっている道具(スマホ)はいっしょ、
というのが すごくおもしろい。
ほかの国はスマホかもしれないけど、
自分たちは携帯電話でじゅうぶんだよと、
なぜならないのだろう。
よほど根源的な人間の欲求を
スマホはくすぐるにちがいない。
自動車という文化を 世界じゅうのひとびとがうけいれたように、
きわめてみじかいあいだに
だれもがスマホをつかうようになった。
こうした状況でも、わたしがスマホをつかわないのは、
とくに便利だとおもわないからで、
意地をはって携帯電話にとどまっているわけではない。
でも、そうした態度は、現代を生きるものとして
いかがなものかと、ときどきおもう。
スマホをつかうひとどおしは、
人種・国籍がちがっても、
にたような価値観でつながっているようにみえる。
おなじ日本人同士であっても、
わたしよりもスマホをつかう外国のひとと
彼らは はなしがあうのではないか。
もしわたしがスマホをもったとしても、
パソコンでやるようなことを
パソコンのないところでする便利さにとどまり、
そんなのだったら家でパソコンをひらいたほうが
つかいがってがいい、
だからスマホなんていらない、となりそうだ。
わたしはネパールの山奥でくらすおばさんより、
ずっと現代性にとぼしい人間みたいだ。
北朝鮮のひとびともまた、いまは携帯電話ではなくスマホだろう。
北朝鮮や中国の権力者であっても、
ひとびとがスマホをつかうのはとめられない。
距離的にも文化的にも ずいぶんはなれていて、
にたところなんかすこしもなくても、
つかうのがスマホであることだけは共通している。
テレビをみたり、自動車にのったりするのよりも、
スマホはもっと世界じゅうを均一にしたのではないか。
なぜネパールのおばさんが便利につかうスマホを
わたしはほしくないのかに とまどっている。
「スマホ」ってやつの発達は、
異次元というくらいおまけだらけに思える。
懐中電灯だって、電卓だって、カメラだってついて、
メールもできて、なんと電話までできるんだからね。
旅の荷物が軽くなったどころじゃなかったわ。
ネパールの山奥に行ってきた人が言ってたけれど、
そんな土地で暮らしてるおかみさんも、
いつでも「スマホ」を持ち歩いてるというものね〜。
と糸井さんがかいている。
ネパールの山奥でくらすおかみさんが、
スマホでなにをしているのか すごく気になる。
懐中電灯?電卓だろうか。カメラかもしれない。
あんがい電話だったりして。
電話だけどスマホをつかいたい、
という欲求がこの場合重要だ。
よくみる旅番組で、ローマの居酒屋をとりあげていた。
ローマっ子が満足する こってりしたローマ料理をだし、
土地のひとに人気の店だ。
ふつうにつくってもギトギトなのに、
そのうえにさらにクリームやらオリーブオイルやらを
ドバドバのっけて「ローマ料理」と
うれしがるお客たちをみると、
日本人との このみの差が とてもおおきいのにおどろく。
あつまるひとたちの価値観も、いかにもラテン系で、
人生はたのしむためにあると、
だれもが当然のようにとらえているようだ。
日本とのちがいばかりがめだつこの店で、
お客たちがつかっているのは
日本の風景とおなじスマホだった。
生活スタイルやかんがえ方がまるでちがうのに、
つかっている道具(スマホ)はいっしょ、
というのが すごくおもしろい。
ほかの国はスマホかもしれないけど、
自分たちは携帯電話でじゅうぶんだよと、
なぜならないのだろう。
よほど根源的な人間の欲求を
スマホはくすぐるにちがいない。
自動車という文化を 世界じゅうのひとびとがうけいれたように、
きわめてみじかいあいだに
だれもがスマホをつかうようになった。
こうした状況でも、わたしがスマホをつかわないのは、
とくに便利だとおもわないからで、
意地をはって携帯電話にとどまっているわけではない。
でも、そうした態度は、現代を生きるものとして
いかがなものかと、ときどきおもう。
スマホをつかうひとどおしは、
人種・国籍がちがっても、
にたような価値観でつながっているようにみえる。
おなじ日本人同士であっても、
わたしよりもスマホをつかう外国のひとと
彼らは はなしがあうのではないか。
もしわたしがスマホをもったとしても、
パソコンでやるようなことを
パソコンのないところでする便利さにとどまり、
そんなのだったら家でパソコンをひらいたほうが
つかいがってがいい、
だからスマホなんていらない、となりそうだ。
わたしはネパールの山奥でくらすおばさんより、
ずっと現代性にとぼしい人間みたいだ。
北朝鮮のひとびともまた、いまは携帯電話ではなくスマホだろう。
北朝鮮や中国の権力者であっても、
ひとびとがスマホをつかうのはとめられない。
距離的にも文化的にも ずいぶんはなれていて、
にたところなんかすこしもなくても、
つかうのがスマホであることだけは共通している。
テレビをみたり、自動車にのったりするのよりも、
スマホはもっと世界じゅうを均一にしたのではないか。
なぜネパールのおばさんが便利につかうスマホを
わたしはほしくないのかに とまどっている。
2015年04月30日
ランドセルから本をとりだしてよみはじめた女の子
市内を自転車ではしっていたら、
バス停でバスをまっている小学生の女の子が、
ランドセルから本をとりだしてよみはじめた。
高校生以上がスマホをいじってばかりいるいま、
あらゆる世代のなかで 本をいちばんよくよむのは 小学生なのかもしれない。
中学生はスマホがあってもなくても、
以前からひとまえで本をよまなかったような気がする。
4月29日の「帰ってきた炎の営業日誌」(「web本の雑誌」)に
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
と杉江さんがかいている。
いまでは日本全国、というか、世界じゅうでみかける 光景だろう。
それだけに、ごく自然に本をとりだした女の子がすてきにみえた。
これはまあ、スマホをつかわないわたしの偏見なわけで、
それでは、どんなひとがもっていたら「スマホもわるくないなー」という存在かを、
せんじつこのブログで紹介した西加奈子さんにならってたしかめてみたい。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/417656224.html?1430372059
はじめに西さんの記事をふりかえっておくと、
西さんは公園で、奥さんとのキャッチボールをまちきれずに、
ひとりで壁あてしている おじいさんをみかけた。
西さんはその姿を「叫びだしたいくらい可愛」いい、とおもった。
しかし、その景色をそのままかくのではなく、
おじいさんをほかのひとにいれかえたり、
どんなひとがこの景色にであったらおもしろいかをかんがえてみると、
ものがたりの種がそだっていくのだという。
スマホをもってるひとをみて、「いいなー!」とおもえるのは
どんなときだろう。
いくらすてきなひとでも、わかい女性がスマホをいじっていてはあたりまえすぎる。
ここはやはりIT弱者といわれる高齢者の出番だろう。
80をすぎたおばあさんが、スマホで情報をしいれていたら、
みているほうは感心するしかない。
たくみな指つかいでも、ふなれなあつかいでも、
きっとそれはわるくない風景だろう。
あるいはいかにも農家のひと、というかんじの
おじさん・おばさんも意外性がありそうだ。
麦わら帽子に手ぬぐいと長ぐつのおじさんだったら
スマホがあってよかったですね、とわたしは素直におもうだろう。
ほかに、スマホからとおいところにいるのは、どんなひとだろう。
3歳の子どもがたくみにあやつっていたら いやなかんじだし、
サルがもっていてもなんだか腹がたつ。
すこしかんがえてみても、
いまやスマホはあたりまえすぎる存在で、
たいていの職業や国籍をあてはめても違和感がない。
時代をこえて、ちょんまげをしたお侍さんがつかっていたら わるくないかもしれない。
宇宙人のジョーンズさんや、ソフトバンクの犬のお父さんもおもしろいだろう。
でも、そこまでいくとべつのはなしだ。
ちがういい方をすれば、それぐらい飛躍しないと いまやスマホは日常の風景で、
なんにでもとけこみ、とりこみ、どこにでもおさまってしまう。
こうしてみると、わたしがであった小学生の女の子は、
かなりいい線をついているのではないか。
そんなすてきな子がとなりにすわって本をよんだら、
おとなたちもスマホをかたづけて 本をひろげたくなるだろう。
そこで女の子は、さっと手もとのアップルウォッチに目をむけるのだ。
バス停でバスをまっている小学生の女の子が、
ランドセルから本をとりだしてよみはじめた。
高校生以上がスマホをいじってばかりいるいま、
あらゆる世代のなかで 本をいちばんよくよむのは 小学生なのかもしれない。
中学生はスマホがあってもなくても、
以前からひとまえで本をよまなかったような気がする。
4月29日の「帰ってきた炎の営業日誌」(「web本の雑誌」)に
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
京浜東北線、南浦和始発。一車両80人くらい乗車のうち本を読んでるのは私を含め3人。新聞は2人、スマホは50人くらい。私の前の7人がけの座席は、 着席すると同時に全員がスマホを取り出した。電車のなかだけでなく、ホームで次の始発電車を待つ人もほとんどスマホを手にしている。ほんの十数年前、通勤 電車の風景はスポーツ新聞とマンガ雑誌だったような気がする。そのふたつはすでにほとんど見かけない。
と杉江さんがかいている。
いまでは日本全国、というか、世界じゅうでみかける 光景だろう。
それだけに、ごく自然に本をとりだした女の子がすてきにみえた。
これはまあ、スマホをつかわないわたしの偏見なわけで、
それでは、どんなひとがもっていたら「スマホもわるくないなー」という存在かを、
せんじつこのブログで紹介した西加奈子さんにならってたしかめてみたい。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/417656224.html?1430372059
はじめに西さんの記事をふりかえっておくと、
西さんは公園で、奥さんとのキャッチボールをまちきれずに、
ひとりで壁あてしている おじいさんをみかけた。
西さんはその姿を「叫びだしたいくらい可愛」いい、とおもった。
しかし、その景色をそのままかくのではなく、
おじいさんをほかのひとにいれかえたり、
どんなひとがこの景色にであったらおもしろいかをかんがえてみると、
ものがたりの種がそだっていくのだという。
スマホをもってるひとをみて、「いいなー!」とおもえるのは
どんなときだろう。
いくらすてきなひとでも、わかい女性がスマホをいじっていてはあたりまえすぎる。
ここはやはりIT弱者といわれる高齢者の出番だろう。
80をすぎたおばあさんが、スマホで情報をしいれていたら、
みているほうは感心するしかない。
たくみな指つかいでも、ふなれなあつかいでも、
きっとそれはわるくない風景だろう。
あるいはいかにも農家のひと、というかんじの
おじさん・おばさんも意外性がありそうだ。
麦わら帽子に手ぬぐいと長ぐつのおじさんだったら
スマホがあってよかったですね、とわたしは素直におもうだろう。
ほかに、スマホからとおいところにいるのは、どんなひとだろう。
3歳の子どもがたくみにあやつっていたら いやなかんじだし、
サルがもっていてもなんだか腹がたつ。
すこしかんがえてみても、
いまやスマホはあたりまえすぎる存在で、
たいていの職業や国籍をあてはめても違和感がない。
時代をこえて、ちょんまげをしたお侍さんがつかっていたら わるくないかもしれない。
宇宙人のジョーンズさんや、ソフトバンクの犬のお父さんもおもしろいだろう。
でも、そこまでいくとべつのはなしだ。
ちがういい方をすれば、それぐらい飛躍しないと いまやスマホは日常の風景で、
なんにでもとけこみ、とりこみ、どこにでもおさまってしまう。
こうしてみると、わたしがであった小学生の女の子は、
かなりいい線をついているのではないか。
そんなすてきな子がとなりにすわって本をよんだら、
おとなたちもスマホをかたづけて 本をひろげたくなるだろう。
そこで女の子は、さっと手もとのアップルウォッチに目をむけるのだ。
2014年10月19日
なかなかスマホにきりかえられない
ウィルコムが「ワイモバイル」にかわったことをしらせる封筒がとどいた。
イーモバイルとウィルコムがくっついて
ワイモバイルという会社になったようだ。
キャンペーン企画として、機種変更が無料になるという。
携帯のバッテリーを2012年の12月にかえたことから、
2年契約のしばりでまだうごけないとおもっていたので、
とどいたパンフをもってさっそく近所のお店をたずねる。
こんどかえるときは、ルーター機能をもつ携帯に、と
まえからねらっていたのだ。
しかしその携帯は、すでに生産されていないそうで、
それならあっさりスマホにかえちゃってください、とすすめられる。
スマホでテザリングすればいいです、
どっちみち、ルーター機能の携帯はスピードがおそくて、
つかえなかったですよ、ということだ。
いよいよわたしもスマホデビューかと、
すこしうれしくもあり、めんどくさくもあり。
料金についてたずねると、
スマホではいちばんやすい1ギガのプランで3758円になる。
携帯をかえるとなれば3000円、ルーターをかえば3696円と、
それぞれなやましい。
ルーター機能がほしかったといっても、
わたしがそとでパソコンをつかう機会などめったにない。
旅行にでたり野宿をしたりは頭だけのことで、
いきたいといいながらなかなかでかけられない。
それに、わたしの携帯のつかい方は、ほとんど通話だけにかぎられ、
メールさえおくったことがない。
梅棹忠夫さんは、ハードがあればソフトがついてくると、
特殊な研究機関にかぎられていたコンピューターを、
1970年代の民族学博物館に導入した。
つかったことがないから、需要もないのだ、
つかううちにどんどん必要性がたかまってくる、というよみで、
さきをみるたしかさが いかにも梅棹さんらしい。
しかし、わたしがスマホをもったとしても、
画期的なつかい方にめざめるとはおもえない。
LINEやSNSをするわけではなく、
こまかい画面をみるのが苦痛なことから
スケジュール管理やエバーノートにもつかいそうにない。
ほんのときたまルーター機能があれば、というだけにすぎないのだ。
そんなことをお店のひとにいうと、
だったら、いまつかっている携帯を、そのままつかえば、
とさらっといわれてしまった。
「いまのが つかえないわけじゃないですよね」と
とても末端屋さんとはおもえない、商売けのないことをいう。
たしかにそうだ。それだと1ヶ月に2503円ですむ。
わたしがいまつかっている携帯は8年まえにかったもので、
当時は携帯(正確にはPHS)からネットにつなげられる機能がめずらしかった。
とりだしてみせると、
「アンテナがついてるのがむかしふうですね」といわれた。
そうだ。むかしはどの携帯にもアンテナがついており、
それをもちあげて電波をうけやすくしたものだった。
気がつかないうちにアンテナがなくなり、
いつしかスマホがあたりまえになった。
「ガラケー」なんてよくいわれるけど、
8年もまえになると、ガラケーともいわないのでは、とすこし得意でもある。
このごろ「あるきスマホ」の危険性が指摘されるけど、
「あるき」どころか自転車スマホをこのごろよくみかけるようになり、
ほんとうにあぶない。
そんなことをしてるのは わかい男性がおおく、
しょっちゅうあぶない目にあうので、
ラリアートをおみまいしたくなってきた。
スマホごと道路になげだされたら、すこしはこりるのではないか。
50代以降はスマホにうつらず 携帯のままのひとがおおく、
そのうちのおおくがメールさえしない、とネットの記事にかいてあった。
まさしくわたしのことだ。
なんだかんだ理由をつけながら、けっきょくあたらしいものについていけないだけなのかもしれない。
いまはわたしとおなじように、
自分を時代からとりのこそうとするスマホに
反感をもっているおじさんがたくさんいるにちがいない。
ラリアートでスマホをだめにしたくなければ、
自転車スマホだけはやめたほうがいいと忠告したい。
イーモバイルとウィルコムがくっついて
ワイモバイルという会社になったようだ。
キャンペーン企画として、機種変更が無料になるという。
携帯のバッテリーを2012年の12月にかえたことから、
2年契約のしばりでまだうごけないとおもっていたので、
とどいたパンフをもってさっそく近所のお店をたずねる。
こんどかえるときは、ルーター機能をもつ携帯に、と
まえからねらっていたのだ。
しかしその携帯は、すでに生産されていないそうで、
それならあっさりスマホにかえちゃってください、とすすめられる。
スマホでテザリングすればいいです、
どっちみち、ルーター機能の携帯はスピードがおそくて、
つかえなかったですよ、ということだ。
いよいよわたしもスマホデビューかと、
すこしうれしくもあり、めんどくさくもあり。
料金についてたずねると、
スマホではいちばんやすい1ギガのプランで3758円になる。
携帯をかえるとなれば3000円、ルーターをかえば3696円と、
それぞれなやましい。
ルーター機能がほしかったといっても、
わたしがそとでパソコンをつかう機会などめったにない。
旅行にでたり野宿をしたりは頭だけのことで、
いきたいといいながらなかなかでかけられない。
それに、わたしの携帯のつかい方は、ほとんど通話だけにかぎられ、
メールさえおくったことがない。
梅棹忠夫さんは、ハードがあればソフトがついてくると、
特殊な研究機関にかぎられていたコンピューターを、
1970年代の民族学博物館に導入した。
つかったことがないから、需要もないのだ、
つかううちにどんどん必要性がたかまってくる、というよみで、
さきをみるたしかさが いかにも梅棹さんらしい。
しかし、わたしがスマホをもったとしても、
画期的なつかい方にめざめるとはおもえない。
LINEやSNSをするわけではなく、
こまかい画面をみるのが苦痛なことから
スケジュール管理やエバーノートにもつかいそうにない。
ほんのときたまルーター機能があれば、というだけにすぎないのだ。
そんなことをお店のひとにいうと、
だったら、いまつかっている携帯を、そのままつかえば、
とさらっといわれてしまった。
「いまのが つかえないわけじゃないですよね」と
とても末端屋さんとはおもえない、商売けのないことをいう。
たしかにそうだ。それだと1ヶ月に2503円ですむ。
わたしがいまつかっている携帯は8年まえにかったもので、
当時は携帯(正確にはPHS)からネットにつなげられる機能がめずらしかった。
とりだしてみせると、
「アンテナがついてるのがむかしふうですね」といわれた。
そうだ。むかしはどの携帯にもアンテナがついており、
それをもちあげて電波をうけやすくしたものだった。
気がつかないうちにアンテナがなくなり、
いつしかスマホがあたりまえになった。
「ガラケー」なんてよくいわれるけど、
8年もまえになると、ガラケーともいわないのでは、とすこし得意でもある。
このごろ「あるきスマホ」の危険性が指摘されるけど、
「あるき」どころか自転車スマホをこのごろよくみかけるようになり、
ほんとうにあぶない。
そんなことをしてるのは わかい男性がおおく、
しょっちゅうあぶない目にあうので、
ラリアートをおみまいしたくなってきた。
スマホごと道路になげだされたら、すこしはこりるのではないか。
50代以降はスマホにうつらず 携帯のままのひとがおおく、
そのうちのおおくがメールさえしない、とネットの記事にかいてあった。
まさしくわたしのことだ。
なんだかんだ理由をつけながら、けっきょくあたらしいものについていけないだけなのかもしれない。
いまはわたしとおなじように、
自分を時代からとりのこそうとするスマホに
反感をもっているおじさんがたくさんいるにちがいない。
ラリアートでスマホをだめにしたくなければ、
自転車スマホだけはやめたほうがいいと忠告したい。
2013年11月19日
スマホがなければ東京でもかなりつらいネット事情
10日ほどまえに、東京でくらす姉の義母がなくなった。
葬式は失礼させてもらったので、
週末をつかっておくやみにでかける。
荷物にいれたのは
・MacBook Air11インチ
・キンドルペーパーホワイト
・本3冊
結果的には、パソコンはブログをアップしただけ。
キンドルはいちどもひらかなかった。
旅行とキンドルの相性のよさを期待していたわりには
紙の本ばかりよんでいた。
でもまあ、もっているだけで安心感がある。
食事や休憩をした店でネットにつなごうとしても、
フリーWi-Fiのところはなかった。
ソフトバンクやauのシールがはってある店はおおいけれど、
その会社の製品をつかってなければお金がかかる。
2年まえに旅行したタイ・カンボジア・ベトナムでは、
Wi-Fiがどこでもつかえてすごく便利だった。
東京、というか日本は基本的にフリーWi-Fi環境をととのえるのではなく、
個人が携帯会社と契約してスマホをつかうという方向なのだろう。
いまやパソコンよりもスマホでなんでもすませてしまうから、
フリーWi-Fiがなくてもぜんぜんこまらないみたいだ。
パソコンをつかいたいひとはテザリングすればつながるわけで、
スマホをもっているのが前提になっているのだけに、
スマホがなければすごく不自由だ。
20年まえにパソコンがつかわれはじめたときは
まだネットにつながれておらず、ひとくくりにいってしまうと
「事務器」としての存在だった。
パソコンをつかうとは、そのままエクセルやワードで
仕事をすることを意味していた時代だ。
やがてネットが一般的になってくると、
ネットにつながれていないパソコンは「ただの箱」、みたいになっていく。
そしてスマホの出現によって、
また「事務器」にもどったかんじだ。
パソコンなんて、いまはだれがつかっているのだろう。
姉の家はWi-Fiがあるのに、パスワードがわからないので
わたしのマックがつかえない。
ほったらかしになっているふるいノートパソコンをたちあげて
(これはWi-Fiが設定ずみ)なんとかネットにつないだ。
存在感がまるでなくなってしまい、
パソコンとしても不本意なのではないか。
ちょっとネットにつなぐにはスマホでじゅうぶんだし、
長文をうつときにはキーボードをタブレットにつなげればいい。
パソコンは、これからどういう道をたどるのだろうか。
立川駅にある本屋さんにはいる。
そんなにおおきな店ではなかったが、
わたしがすきなサッカー記者の本がおいてあったので、
3冊かいもとめる。
1冊はサッカーがすきな甥へのプレゼント用だ。
こんなふうに本を店でかえると
アマゾンにたよらなくてもすむのに。
今月の『本の雑誌』は、本屋さんがどんどんなくなっていくことについて
特集がくまれていた。
郊外型の店に客がながれ、イオンなどの大型店に書店がはいり、
町にはブックオフができ、そしてアマゾンのサービスがはじまる。
町の本屋さんは「むしられっぱなし」の歴史なのだと
永江朗さんがかいておられた。
わたしがすむ町もほぼおなじ経緯をたどっている。
本屋さんがすきなわたしとしては
なんとか本屋さんにつづけてもらいたいので、
アマゾンをつかわずにおれたらそれにこしたことはない。
ブックオフをよく利用しておいてなんだけど、
ブックオフだけの町はさみしすぎる。
葬式は失礼させてもらったので、
週末をつかっておくやみにでかける。
荷物にいれたのは
・MacBook Air11インチ
・キンドルペーパーホワイト
・本3冊
結果的には、パソコンはブログをアップしただけ。
キンドルはいちどもひらかなかった。
旅行とキンドルの相性のよさを期待していたわりには
紙の本ばかりよんでいた。
でもまあ、もっているだけで安心感がある。
食事や休憩をした店でネットにつなごうとしても、
フリーWi-Fiのところはなかった。
ソフトバンクやauのシールがはってある店はおおいけれど、
その会社の製品をつかってなければお金がかかる。
2年まえに旅行したタイ・カンボジア・ベトナムでは、
Wi-Fiがどこでもつかえてすごく便利だった。
東京、というか日本は基本的にフリーWi-Fi環境をととのえるのではなく、
個人が携帯会社と契約してスマホをつかうという方向なのだろう。
いまやパソコンよりもスマホでなんでもすませてしまうから、
フリーWi-Fiがなくてもぜんぜんこまらないみたいだ。
パソコンをつかいたいひとはテザリングすればつながるわけで、
スマホをもっているのが前提になっているのだけに、
スマホがなければすごく不自由だ。
20年まえにパソコンがつかわれはじめたときは
まだネットにつながれておらず、ひとくくりにいってしまうと
「事務器」としての存在だった。
パソコンをつかうとは、そのままエクセルやワードで
仕事をすることを意味していた時代だ。
やがてネットが一般的になってくると、
ネットにつながれていないパソコンは「ただの箱」、みたいになっていく。
そしてスマホの出現によって、
また「事務器」にもどったかんじだ。
パソコンなんて、いまはだれがつかっているのだろう。
姉の家はWi-Fiがあるのに、パスワードがわからないので
わたしのマックがつかえない。
ほったらかしになっているふるいノートパソコンをたちあげて
(これはWi-Fiが設定ずみ)なんとかネットにつないだ。
存在感がまるでなくなってしまい、
パソコンとしても不本意なのではないか。
ちょっとネットにつなぐにはスマホでじゅうぶんだし、
長文をうつときにはキーボードをタブレットにつなげればいい。
パソコンは、これからどういう道をたどるのだろうか。
立川駅にある本屋さんにはいる。
そんなにおおきな店ではなかったが、
わたしがすきなサッカー記者の本がおいてあったので、
3冊かいもとめる。
1冊はサッカーがすきな甥へのプレゼント用だ。
こんなふうに本を店でかえると
アマゾンにたよらなくてもすむのに。
今月の『本の雑誌』は、本屋さんがどんどんなくなっていくことについて
特集がくまれていた。
郊外型の店に客がながれ、イオンなどの大型店に書店がはいり、
町にはブックオフができ、そしてアマゾンのサービスがはじまる。
町の本屋さんは「むしられっぱなし」の歴史なのだと
永江朗さんがかいておられた。
わたしがすむ町もほぼおなじ経緯をたどっている。
本屋さんがすきなわたしとしては
なんとか本屋さんにつづけてもらいたいので、
アマゾンをつかわずにおれたらそれにこしたことはない。
ブックオフをよく利用しておいてなんだけど、
ブックオフだけの町はさみしすぎる。