2019年06月21日

伊藤理佐さんと、両家の親たちによる「年が年なもんで」の神対応がすばらしい

朝日新聞に隔週で連載されている
伊藤理佐さんのコラムが いつもすばらしくおもしろい。
ほんとうに、はずれがないので、
伊藤さんの担当する週がまちどおしい。
こころのヒダの、こまかいところまで理解して、
ひととの関係を具体的に言語化する名人だ。
こんかいのタイトルは、「年が年なもんで」。

理佐さんとヨシダさんとの結婚式(ふたりとも再婚)から
はなしがはじまっている。
ただ、すんなり「結婚式」とはよんでない。
親、兄弟だけの顔合わせ食事会を小さく開いたアレは、12年前だ。

この、「アレ」がうまい。
「お互い2回目なんで1」
「年が年なもんで!」

なので、すなおにおいわいできる おめでたい結婚式ではなく、
かといって、なにもひらかないのはなんなので、
あいまいに「アレ」と、ゴニョゴニョっとごまかすのが
再婚をいわう結婚式の ただしい位置づけだ。

親どおしのはなしあいにより、
お中元とお歳暮のやりとりはやめようと きまったそうだ。
理佐さんも、母の日と父の日、それに誕生日には、
「贈り物なし」で、電話するだけを提案し、了承されている。
たしかに、年8回もプレゼントをおくるのは、
かなりめんどくさそうだから、
理佐さんにとって 気がかりな問題だったにちがいない。
当日の朝に電話すると
「忘れずにエライ!」
と、ほめられ、夜だと
「おまちしてました」
と、笑われ、一週間まちがえたりすると
「早い・・・」「遅いネ」
 なんていじけたフリをしてもうらうのだった。12年もやってると「型」っていうんですか?が、決まってきて、
「おとうさん(おかあさん)、元気でいてクダサイ」
「アリガトウ」
 なんて、最近じゃ「ワザと棒読み」がウケるまでに仕上がってきた。

ことしの父の日、理佐さんが電話するのをわすれていたら、
むこうの家から、ヨシダさんを経由して、催促の連絡があった。

ヨシダさんは、
「リサちゃん、電話するの忘れてるってよ」
 桐島、部活やめるってよ、の発音で。催促する、催促がくるまで、我ら一族は成長していた。二人の父に電話をした。父の日を忘れてなかった風で。心臓に毛が。ほら、年が年なもんで。

配偶者の家族とのつきあいは、
あんがいやっかいなものだ。
伊藤家とヨシダ家の親と子どもたちは、
いじけたフリをしたり、
「ワザと棒読み」をして、それがまたうけたりと、
12年のあいだに やわらかい関係をつくりあげている。
うわべだけの よそよそしいやりとりではなく、
なにかあっても いいほうに解釈して、
あたらしい家族の関係をたのしんでいる。
「年が年なもんで」と、いいわけしながら、
テキトーにやってる伊藤理佐さんは、すてきな大人だ。

posted by カルピス at 20:51 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月26日

男子高校生が、なぜわたしに朝のあいさつをしてくれるのか

朝日新聞に連載されている伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」。
こんかいは、東京に雪がふった朝について。
めったにふらない雪でしろくなった朝、
近所のけしきがいつもとはかわってくる。
いつもだと、たとえみかけても、
どこの家の子だろうと謎だった中高生が
家族といっしょにでてくれば すぐにわかる。
雪かきをしてくれてるおじさんが
「昔、自衛隊にいてこんなことしょちゅうやってたんだけど」
と、ひとりごとみたいに おしえてくれたり、
トラックを誘導するおじさんが、
英語で鼻歌をうたっていたり。
「もしかしていい朝だったかも」
と、伊藤さんはかんじはじめる。
たしかに、いつもとちがう、いい朝っぽい。

わたしがすむ町も、こんしゅうは雪がつもり、
いつもとはちがう朝になった。
ただ、東京の雪ほどめずらしくはないので、
通勤・通学をじゃまするめんどくさい雪、
というとらえ方のほうがつよいかもしれない。
雪がつもると、いつもとちがう顔ぶれをみる新鮮さよりも、
いつもであえるひとをみかけないさみしい朝となる。

わたしが朝あるいて職場にむかう時間に、
よく3人組の男子高校生とすれちがうのだけど、
そのなかのふたりがかならず「おはようございます」と
おおきな声であいさつしてくれる。
わたしから「おはようございます」をいうことはなく、
いつも いわれてからの返事となり、
人間として 彼らのほうがしっかりしているといつもおもう。
ふつうの高校生は、みしらぬおじさんに
「おはようございます」をいわないとおもうのに、
なんで彼らはわたしにあいさつしてくれるのだろう。

ひとつには、わたしがあいさつしやすい顔をしているのではないか。
彼らにかぎらず、部活がえりの女子中学生が
「こんにちは」といってくれることが ときどきある。
もっとも、「あいさつしやすい顔」が
どんな顔なのか、本人であるわたしにもよくわからない。
あいさつしてあげないと かわいそうなぐらい
くらい顔つきなのかもしれない。
ふみきりをわたろうとするとき、わかい女性から、
「おはようございます」といわれたこともある。
こんなきれいな女性がしりあいにいたっけ?と
うれしくなっていたら、
通学する生徒たちをみまもっている先生だと
あとで気づいた。
自意識過剰なおじさんは、
わかい世代が声をかけやすいのかもしれない。

posted by カルピス at 20:14 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

『ひとり上手な結婚』(山本文緒:文・伊藤理佐:漫画・講談社文庫)

『ひとり上手な結婚』(山本文緒:文・伊藤理佐:漫画・講談社文庫)

山本文緒さんと伊藤理佐さんが、
結婚をまえになやむ わかい男女からの相談にこたえていく。
おふたりとも、わたしがすきな表現者だ。
たまたまこの企画でいっしょになったのではなく、
まえからなかがよかったみたい。
わたしがすきなひとどうしが、
おたがいにみとめあう関係だというのがうれしい。

「トイレの跳ねが耐えられない!」など、
よせられる相談はさまざまだ。
回答する側は、ふたりで相談してからこたえるのではなく、
質問によっては、ちがう方針のアドバイスとなるときもある。
おふたりとも、しっかりした生活者であり、
地獄をみてきたひとなので、ぬるいアドバイスなどおくらない。
まっとうに生きていくうえで必要な、
きびしい(ときにはつめたい)意見をきかせてくれる。

「猫を飼いたい」という 女性からの質問があった。
ネコをかいたいけど、結婚するかもしれない あいての男性は、
「世話ができない」
「動物と一緒に住むなんて信じられない」など、
まるでその気がない、というなやみだ。

伊藤さんは現実にネコとくらしているので、
当然ネコ側にたったアドバイスをおくるかとおもっていたら、
原理原則をおさえた きびしいかんがえをのべている。
ネコや犬はペットであり、家族ではない、
というのが伊藤さんの基本方針だ。
よくある「崖話」では
知らない人間とうちの猫だったら
そのひとが「うちの親 殺した」とかじゃないかぎり
人間の方 助けます

猫・・・しかも「まだいない猫」が
人間・・・しかも「今の彼氏」より
大事なはずが ありましぇん

そのあと、
「猫問題」じゃなくて「彼氏問題」では?
と喝破しているのがさすがだ。

ネコは動物であり、人間の命のほうがとうといにきまっている。
どちらか一方しかたすけられない場合、
人間をえらぶのが当然だ。
と、知識としては理解しているつもりでも、
じっさいに そんな場面にでくわしたら、
おそらくわたしは とっさにうごけない。
「ちょっとまってね」と、時間をかせいで
ネコがたすかる道を、なんとかして さがそうとするだろう。
伊藤さんを「しっかりした生活者」というのはこういう点だ。
やっていいことと わるいことが はっきりしている。

ネコとくらせないような男と いっしょになる必要はない、と
わたしならこたえるだろう。
ネコが万事であり、相性がわるいのだから、
いまのうちにわかれたほうがおたがいのためだ。
人間なんだから、なんとか自分で崖からはいあがりなさい。
「猫問題」ではなくて「彼氏問題」、
という伊藤さんのみたてが、きっとただしい。

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2017年11月03日

伊藤理佐さんの「わたしまできたら売れっ子」に共感する

ひいきにしている伊藤理佐さんの連載
「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)。
今回はハロウィーンがテーマだ。
オバケがお菓子をとどけてくれる、でも、
かぼちゃをたべる、でもない。
しってるようで、よくわからないハロウィーンって、なんだ。
伊藤さんによると、
「わたしまできたら売れっ子」
フッ。えらそうだが。わたしが耳にするくらいになったら、その芸人さんはもう売れっ子だ。ここまで来い。

この心理は、わたしにもおもいあたる。
ただし、「ここまで来い」とまで、つよ気にはなれない。
どちらかといえば、わたしがかってにすりよっている。
すでに人気がでているものについて、
わたしは「いいなー」とおもうようだ。
すこしまえの例では、ラグビーの日本代表だったり、
「あまちゃん」だったりする。
ようするに、ミーハーなのだろう。

伊藤さんの関係者では、
長野にすむご両親まで ハロウィーンがきたというのだから、
文句なしに社会現象といえるだろう。
わたしの母は、伊藤さんのご両親よりも高齢なせいか、
なにかあたらしいうごきにたいしては、ほとんど関心をしめさない。
携帯電話(ガラケー)を、つかう気はぜんぜんないし、
ファッションも完全にあきらめている。
たのしみは日曜日の大河ドラマと、朝の連続テレビ小説だ。

ただ、健康法については
もういつ死んでもいい、といいながら、
たべものや運動をいろいろためしている。
よみかけの本を、わたしが机にのせていたら、
低炭水化物食やMEC食の本には すかさず関心をしめした。
母になにかあれば、介護がたいへんなので、
わたしとしても、げんきでいてくれるほうがありがたい。
納豆とヨーグルトをかかさないし、
まえはごぼう茶を自分でつくっていた。
老人も魚より肉を、ときいてからは、
肉食の老女となっている。
なが生きと健康は、すべてのひとがのぞむぼんのうなので、
はやりとはべつにとらえたほうがいいみたいだ。

わたしの母までハロウィーンがきたら、
もはや流行のレベルではなく、革命というべきだろう。
世のなかが平和であるためにも、
母にはハロウィーンからとおい存在であってほしい。

posted by カルピス at 17:35 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

伊藤理佐さんの「鰻、全力応援!」が かっこいい

伊藤理佐さんが朝日新聞に連載中のコラム
「オトナになった女子たちへ」がいつもながらおかしい。
きょうは、ウナギを応援するはなし。
「鰻、全力応援!」だ。
 我が家では「鰻」を応援している。「がんばれ!」と思っている。(中略)ヨシダサン(伊藤さんのオット)と話し合った結果、うちは「安い鰻を食べない」という応援の仕方になった。「鰻屋さん」も応援することにした。「高いけど、たまに、鰻を、鰻屋さんで食べる」という方針だ。

挿絵は、伊藤さんとヨシダサンがビールをプハーッとやりながら
ウナギをつついており、「こう見えても 応援中・・・」とある。
食事とか、エネルギーの摂取としてではなく、
応援と位置づけるやり方があったのだ。
スーパーにならんでいるウナギをみると、
とんでもない値段についグチをいいたくなるけど、
そして けっきょくとてもじゃないけど かえないのだけど、
応援だったら、たかいからといって みすてるわけにはいかない。
「全力応援!」するしかない。
まったく、目のつけどころがすばらしい。
伊藤さんにかかると、日常生活はあそびにみちている。

わたしはなにかに確信をもって応援しているだろうか。
「鷹の爪」をだいすきだというわりに、
壁かけカレンダーすら かわずにすませるし、
サッカーの日本代表を応援していながら、グッズひとつもってない。
応援は、無償の行為であり、
応援したからといって、直接のみかえりはもとめない。
勝利がみかえりのようにおもえるけど、
ことがそれほど単純なら サポーターに苦労などない。
応援しているチームが、かつこともあれば、まけるときもある。
まけたからといって 応援をやめるようなら、
それは「応援」とよばない。
応援は、いわば究極のペイ=フォワードだ。

東京にすむ 義理の兄は、
松江にくるたび 老舗の鰻屋さんをかならずたずねる。
わたしにすれば、ものすごくたかいウナギ料理だけど、
東京からわざわざくるのだから、
旅費や滞在費をかんがえると、
すこしぐらい(すこしじゃないけど)ウナギ代がかかるといって、
スーパーの中国産ウナギで我慢するのは たしかにまちがっている。
義理の兄がしてるのは、伊藤理佐さんとおなじ
「全力応援!」だとおもえば、ものすごくふにおちる。
配偶者の実家があるからといって、毎年わざわざかえってくるよりも、
べつの町へ旅行すればいいのにと、不思議におもっていたけど、
ウナギの応援なのだから、義理の兄がえらんだスタイルは、
正統派の応援者として、まったくただしい。

伊藤家のすばらしいところは、
個人のこのみとしてではなく、
「ヨシダサンと話し合った結果」
我が家の方針をさだめたところにある。
ふたりによる熟慮のうえだから、ただ「すきだから」よりも、
採択のおもみが ぜんぜんちがう。
ひとりでの応援がまちがっているわけではないけど、
その一段うえをいくあそび方にわたしはしびれる。
たとえビールをプハーッとやりながらの応援でも、
いかにも高段者の生活者として 伊東家がかっこよくみえる。

posted by カルピス at 09:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする