2020年01月18日

ゲームからエスペラント語という あたらしいうごき

朝日新聞の土曜日版beに
「国際語エスペラントは今」がのった。
英語ばかりがひとりがちしている状況なのに、
いまさらエスペラント語に出番があるのだろうか。
記事では、パソコンゲーム「ことのはアムリラート」
でつかわれているのがまさにエスペラント語なのだという。

このゲームは、
 主人公の少女が、日本とそっくりなのに言葉が通じない異世界に迷い込む

のだそうだ。
異世界のキャラクターが日本語を普通に話すことに疑問をもったのが制作のきっかけ。

とある。
わたしはわかいころに ほんのすこし
エスペラント語をかじったことがあり、
ほんのちょっとしかしらないものほど
おおくをかたりたがる、という原則どおり、
エスペラント語が話題になると、口をはさまずにいられない。
これまでに、このブログでもなんどかかいてきた。
またおなじような内容になるけど、
しつこく、えらそーにエスペラント語をかたりたい。

エスペラント語は、ポーランド人のザメンホフが
1887年につくった人口のことばだ。
いまの社会では、英語が世界共通語のようにおもわれており、
英語を母語とするひとが なにをするにも有利になる。
しかし、それでは公平な関係ではないじゃないか、
という発想がエスペラント語にある。
もしも、だれもが母語のほかに
エスペラント語をはなせるようになれば、
世界じゅうのひととコミュニケーションがとれる。
国際補助語としてのやくわりを、エスペラント語がはたす。
アメリカやフランス、そしてロシアなど、
いくつかのかぎられた国が ことばにおいて徳をするのではなく、
どのことばをつかうひとも平等であれたら、
という平和へのねがいから エスペラント語はかんがえられた。

日本人の外国語べたは おおくのひとにおぼえがあるだろう。
なんねん英語を勉強しても、はなせるようにならない。
外国人は、たとえばフランス人が英語をはなせるようになるのは
比較的かんたんなのにくらべ、
日本人が欧米のことばをまなぶときは、
文法や発音などが日本語とおおきくことなるため、
身につけるためには膨大な時間と努力が必要となる。
エスペラント語は、人工言語とはいっても、
単語のおおくをラテン系のことばからもってきており、
イタリア人は、日本人よりもかんたんにはなせるだろう。
それでもエスペラント語は、
日本人が英語やフランス語を勉強するよりも、
はるかにすくないエネルギーで身につけられる。

エスペラント語がすぐれているのは、
文法がよく整理されており、例外がないところにある。
たとえば動詞の現在形は語尾に「as」がつく。例外はない。
未来形にするには、動詞の語尾を「os」にかえるだけでいい。
過去形は、語尾を「is」にかえる。これもまた例外なしだ。
動詞の原形(不定詞)は語尾が「i」で、
語尾を「o」にかえると名詞となり、「a」すれば形容詞となる。
単語をひとつおぼえたら、動詞と形容詞にも そのままいかせる。
例外ばかりの英語やフランス語を勉強したあとで、
すべて例外がないエスペラント語が、どれほど楽かにおどろいた。
もうひとつエスペラント語を勉強していて気づくのは、
言語帝国主義に加担していない気分のよさだ。
英語を勉強していると、どうしても、いったいなにがかなしくて
おれは英語なんかを勉強しているのかと、むなしさが頭をかすめる。

平和運動や、国際補助語というこころざしはたかくても、
エスペラント語をつかうひとがすくなければ理想におわる。
こんかいの記事で紹介されているように、
パソコンゲームをきっかけにして
わかいひとたちがエスペラント語を勉強するなんて
いぜんにはかんがえられなかったうごきだ。
2012年にはGoogle翻訳の対象にもなったそうだし、
はなし相手もSNAでみつけられる。
ラジオで女性DJが、舌をふくざつにうごかしながら、
ネイティブっぽい発音をしてみせるとうんざりするけど、
だれかが すらすらとエスペラント語をはなしだしたら
英語やフランス語より、ずっとかっこいい。

posted by カルピス at 20:01 | Comment(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月01日

糸井さんの「どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ」に気がらくになる

ほぼ日に糸井重里さんがかいている
「今日のダーリン」をよんで気がらくになった。
すごくねむくて、なにをかこうかもおもいつかなくて、
そういいながら、なんだかんだと文章をつなげていき、
けっきょくなんとかなった、という内容だ。
ほらね。どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ。

「今日のダーリン」は、3日に2回のたかいわりあいで、
すばらしい内容の日があり、エバーノートにとっている。
きょうみたいに、ちからがぬけた回もまた、それはそれで参考になる。
そうか。そんなんでいいのかと、すくわれるおもいだ。

ほぼ日の、過去の人気コンテンツに、
「書く」ってなんだ?
というのがあったのでひらいてみる。
みうらじゅんさんの回には、
みうらさんがいまでも手がきだというはなしがのっていた。
https://www.1101.com/store/techo/ja/magazine/2019/kaku/2019-01-12.html
ローマ字入力がにがてなので、パソコンにうてないのだそうだ。
なんでローマ字入力につまずいたのかというと、
京都の小学校では、エスペラント語の授業があり、
エスペラント語でつかうアルファベットが、
ローマ字表記とすこしちがうので、こんがらがったらしい。
小学校でエスペラント語をおしえる、というのがさすがに京都だ。
でも、むりしてつまずかなくても、
すんなりローマ字が身につきそうなものなのに。
さすがにみうらじゅんさんだ。

梅棹忠夫さんの影響で、ずいぶんまえに、
わたしもエスペラント語の入門書にとりくんだことがある。
エスペラント語は、ラテン系のことばをベースにつくられたようで、
日本人がエスペラント語を勉強するより、
フランス人やイタリア人が有利なのはたしだ。
でも、たとえば過去形や未来形をつくるとき、
例外がなく、ひとつのやり方をおぼえるだけなのでかんたんだ。
英語よりもずっとらくにつかえるようになるだろう。
英語が世界共通語みたいな存在になるよりも、
第1外国語として、だれもがエスペラント語をまなべば、
英語一辺倒の状況よりも、世界の言語はずっと平等になる。

みうらさんは、吉田拓郎さんの字にあこがれ、
まねするようになったそうだ。
拓郎さんのつぎには、和田誠さんの字をまねている。
みうらさんのかいた原稿が、サイトにあがっているけど、
わたしがちょっとむりして ていねいにかいた字とあんがいにている。
わたしは字がへたくそなのがコンプレックスなのだけど、
もしかして、味のある字なのだろうか、なんてついおもってしまった。
とかいいながら、なんとかこんかいの記事をかきおえる。
ほらね。どんなに眠い日だって、なんとかなるのさ。

って、ほんとうだ。

posted by カルピス at 21:54 | Comment(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月24日

『もっとにぎやかな外国語の世界』(黒田龍之助)「ルパン三世」はなぜ「ルパンV世」ではないのか

『もっとにぎやかな外国語の世界』(黒田龍之助・白水Uブックス)

外国語はまったく得意ではないけれど、
外国や、そこではなされていることばには関心がある。
この本をかいたのは黒田龍之助氏。
おもしろいといいけど、とかってみたものの、あまり期待はしていない。
よみはじめても、なんだかおなじような場所をぐるぐるまわっているかんじで、
なかなか本論にはいらない(じつは、本論などなかった)。
かいてある内容だって、やさしく、といいながらわたしにはじゅうぶんむつかしい。
でも、「黒田龍之助」が、ロシア語講座の黒田先生だとわかってから
うけとめる気もちがガラッとかわり、
あのひとがいうのだから、さいごまでつきあおうとおもった。
ラジオのロシア語講座をきいていると、
ロシア語のややこしさがすきでたまらないという
黒田先生のひととなりがつたわってきて、
ぜんぜんわからないなりにたのしい時間をあじわっているからだ
(カーチャさんのかわいい声にもひかれて)。

もっとも、わたしはちゃんとテキストをまえに勉強しているわけではなく、
自動車を運転しながら、15分きざみでながれてくる
いろんな外国語講座をただきいているだけだ。
ロシア語講座はそのなかのひとつであるにすぎない。
なんとなく「ことば」というぐらいはわかるスペイン語やドイツ語にくらべ、
ロシア語はとびきり複雑だ。
はなすひとの性別により名詞まで変化するし、
複数形も英語のようにただ「s」をつけるだけではなく、
ひとつなのか、ふたつなのか、それ以上なのかによってちがってくる。
発音も子音がおおく、どれもおなじように、
もしくはどれもちがうようにしかきこえない。
こんなことばは、とてもじゃないけど理解できない、
というか、そもそもことばともおもえない、と
あきれながら、ただラジオをつけている。

おしえる側の黒田龍之助先生は「大丈夫ですよ」と
いつもかわらず、やさしく、たのしそうに説明してくれる。
やさしい、といっても、生徒には基本的な知識と努力をもとめられるし、
やさしくいわれても、わからないものはわからないのだから、
ロシア語がむつかしい、という印象はかわらない。

まえおきがながくなった。
この『もっとにぎやかな外国語の世界』は、
いろいろな外国語の勉強を、かたぐるしくなく、
にぎやかにたのしんでほしい、という
黒田先生のエッセイだ。
ロシア語だけでなく、チェコ語やクロアチア語、
インドのナーガリー文字など、さまざまなことばが話題にのぼる。
黒田先生は、外国語とその文字を勉強するのが
すきでたまらない。
言語学だから学問になるけど、
ちがう分野だったらオタクといわれそうな
マイナーでふかい世界をたのしんでおられる。
留学せずにロシア語をまなんだとかいてあるけど、
ロシア語講座でのカーチャさんとのやりとりをきいていると、
現地での体験がないひとにはとてもおもえない。
ことばに関することはぜんぶ吸収してしまうのだろう。

それぞれの章のあいだにコラムがはさんであり、
やわらかい話題で休憩しながらよみすすめる。
ローマ数字について、
「アレクサンドルV世」はローマ数字なのに、
「ルパン三世」はそうではない、と指摘してあって、
いわれてみれば不思議になってくる
(なぜかはけっきょくわからない)。
また、ローマ数字がいまはあまりつかわれないのは、
ゼロをあらわせないからだそうで、
こういう、どうでもいいけどおもしろいはなしをしると、
ことばについての興味がわいてくる。

ひとつ気になったのは、エスペラント語について、

「平等という発想は立派である。
だが国際共通語一つだけで
みんながコミュニケーションできる世の中が
果たして幸せなのだろうか」

とかいてあるところだ。
エスペラント語はひとつだけの国際共通語をめざしたものではなく、
母語と、もうひとつエスペラント語さえ身につけていたら、
世界中のひととコミュニケーションできる、
という国際補助語としての運動ではなかったか。
黒田先生は

「(エスペラント語は)やさしいといわれているが、
あまりそういう気がしない。(中略)
英語やフランス語などをすでに知っている人にはいいかもしれないが、
そうでなければ覚える手間は同じではないだろうか」

といわれる。
エスペラント語の入門書をほんのすこしかじった経験からいわせてもらえば、
ぜんぜん「同じ」ではない。客観的にいって圧倒的にやさしい。
なにしろ、文法に例外がなく、
たとえば現在形は語尾に「as」がつくとおぼえてしまえば、
すべての単語にその規則がいかされる。人称による変化もない。
例外がいっさいないということが、どれほど気をらくにしてくれることか。
「覚える手間は同じ」なんてとてもおもえない。

エスペラント語は、黒田先生にとってかんたんすぎるのだ。
「例外がない文法なんて、なんだかつまらない」といわれる。
ロシア語の複雑さをまえにおどろくしかないわたしにとって、
エスペラント語の規則のすくなさはとても魅力的なのに。

ことばを身につけることにかけて、天才はたしかにいて、
そうしたひとは一般人にくらべ
ほんのわずかな労力で外国語を習得してしまう。
黒田さんがなんの努力もしていない、なんていうつもりはないけれど、
それでも数おおくのことばを勉強し、
それがたのしくてしかたがないという黒田さんは、
特別な才能をもっているというべきだろう。
なにしろ、留学しなかった理由のひとつに
「日本にいれば、いくつもの外国語とにぎやかにつき合える」
なんていうのだ。
「どこの国、どこの街にいても、そこにはない言語を、
しかも二つも三つも求めてしまう」のだそうだ。

にぎやかな外国語の世界への案内、
というのがこの本の趣旨であり、
ラジオでの黒田先生のひとがらをしっていたおかげもあって、
「言語学」からくる、かたぐるしそうなイメージにおびえないでよむことができた。
あとは、自分でどうその世界をひろげるかで、
英語にかたよりがちな意識をどうにかしないと、
つぎのことばになかなかすすめない。

この本の基本的な精神である、ことばについての平等主義が
よんでいて気もちがよかった。
黒田先生は、英語なんかを特別あつかいしてなくて、
ピジンやクレオールにもちゃんと敬意をはらっている。
黒田先生がこれほどおもしろそうに外国語についてかいてくれたのだから、
ラジオ講座の受講生としても、なにかうごきをつくりたいところだ。
黒田先生がすすめている「言葉のしくみシリーズ」は
「いろんな言語をすこしずつ覗いてみたいという人向きの、
気軽な案内書」
ということだから、わたしにむいてそうな気がする。
習得をめざすのではなく、「すこしずつ覗く」とう方針で
外国語の世界をひろげてみたい。

posted by カルピス at 12:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

『中央公論』11月号の特集は「英語の憂鬱」

『中央公論』11月号の特集は「英語の憂鬱」だ。

・斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談
 「明治以来の憧れと敗北のDNA」
・「英語公用語化」がもたらしたもの
 ユニクロ・楽天の現役社員に聞く
・小学校英語教育 問題はここだ!

などいくつかの記事をよむと、
小学生からおとなまで、日本中のすみからすみまで、
英語学習がうまくいってない現状がかたられており、
このままではいけないことがわかる。

ではどうすればいいか、というのを
これまで日本は延々とやってきたわけで、
それでもどうしてもうまくいかなかったのが50年の歴史だ。
英語学習の教材やテキストがたくさんでまわっており、
ありとあらゆる方法が提案され、ためされてきたのに、
おおくのひとがどうしてもつかえるようにならない。
グローバル化でこれからは英語が絶対に必要といわれながらも、
おおきな変化はおきていないようにおもう。
先日の新聞には、小学校の3年生から英語の授業をはじめるという
文部省の方針をつたえていた(いまは5年生から)。

もっとも、はやくはじめればいいかというと、
特集記事によればおしえる側の質がとわれてくるそうで、
小学校英語教育についての覆面座談会では

「せっかく(ネイティブの発音になれて)”tree”と言えるようになっても、
担任の先生につられてあっという間に
(カタカナ英語の)「ツリー」になってしまう」

という例が紹介されている。
この座談会がよってたつかんがえ方は、

「間違っている英語を聞かされた子どもの英語力が
向上するはずがありません」

というものだ。
しかし、なにが「間違っている」かを
そうかんたんにきめられないことに
日本における英語のむつかしさがあるのではないか。
どんな英語をめざすのかという着陸地点は、
異文化交流・留学さき・職場・外交など、
つかう場面と目的によってちがっており、
ある面では日本人英語として「ツリー」でいいだろうし、
外交では「tree」でないとはずかしいかもしれない。
ネイティブの英語をありがたがるのではなく、
反対に、ネイティブがあゆみよろうとする方向性が
グロービッシュやベーシックイングリッシュの
基本的なかんがえ方にある。
ほんとうに、学校ではどういう英語をおしえるべきなのだろう。

もうひとつは、よくいわれるように、
必要ないから身につかないという単純な事実だ。
英語がわからなくてもあたらしい情報をしることができるし、
仕事でもほとんどのひとは英語なんて関係ない(すくなくともこれまでは)。
英語なしでもこまらないのは
それだけ日本および日本語のちからがつよいからであり、
しあわせな歴史だったともいえる。
独立国が、自分の国のことばだけでやりくりしようとして
なにがわるいのか。
以前のブログに、英語学習とダイエットはおなじだ、
とかいたことがある。
ふとっていても、ものすごくこまらなければ
ダイエットは成功しない。

あるべき姿からかんがえると、
英語が影響力をつよめるのは
日本人にかぎらず、おおくのひとにとって平等ではない。
英語を母語にするひとが、とくをするにきまってるのだ。
わたしは以前、梅棹忠夫さんの影響から、
エスペラント語を勉強してことがある。
入門編のテキストをやっただけなので、
たいしたことはいえないけど、
日本人にとって英語を勉強するより、はるかにかんたんだった。
英語を勉強するときの屈折した心理がなく、
すみからすみまで気もちよかった。
不規則な動詞の変化がないし、発音も日本語のものでほぼ対応できる。
国内では母語、国外ではエスペラント語という
ふたつの言葉だけで、世界中のひとびとと交流できるのが、
国際補助語としてのエスペラント語の魅力だ。

まったく、日本にとっての英語は
「英語の憂鬱」というしかないのだろう。
問題が複雑すぎて、たとえ小学年生から
英語の授業がはじまるようになっても、
なにかがおおきくかわるとはおもえない。
そして、日本人のおおくが英語をつかえるようになるのは、
それだけ日本の状況がむつかしくなったときであり、
日本人にとってしあわせではないかもしれない。
このままぬくぬくと、英語なんかつかわずにくらしたいと、
おおくのひとがおもっているし、
もうそれではやっていけないほど、
グローバル化がすすんでいるというのが、
英語教育をすすめたい側の認識だ。
両者の議論はなかなかかみあわない。

posted by カルピス at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする