2020年07月24日

伊藤理佐さんらしくない直球がはなたれた「クルクルやめる勇気」

たのしみにしている隔週連載のコラム
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
こんかい伊藤理佐さんがえらんだ題材は、「やめる勇気」だ。
白くてまわる、まるい台を冷蔵庫のなかにいれると、
調味料などがうもれず、つかいやすいらしい。
伊藤さんはこのアイデアを雑誌でみかけ、
「ぜひうちで回っていただきたい!」
と、スカウトした。つまり、買った。

整理整頓のきりふだとして期待したこの「白いクルクル」は、
じっさいは ちっとも便利じゃなかった。
クルクルは、スペースを取る割にビンがたくさんのらない。で、回さないでも取れちゃう。で、回さない。回らない。(中略)
 わたしは、間違えた。なのに、それを認めなかった。我慢して使った。家族も巻きこまれて使っていた。何年もだ。そして2020年。
 日曜日、アベノマスクとGo To トラベルキャンペーンの悪口を言っていたのだ。わたしはでっかい声だった。
「間違えた、って言って、気づいた時すぐやめればいいんだ。なんで途中でやめられないんだバカ」
と、言ったのだ。自分に殴られた。つまりオバサンはオバサンに殴られた。

いつもならひねりがはいり、複雑な構造とことばづかいで
読者に知識とセンスを要求する伊藤さんのコラムなのに、
今回はすごくシンプルだ。それだけあたりまえのことを、
そのままおおくの読者につたえたかったのではないか。
(クルクルをまちがいとみとめるのは)勇気が必要だった。国もわたしを見習ってほしい。

むすびのことばも、伊藤さんらしくない直球がなげられた。
かんがえを、とちゅうでやめる勇気が政府にあるだろうか。

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2020年07月10日

切実な「あと ひといぬ」問題

今週の「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)は、
伊藤理佐さんが担当だ。
タイトルは、「あと ひといぬ」。

「あと、ひといぬ」は、伊藤さんが実家の両親に
「犬、飼えば?」と提案しているところだ。
まえはかっていたのに、もう7、8年 犬がいないという。
動物といっしょのほうが、くらしにメリハリがつくのでは、
と伊藤さんはおもっている。
でも、父76、母77のふたりは、
「ここから13年は無理っ」
と伊藤さんの提案をうけいれない。
13年は、これまでかっていた犬の平均寿命だ。
ご両親が ためらってしまう気もちもわかる。

それにしても、「ひと いぬ」という単位がうまい。
わかいころなら、かんがえもしなかった切実なくぎり。
義理の母には
「ひとねこ、どうですか」
「ひとねこ、いけますって」
と、・・・言えない。

まえにかっていたネコが、24年も生きたからで、
84歳の母に「ひと ねこ」はとてもきりだせない。

自分たちのネコについても伊藤さんはかんがえる。
伊藤さんの家の「ひと ねこ」は18年だ。
配偶者のヨシダサンが70のとき、
いまかっているネコが死んだとして、
そこから18年をたすと88歳。
これならいけそうと、伊藤さんはほっとしている。
「おーい、もうふたねこ(今のを含む)で!」

わたしの家はどうだろうか。
いま家にいるココはまだ2歳で、
まえのネコであるピピが死んだのは18歳のときだった。
もうすぐ59歳のわたしが、75歳のときに、ココは18歳となる。
たまたまだけど、75歳は、わたしがそれぐらいで死ぬのでは、
となんとなくおもっている年齢だ。
そこから「もう ひとねこ」は、さすがにむりだ。
わたしにとって、ココがさいごのネコである可能性がたかい。
というか、ココをみとるのさえ むつかしいかもしれない。

「ひと いぬ」、そして「ひと ねこ」は、
動物がすきなものにとって、おおきな問題だ。
「ひと ねこ」の単位が意味するおもさを、
ちゃんとわかってないと、おたがいが不幸になる。
自分がいなくなったときのことをかんがえおかないと、
のこされた動物が路頭にまよう。
そうはいっても、ネコのいない生活はさみしい。
こころがよわいわたしは、これも縁だから、とかいって、
子ネコを家につれてかえりそうだ。
「あと ひとねこ」は、老人だけの世帯ではむつかしい。
ペットとのくらしをかんがえると、
核家族よりも二世帯、三世帯が正解かもしれない。
家族の人数がへり、ペットがふえるのは、
「ひと ねこ」問題からいうと、よくないながれだ。
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2020年06月12日

伊藤理佐さんの「あるのか?わたし」がおかしかった

伊藤理佐さんの「あるのか?わたし」がおかしかった
(朝日新聞に隔週で連載される「オトナになった女子たちへ)。
タイトルは、「わたしは、ジュリアナ東京へいったことあるか?」。
もうひとつ問題があって、それは
「わたしは、マクドナルドの
 フィレオフィッシュバーガーを食べたことあるか?」。
いったのか、たべたのか、自信がないそうだ。
そして、おわりのほうで、
富士山をみる目が、この問題にむかうときの ヒントをおしえてくれる。
 ところで。
富士山は圧倒的に富士山なのだそうだ。
「あの山は富士山?」
と、「?」がついたら、もうその山は、富士山じゃないんだそーだ。富士山はただ、ただ、
「あ、富士山・・・!」
となる、のだそうだ。

富士山でおもいだしたのは ダニのはなしだ。
ダニにかまれてかゆいような気がするけど、
これはほんとにダニなのだろうか、とまよったら、
ダニではない、というのをきいたことがある。
もしダニだったとしたら、まよわないぐらい
強烈にかゆいのだそうだ。
おなじように、50肩かな?とおもったら、それは50肩ではない。
もし50肩だったら、「かな?」ぐらいのいたみではすまないから。
名づけて、「まよったら、ちがう」の法則。
世界はシンプルにできていて、「はい・いいえ」のふたつしかない。
中間はない。どっちかなー、とかんがえたら、
それだけですでにこたえがでている。いいえ、なのだ。

といいつつ、優柔不断にまようのはあんがいすきだ。
たとえばお酒をかいにイオンへいったとき、
ジンをかうか、ウィスキーにするか、
1本にするか、2本のほうがいいか、
ビールはどの銘柄にするか、白ワインの値段は、など
たいしたことないことについて、いちいちまよう。
とくにおおきなかいものでないときでも、ちゃんとためらう。
不毛な時間であり、もったいないだけなのに、
ああでもない、こうでもないとかんがえる。
そんなふうにまようのが人生、という気がしている。
ごくささいなことにまよっていると、
自分の人生をいきている手ごたえがある。

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2020年03月20日

伊藤理佐さんの「いいことみっけ」がすてき

新型コロナウイルスにより、
いつもとちがう「日常」になっているいま、
休校になって、1個だけ、いいことがあった。

と伊藤理佐さんが「オトナになった女子たちへ」
(朝日新聞)にかいている。
タイトルは、「いいことみっけ」。
となりにすむ5年生の女の子が、
むすめさんをあそびにさそってくれたのだという。
ピンポーン、と、鳴らしてくれた。ならしてもらって気づいたけど、とても鳴らしてほしかった。毎朝、学校には一緒にいくけど、遊ばない関係の2人。

伊藤さんは、むかいの家で、高校生の男の子が、
玄関を本格的に掃除していたのもみかけた。
(男の子がいたのは)知っていたんだけど、こんな長身だったとは。おばちゃん、つい、声かける。「掃除?」
「はい。休校で暇だから」(中略)
いいこと1個だけじゃないじゃん。なんか、いっぱいあった。

ほかにも、2階の窓から子どもたちにむけ、
クイズをだしてくれたおばさんもいたそうだ。

こんなときだから、いつもはできないことをする。
いつもとちがうことに気づく。
どんな状況になっても、生活していくことにかわりはない。
できないことをためかないで、いまだからできることをためしたい。
「いいことみっけ」って、すてきなとらえ方だ。
いつものくらしが、「いいこと」だというのは、もうわかっている。
なんでもない日こそありがとう、は、震災のときにみんなが気づいた。
どこかへいかなくても、いつもの生活でじゅうぶんだ。
そのなかで、「いいこと」をみつけられるかどうか。

いまの状況はどこか、大雪がふったときに 似ていないか。
雪が20センチでもつもれば、「いつもとおなじ」ではいられない。
かといって、身の危険が、すぐちかくにせまっているわけでもない。
学校はやすみだったり、下校がはやかったり。
雪かきをして、家のまわりをととのえる。
近所のひとと、いつもはしないあいさつをかわす。
大雪は、不自由をするけど、「いいことみっけ」のときでもある。
ちがうのは、いつまでこの状況がつづくのか、
はっきりとしたみとおしが もてないことだろうか。
だからこそ、いつもとちがうくらしのなかで
「いいこと」に気づきたい。

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2019年11月23日

伊藤理佐さんの「大人は大人だ、とわたしも思ってたもん」に共感する

朝日新聞の金曜日に連載されている「オトナになった女子たちへ」。
今週は伊藤理佐さんの回で、
子どものころ、大人は大人だとおもっていたのに、
というはなし。
伊藤さんが保護者の当番活動として、音楽室でおこなわれている
子どもたちの練習につきそっている。
難しい顔している。みかけは50歳、57キロ(秋、肥えた・・・)な、大人だ。しかし、中身は、
(ど、どーしよ、な、なんて言おう)
でいっぱいだった。

演奏の練習がおわり、子どもたちがふりむいて
保護者へおれいの挨拶をするときに、
なにを、どういえばいいのか、に伊藤さんはなやんでいる。
ありがとうございました、とかえすのはおかしいし、
おつかれさまでした、もへんだ。
これから授業へいくのだから「いってらっしゃい」かな、
と伊藤さんはことばをさがす。

この、「大人は大人だとおもっていたのに」は、
わたしにもこころあたりがある、というか
ずっとつきまとっている心境でもある。
子どものころ、30歳をこえた大人は、
みんなそれなりの中身がつまった大人にみえた。
いざ自分がその年代になってみると、
なかみがまったくともなっておらず、
あまりにかわらないのがなさけない。
みかけも年齢も それなりのおとなのはずなのに、
なかみは子どものころとたいしてちがいがない。
成熟してないし、年そうおうのふるまいができない。

そんなことをひとにいっても、みんなそうですよ、
となぐさめられるけど、ほんとうだとはおもえなかった。
でも、伊藤さんの「大人は大人だとおもっていたのに」をよみ、
どうやらほんとに みんな そんなものらしい、と安心する。
ひとのなりふりをみて安心する、
というのが、そもそもなさけないけど。

伊藤さんは、けっきょくどんな挨拶をかえしたか。
「・・・・ざ ぃし た!」

だったのだという。
 何も言ってない。でも何か言っている。そこんとこ、ちゃんと大人、だった。

これもまた、「大人」でないことを自覚しているおとなは、
おもわずひざをうつひとことだ。
なにかいわなければならない、でも
つたえたい内容が、具体的にはない。
社会でやりとりされている手紙だって、
おおくはひとことで内容をあらわせるけど、
それでは紙面があきすぎるので、
あたりさわりのないことばをならべているだけだ。
子どもたちへの挨拶は、
「・・・・ざ ぃし た!」でじゅうぶん用をはたしている。
わたしも「・・・・ざ ぃし た!」
がいえるようなおとなに はやくなりたい。

ちなみに、きょう11月23日は、
勤労感謝の日でおやすみなのだという。
もともと土曜日がやすみのひとがおおいきょう、
あえて祝日、しかも勤労に感謝する日として
わざわざ土曜日に設定する意味がどこにあるのか。
いやがらせか、ブラックジョークにしかおもえない。
勤労感謝の日は、ぜったいに土曜日以外でなければならない。
タグ:伊藤理佐

posted by カルピス at 20:29 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする