2021年04月09日

伊藤理佐さんがといかける「仕事とは、なにか」

たのしみにしている伊藤理佐さんの連載コラム、
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
今回は、仕事とはなにか、について。

伊藤家は家のそうじを「ダスキンさん」にまかせていて、
それなのに、ダスキンさんがくる日の朝、
伊藤さんとヨシダサン(伊藤さんの夫)が
ざっとヌメリをとったり、物をどかしたり、ふいたり、ほこりをはらったり、する。

ここまでは、よくきくはなしだ。
でも、伊藤さんは最近になって、こうかんがえるようになった。
つまり、もしかしたらよごれている家は、
プロのそうじ人にとって宝箱かもしれない、と。
「この家、つまんねーな」
と、思われていないか。
「もっとヌメッてろよ」
「ガッカリだな」
みたいな。
「このレベルで定期便頼んでんじゃねーよ、チッ」
とか。
「面白くない」
と、思われることは、職業上の理由で我慢できない。

「職業上の理由で我慢できない」がおかしい。
よごれている部屋をみられるより、
おもしろくないとおもわれることのほうが、
伊藤さんは我慢できない。
職業上の理由、と、めずらしく、
かたぐるしい言葉をつかって プライドをのぞかせる。
 わたしたちは、間違った親切心と、つまらないみえで、ダスキンさんのやる気と仕事を奪ってはいないだろうか。つまり、わたしたちは「やらない」という仕事をさぼっていないだろうか。プロに対してプロの仕事ができているだろうか。もっとヌルヌルしていたほうがいいのではないか。仕事とは、なにか。もっとヌメる自信はある。悩んでいる。

けっきょくさいごの段落を、ぜんぶ引用してしまった。
伊藤さんのまじめさと ふまじめさのかねあいが だいすきだ。
たたみかけるように、リズムをきかせた文章がうまい。
「やらない」という仕事をさぼらないよう 気をつけたい。

posted by カルピス at 20:14 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月13日

「雨戸道」11年 伊藤理佐さんのコラムがいつもながらうまい

いつもながら伊藤理佐さんのコラムがすばらしい。
隔週の金曜日、朝日新聞に連載されている
「オトナになった女子たちへ」のことだ。
今回は「雨戸道」について。
伊藤さんは、雨戸をあけるのも「道」があるという。
茶道や花道でいう、あの「道」のことで、
戦車道があるぐらいだから、雨戸道があっても不思議ではない、
と かんたんにはいいきれない。
戦車道はむりやりだけど、雨戸道はたしかにむかしからあった。
雨戸には、戦車道よりも、
よほどお作法っぽい要素があると、伊藤さんは気づいた。

伊藤さんがかんじている「道」っぽいところは、
 電動で、ない。ガラガラっと、戸袋から一枚ずつ、夕方に出して、朝は入れる。なんとなく、日が沈んでから&昇ってから、としている。季節に合わす。素早くやる。でも、少し勢いをつけないと一発で決まらないので、ちょっと音を立てる。雨戸で自分を隠しながら、目線を外にまっすぐ向けない。道を歩いている人、向かいの家の人、と目があわないようにする。なんかこう、お作法っぽい。

雨戸をあけるのに作法があるように、
雨戸をあけているひとから目をそらすのも
まわりのひとがつくりあげた作法だ。
なぜなら「朝だから見られたくない格好」だから。
家の前のゴミ出しがギリギリ許される、の格好だった。角のコンビニには行っちゃダメレベルの。だから雨戸で隠すのだ。そうか。それはこちらへの気づかいだった。気をつかっているつもりが、つかわれていた。外にも「雨戸道」があった。

わたしがすむ地方には、雨戸がない。
わたしの家だけでなく、雨戸文化のない地方のようだ。
東京で、親戚の家にとまったとき、はじめて雨戸を体験した。
雨戸をぜんぶしめると、部屋はまっくらになり、
朝になり雨戸をひらくと、ものすごくつよい光がはいってくる。
雨戸の威力と存在感は圧倒的だった。
雨戸はこれだけのちからをひめているのだから、
たしかに それなりの作法が必要にちがいない。

コラムのしめくくりが、またうまい。
 どーでもいい気がする。いや、どーどもよくない。そんなこといったら「お茶」だってどーでもいいのだ。

すべてに「道」がつうじていると 伊藤さんは発見した。

posted by カルピス at 17:00 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

「幼稚園でさえ、この采配」伊藤理佐さんのコラムがさえてる

いつもながら伊藤理佐さんのコラムはうまい
(朝日新聞:「オトナになった女子たちへ」)。
こんかいは、保育園のチョー(まとめ役)をきめるはなし。
伊藤さんのしりあいがかよう幼稚園は、推薦でもアミダでもなく、
「園長のご指名」でチョーがきまるのだという。
ことしは
「いちばん若〜い、しかもやさしそーーーなママがご指名をうけて。しかも2人目がおなかに」(中略)
「んで、数人で、ダイジョウブデスカ?って、園長に話に行ったの」
そうしたら、園長先生がこう言ったのだそうだ。
「しかりした人がなると、みんなが意見を言いづらい。やさしい年上の人がなっても気を遣う。若くて妊娠中だと、みんなお手伝いをしてくれる、助けあう、協力する。だから、年少はこれでいいのです」
と。ハハーッ、となった、と。年中さん、年長さんは、違う理由で、ぜんぜん別タイプの人がご指名をうけたのだそうだ。(中略)
 近所の幼稚園でさえこの采配。近所の幼稚園さえ、ですよ。国は・・・・・

うまいのはここでかたられているところの園長先生なのだけど、
はなしのエッセンスのとりだし方が伊藤さんはたくみだ。
ほんとに、幼稚園でさえ、この采配なのに、国は・・・。

ヤフーのポータルサイトに、
ヒロシさんへのインタビューがのっていた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bd02ebc0b505a0acec611bdafcf5bc8a8b6747b9
ヒロシさんの月収は最高で4000万円のときもあり、
はじめはよろこんでいたけど、そのうち
お金の価値がわからなくなった、とヒロシさんはかたっている。
お金への執着をなくすにはどうすればいいかをたずねられると、
ヒロシさんは、ユーチューブをつよくすすめている。
ヒロシさん: たとえニッチでも好きなことだったら、苦にならないし楽しいですよ。それに、 絶対コアなファンがいるはずです。 僕は「アルバイトするくらいだったら、毎日YouTubeを更新しなさい」って言います。 アルバイトは時間の切り売りでしかないけど、YouTubeはその先に広がる可能性がたくさんあるんだから! これが僕の実体験から答えられる、“お金への執着から抜け出す方法”です!

いちど有名人になったヒロシさんでさえ、
毎週の視聴者が3人、という時期もあったそうで、
だれもみてないからこそ、それでいいのであり、
配信の反応を気にする必要はない、という。

わたしのこのブログは、きょうでまる9年つづいている。
反応を気にせずにかいていたら、
ほとんど反応がないまま9年がすぎた。
10年連続をめざしているけど、10年つづけたところで
なにかがかわるわけではなさそうだ。
それでも、たのしい9年だった。
表記法は自分のこのみでとおせるし、
なにをかくかも自由にえらべる。
「好きなことだったら、苦にならないし楽しい」とわたしもおもう。

posted by カルピス at 20:30 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月24日

伊藤理佐さんらしくない直球がはなたれた「クルクルやめる勇気」

たのしみにしている隔週連載のコラム
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
こんかい伊藤理佐さんがえらんだ題材は、「やめる勇気」だ。
白くてまわる、まるい台を冷蔵庫のなかにいれると、
調味料などがうもれず、つかいやすいらしい。
伊藤さんはこのアイデアを雑誌でみかけ、
「ぜひうちで回っていただきたい!」
と、スカウトした。つまり、買った。

整理整頓のきりふだとして期待したこの「白いクルクル」は、
じっさいは ちっとも便利じゃなかった。
クルクルは、スペースを取る割にビンがたくさんのらない。で、回さないでも取れちゃう。で、回さない。回らない。(中略)
 わたしは、間違えた。なのに、それを認めなかった。我慢して使った。家族も巻きこまれて使っていた。何年もだ。そして2020年。
 日曜日、アベノマスクとGo To トラベルキャンペーンの悪口を言っていたのだ。わたしはでっかい声だった。
「間違えた、って言って、気づいた時すぐやめればいいんだ。なんで途中でやめられないんだバカ」
と、言ったのだ。自分に殴られた。つまりオバサンはオバサンに殴られた。

いつもならひねりがはいり、複雑な構造とことばづかいで
読者に知識とセンスを要求する伊藤さんのコラムなのに、
今回はすごくシンプルだ。それだけあたりまえのことを、
そのままおおくの読者につたえたかったのではないか。
(クルクルをまちがいとみとめるのは)勇気が必要だった。国もわたしを見習ってほしい。

むすびのことばも、伊藤さんらしくない直球がなげられた。
かんがえを、とちゅうでやめる勇気が政府にあるだろうか。

posted by カルピス at 16:52 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月10日

切実な「あと ひといぬ」問題

今週の「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)は、
伊藤理佐さんが担当だ。
タイトルは、「あと ひといぬ」。

「あと、ひといぬ」は、伊藤さんが実家の両親に
「犬、飼えば?」と提案しているところだ。
まえはかっていたのに、もう7、8年 犬がいないという。
動物といっしょのほうが、くらしにメリハリがつくのでは、
と伊藤さんはおもっている。
でも、父76、母77のふたりは、
「ここから13年は無理っ」
と伊藤さんの提案をうけいれない。
13年は、これまでかっていた犬の平均寿命だ。
ご両親が ためらってしまう気もちもわかる。

それにしても、「ひと いぬ」という単位がうまい。
わかいころなら、かんがえもしなかった切実なくぎり。
義理の母には
「ひとねこ、どうですか」
「ひとねこ、いけますって」
と、・・・言えない。

まえにかっていたネコが、24年も生きたからで、
84歳の母に「ひと ねこ」はとてもきりだせない。

自分たちのネコについても伊藤さんはかんがえる。
伊藤さんの家の「ひと ねこ」は18年だ。
配偶者のヨシダサンが70のとき、
いまかっているネコが死んだとして、
そこから18年をたすと88歳。
これならいけそうと、伊藤さんはほっとしている。
「おーい、もうふたねこ(今のを含む)で!」

わたしの家はどうだろうか。
いま家にいるココはまだ2歳で、
まえのネコであるピピが死んだのは18歳のときだった。
もうすぐ59歳のわたしが、75歳のときに、ココは18歳となる。
たまたまだけど、75歳は、わたしがそれぐらいで死ぬのでは、
となんとなくおもっている年齢だ。
そこから「もう ひとねこ」は、さすがにむりだ。
わたしにとって、ココがさいごのネコである可能性がたかい。
というか、ココをみとるのさえ むつかしいかもしれない。

「ひと いぬ」、そして「ひと ねこ」は、
動物がすきなものにとって、おおきな問題だ。
「ひと ねこ」の単位が意味するおもさを、
ちゃんとわかってないと、おたがいが不幸になる。
自分がいなくなったときのことをかんがえおかないと、
のこされた動物が路頭にまよう。
そうはいっても、ネコのいない生活はさみしい。
こころがよわいわたしは、これも縁だから、とかいって、
子ネコを家につれてかえりそうだ。
「あと ひとねこ」は、老人だけの世帯ではむつかしい。
ペットとのくらしをかんがえると、
核家族よりも二世帯、三世帯が正解かもしれない。
家族の人数がへり、ペットがふえるのは、
「ひと ねこ」問題からいうと、よくないながれだ。
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posted by カルピス at 20:37 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする