2021年01月10日

ふるいものをつかいつづける配偶者の合理的精神

夕ごはんのあと配偶者が自分の部屋にもどり、
彼女のイスに ふるいフリースだけがのこった。
新婚旅行でカナダへいったとき(バンフ)かったもので、
お店でいっしょにえらんだから わたしにも みおぼえがある。
もう28年もむかしのはなしだ。
ほかの女性が、どれだけのあいだ服をきるのかしらないけど、
28年もきつづけるひとは あまりいないのではないか。
おそらく配偶者は、とくに愛着があるからきているのではなく、
部屋着としてわりきり、きられるかぎり すてずに きつづける。

服だけでなく、なににおいても、
配偶者はものをすてずにつかいつづけるひとだ。
結婚し、いっしょにくらしはじめたとき、
彼女が高校の林間学校用にかったというふるいコッフェルを、
現役のナベ兼保存用の器としてつかっていた。
アウトドアむけに、大・中・小のナベがひとつにおさまっている。
日常の調理器具としても、もちろんつかえるけど、
ちいさいし、とってがぐらついていて、
積極的につかいつづけたいほど 便利なナベではなかった。
それでも役をはたすうちはすてないのが配偶者流だ。

電気炊飯器も ものすごく旧式の型で
(さすがに何年かしたらこわれた)、
28年まえの新婚当時でさえ、ふるさにおどろいたおぼえがある。
ものを大切にして、つかえるあいだは、とことんつかう。
こわれたら、すぐにあきらめて あたらしいものをかう。
そのときは、必要経費とわりきり、値段をケチらない。
非常にドライな精神は、日常におきる
さまざまなトラブルに対応するときにも発揮される。
決断と実行のひとで、ためらいがない。
わたしなんかは、なかなかきめられなくて、
あーでもない、こーでもないのタイプだから、
現実的にものごとを処理していく配偶者に感心する。
わたしが高齢者となり、身のまわりのことができなくなったら、
どんな合理的な判断がくだるのか、すこしおっかない。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月02日

配偶者の誕生日プレゼントにフォトブックをえらぶ

配偶者の誕生日プレゼント。
なにをおくるのか、まいとしなやましい問題だけど、
ことしはフォトブックをおもいついた。
ネットに写真のデーターをおくると、
むこうが自動的にアルバムをつくってくれる。
わたしの手づくりというわけではないけど、
お店でかってきたなにかよりも手づくり感がある。
3台のパソコンにちらばっている写真をひらき、
50枚ほどえらんでもうしこんだ。

写真は、15年くらいまえのものから、つい最近のものまであり、
ふつうなら年代順にならべたほうがアルバムらしくなる。
でも、写真のデーターにいまから日付をつけるのはめんどくさいので、
写真のならびはむこうまかせにする。
デジカメ以前の写真もスキャンしてつかえば完璧だけど、
そこまでこると、誕生日プレゼントにはおもすぎる、
といいわけして、こんかいは、ささやかなレベルにとどめた。
写真の配置は自分できめることもできるけど、
センスのないわたしがやるより、
写真データーを自動的にならべてくれたほうが
気のきいたアルバムになるだろう。
これまたむこうにぜんぶおまかせとする。
しあがりぐあいを確認すると、
でたらめな順番ではなく、あるていどのまとまりができているし、
レイアウトも、写真のおおきさに変化がつけてあり、
わるくないアルバムにしあがっている。
ハードカバーのアルバムをえらぶと、4000円ほどの注文となった。
配偶者は、なつかしいネコたちの写真をよろこんでくれたし、
おさないころのむすこの写真もまぜたので、それもうれしそうだった。

フォトブックだけでは、すこしものたりない気がしたので、
CDを1枚つけたして、お得感をだした。
えらんだのは、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲ニ長調作品35。
クラシックのなかで、わたしがいちばんすきな曲なので、
あわよくばわたしもきかせてもらおうとおもう。
フォトブックとクラシックのCDで、
ことしの誕生日プレゼントをなんとかぶじにきりぬけた。

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2020年08月17日

配偶者のことをどうよぶか

すこしまえの朝日新聞で、配偶者のよび方をとりあげていた。
 作者の趙南桂さんが来日して作家の川上未映子さんと対談したとき、「日本では夫を主人と呼ぶ」と聞き、絶句していました。

というはなしが紹介されている。
女性が配偶者のことを「主人」とよぶのは、
絶句するのがただしい反応だとわたしもおもう。
犬がかいぬしのことを「主人」というのはありだろうか。
たとえ犬でも、わたしは「主人」とはいってほしくない。
うちの同居人、でいいし、
ネコはきっと人間のことを「主人」などとはおもっておらず、
「わたしの家にいるひと」ぐらいの意識なのではないか。
なんで人間の女性があいてを
「主人」なんていってしまうのだろう。

記事には、年代によるよびかたのちがいがのっている。
「親しい人の前で」女性が配偶者をどうよぶか、について、
20代では67%が「旦那」、「主人」は17.5%であり、
これが60代になると、よびかたは逆転し、
49.6%が「主人」というのだからすさまじい。
本来の意味で「主人」といっているわけではないのだろうけど、
それでもあいてのことを「主人」とよぶ心理がわたしにはわからない。
わからない、といえば、「旦那」だってそうとうひどい。
「主人」に「旦那」。なぜこんなよび方がひろまっているのだろう。

わたしは、「妻」がいちばん適切なよびかたとおもいつつ、
じっさいには「配偶者」といっている。
「わたしの配偶者は・・・」というつかい方だ。
「妻」というのがはずかしい心理がはたらいているようにおもう。
記事によると、配偶者のことを、そのままストレートに
「配偶者」とよぶひとは、アンケートにのっていなかった。

職場の同僚に、妻のことをきっぱり「嫁」とよぶひと(44歳)がいて、
よばれる側はどうおもっているのか いつも気になっている。
いかにも自分の「家」にむかいいれた、
という意識がはたらいているようで、
ひとむかしまえの家制度をかんじてしまう。
気のよわいわたしにはとてもいえないよび方だ。
わたしが配偶者を直接よびかけるときは、
相手の名前に「さん」をつけている。
配偶者がわたしより2つ年上だから、というだけでなく、
名前をよびすてにするのは、わたしの美意識にあわない。

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2020年08月12日

田舎の家をまもる責任感と、新型コロナウイルスへの対処法

配偶者の実家へ草かりにでかける。
年にいちど、はびこっている草を草刈機でかる。
ことしで3回目となり、恒例行事になったといってもいいだろう。
以前は義理の父が家まわりの管理をしていたけど、
いまはグループホームにはいり、
草かりは配偶者がときどき実家にもどってやっている。
なにも手だすけしないのは、もうしわけないので、
なんとなく お盆まえにとりくむ わたしの仕事となってきた。

午前に1時間、午後にまた1時間ほど草刈機をうごかす。
昼ごはん、そしてそのあとのひるねをはさんでも、
2時間の草かりはあんがいつかれる。
義理の父がわかくないように、わたしだってもう年なのだ。
いつまでこうやって草かりができるだろか。

配偶者は島根の田舎である掛合にうまれそだち
(鷹の爪団の吉田くんのふるさとのすぐちかくだ)、
ちいさいころから農作業の手つだいをやらされ、
近所に不幸があれば、なにがなんでも
おなじ「組」の家は、ひとりずつ手つだいをだす、
などのしきたりを たたきこまれてきた。
こうした「田舎」のしがらみを、
配偶者はとてもおもたくかんじているようなのに、
だれも手をいれなくなった実家にときどきもどり、
草をかったり(配偶者は電動式の草刈機をつかう)
お墓のまわりをきれいにしたり、
お盆やお彼岸には当然のようにお墓まいりにをかかさない。
家へのこうしたおもいいれというか、義務感は、
どのように配偶者に形づくられていったのだろう。
わたしは、親の葬式もできればはぶきたいとおもう、
だらしのない「あとつぎ」であり、
親戚づきあいも最小限におさえている。
おなじ島根そだちでも、わたしと配偶者では、
こころがまえにおおきなちがいがある。

配偶者は、家をまもらなければならないというあれこれを、
両親から具体的なことばで釘をさされたわけではないのに、
なぜこんなに自分の役割を粛々とこなせるのだろう。
田舎の家でそだつうちに、まわりの空気を自然とよみとり、
自分にもとめられる役割を、当然の任務としてうけいれるようになる。
同調圧力というとおもくるしいけど、
自分にかせられたあたりまえの役割と
あっさりうけとめられるのがすごい。

新型コロナウイルスの感染が島根でもひろがり、
わたしがつとめる事業所も影響をうけた。
わたしにもまた、いくらかは感染の可能性があると
冷徹な配偶者はみなしており、
それ以来、食卓にならぶおかずのすべてに、
きっちり「とりばし」がつけられるようになった。
わずかでも可能性があるときには、あっさりと合理的に対処する。
こうした冷静な対応と、田舎のしきたりを
きわめてすんなりうけいれる態度とが、
彼女のなかで矛盾していないのがおもしろい。
矛盾というよりも、おなじ価値観がはたらいているのだろう。

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2020年07月01日

配偶者が白内障の手術をうける

配偶者が白内障の手術をうける。
飛蚊症が気になって眼科へいくと、白内障だといわれたそうだ。
彼女はいま60歳で、白内障には はやいようにおもえる。
お医者さんがいうには、40歳以上のひとの9割は、
気づいているか、いないかのちがいだけで、
すでに白内障にかかっているらしい。
いずれ手術をしなければならないのなら、
はやめにきれいにみえたほうがいいですよ、
みたいなころし文句をお医者さんにいわれ、
配偶者は手術をきめた。

手術はきのうだった。
白内障の手術なんて、かんたんなものだろうと、
たかをくくっていたのに、お医者さん・スタッフ全員で
10人ぐらいのチームによって とりおこなわれている。
もっとも、手術をうけたのは、配偶者だけでなく、
5人がつぎつぎに手術室によばれている。
手術じたいは20分で、ぜんぜんいたくなかったそうだ。

白内障の手術は、片方ずつすすめるので、
きのうの夜は、左目に眼帯をして家にもどってきた。
みためには、けっこうたいへんそうだ。
本人も、もっとかるい術後だとおもっていたのに、
こんなにおおごとなら、もう片方の目はどうしようかな、
とまよっていた。それほどたいへんだったのだ。

でも、きょうまた病院へゆき、眼帯をとられたら、
これまでとまったくちがう世界がひろがっていたという。
白内障の手術のあと、劇的によくみえるようになった、
というはなしをよんだことがあるけど、
彼女にも、その圧倒的な変化がおとずれたのだ。
自分がその体験をしてないと、どんな世界がひらけたのか
まったく想像できない。
とにかく、配偶者はものすごく感激していた。
子どもはこんな世界をみているのか、なんていう。
それまでは、みえるものに、白いモヤがかかっていたそうだ。
それがふつうの状態だから、みえにくいとおもわない。
手術をして、どれだけみえてなかったのかに 気づいたという。
シワや、皮膚のおとろえがよくみえてこまる、ともいっている。
ブラウン管テレビから、液晶テレビにかえた、
ひとむかしまえの消費者、みたいなものだろうか。

気づいてないだけで、わたしも白内障がすすんでいる口にちがいない。
配偶者をみならって、はやめに手術をうけたほうがいいだろうか。
ただ、どの患者さんも、配偶者のように
うまくみえるようになるとはかぎらないらしい。
ほとんどの場合うまくいくけど、
ときにはそうならないこともある。リスクはつねにある。
そんなはなしをきくと、とくにこまっていないいま、
わざわざリスクをおかさなくてもいいようにおもう。
わたしはまちがいないく飛蚊症で、
あちこちに黒い糸くずがみえる。
蚊だとおもって、たたこうとすることもよくある。
年をとってから冬の夕方は、ものすごくくらくかんじる。
みえにくいので、運転をしているとあぶなくてしょうがない。
自覚症状としては、そのふたつが目についてのわたしの老化だ。
老化だから、ま、いいか、とおもっている。
配偶者はあかるい顔で、よくみえるようになった目のことをはなす。
めでたし、めでたし。
無事に手術がうまくいき、彼女の配偶者であるわたしもよろこんだ。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする