2017年06月07日

伊藤理佐さんの「お土産 やめました」がうまい

朝日新聞に連載ちゅうの伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今回は、おみやげをかわなくなったはなしだ。
今、わたしの軒下には
「冷やし中華 はじめました」的に、
「お土産 やめました」
が、風に吹かれているのだった。はためいている。旅行で、お土産を探すのをやめた。(中略)
旅先で「義理」を考えないのがとても気持ちいいのだった。

そんなある日、伊藤さんは
「もらってもあげてもなんのプレッシャーもない」
粋なおみやげをオトナ女子の友人からもらうのだけど、
それはまたべつのはなし。
ここでは軒下でゆれる旗についてかく。
「冷やし中華 はじめました」的に
がうまい。
ちょっとしたニュースをさりげなくしらせる効果は、
たしかに「冷やし中華」の旗がぬきんでている。
「いかがですか?」ではなく、
「はじめました」といってるだけなのに、
旗をみたひとは、「じゃあたべてみるか」と
なんらかの反応をしめしたくなる。

わたしもなにか適切な「おしらせ」がしたくなった。
すぐにおもいついたのが、
「人生、半分おりてます」
だけど、これはちょっと旗がおおきすぎる。
冷やし中華サイズの旗にかぎるとして、
わたしはどんな旗を
軒下にひらめかせられるだろう。

わたしの場合「お土産 やめました」というより、
「お土産 やめてます」のほうが正確だ。
「おみやげかわない主義者」であると職場で宣言し、
研修にださせてもらっても、
個人で旅行にいったときも、
基本的におみやげをもちかえらない。
研修は、いそがしいなか、
事業所のお金でいかせてもらうのだから、
感謝の気もちとして おみやげを職場にもちかえるのが
社会人としての「常識」なのだろうけど、かわない。
かわなければ、あんがいなんとかなるもので、
とくにいやなおもいをしたことはない。

そうはいっても、伊藤さんが「お土産 やめました」
の旗をかかげたくなる気もちはわかる。
なにもおしらせなしに おみやげをかわないと、
職場や世間にかなり義理をかいてしまいそうだ。
そんなときに、冷やし中華的な旗が
方針の変更をつたえるのにピッタリくる。
玄関にはる「セールスおことわり」では、
一方的な宣告であり、うるおいがない。
冷やし中華の旗をひっぱりだしてきた
伊藤さんの観察力をたかく評価したい。

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2017年05月07日

伊藤理佐さんの「あやしいパスポート」がうまい

朝日新聞に連載されている伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今週は「あやしいパスポート」。
中年男性がもっていた井の頭自然文化園の年間パスポートを、
「それは、飲み屋で隣の女子を口説く道具だな!」と
とっさにみぬくはなしだ。
たしかに文化園の年間パスポートなんていわれると、
いいひとっぽいじゃないですか。いい人だけど。なんか女子、油断するじゃないですか。まあ、油断したいわけだけど。そしてなんかデートに誘いやすいし、誘われやすいじゃないですか。

オチは、「あやしいパスポート」をもってるのは、
じつは自分だった、というのだけど、
いつもながら ほんとにうまい。
「油断したいわけだけど」が参考になる。

このまえセブ島へ旅行にいったとき、もっていたら安心なので、
予備の写真(パスポートサイズ)を用意した。
このごろコンビニやスーパーなどに、
やたらと証明写真をとる機械がおかれており、
4枚が800円くらいでとれる。
予備の写真なので、どうでもいいやと テキトーに操作をすすめた。
でも、できあがった写真をみると、ほんとうにひどかった。
わたしは、自分の顔がそんなにうつくしいとはおもっていないけど、
こんなに夢も希望もないような おやじ顔だったとは。
ひどいけど、うつっているのはたしかにわたしだ。
ときどき鏡にうつる自分の顔が、ひどくふけてみえることがあり、
寝不足なのだろうか、とか、鏡の調子がわるいのだろう、とか
自分をなぐさめていたけれど、あれがほんとうの自分の顔だったのだ。
あんな写真を文化圏の年間パスポートにはったら、
いかに小道具としてはすぐれていても、
みせた女性はさっとひいてしまうにきまっている。

きのうよんだ山本文緒さんの「ソリチュード」には、
自分ではダメ男といいながら、やたらにもてる男がでてくる。
相手のいうことを、すべてうけいれるのが大事らしく、
年上から小学生の女の子まで、かんたんに女性となかよくなる。
最終的には「つまんない男」と判断されるわけだけど、
当面ごまかせればいいわけで うらやましいはなしだ。
手ぎわよく料理するし、ゲームセンターであそんだりと、
マメにつきあってくれるのが 女性にはたまらないみたいだ。
写真ではどうにもごまかせそうにないので、
わたしには、 「ソリチュード」のダメ男のように、
相手のすべてをうけいれ 女性の気をひくしかない。
わたしもバッチリかっこよくうつっている
「あやしいパスポート」がほしい。

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2017年03月29日

伊藤理佐さんによる日常生活の冒険

毎週金曜日の朝日新聞に、
「オトナになった女子たちへ」のコラムがあり、
伊藤理佐さんと益田ミリさんが交代で記事をかいている。
まえはちがう曜日で、べつのひともまじえた企画だったとおもうけど、
正確な記憶はない。
とにかく、いまは伊藤さんと益田さんのふたりによるコーナーであり、
伊藤理佐さんの回をわたしはたのしみにしている。
とかくと、益田さんのはどうでもいいみたいだけど、
とくにそうした意味はなく、「どちらかというと」というはなしだ。
しかし、おふたりにとったら、どちらに人気があるかは
たいへん気になるところだろう。
たとえ「どちらかというと」のレベルにしても、
自分の記事のほうが「どちらかというと」
よまれてほしいとねがうのは当然だ。

益田さんは、ときどき伊藤さんへのライバル心をちらつかせる。
気になってしかたがないと、正直に胸のうちをあかされる。
伊藤さんは、そうした益田さんへの返答として、
「会わなくてもわかるひと」を先週かいている。
会おうと思えば会えるけど会わなくてもいい人。会ったら楽しいだろうなあ、でも会わなくてもわかる、というか。いつかどこかで会えると、なぜか思っていて、親戚の集まりで「あの人も来るよ」と聞くとホットするような。でも連絡先は知らないみたいな。

それが益田ミリさんなのだそうだ。うまい。
伊藤さんだって、益田さんへのおもいがあるだろうに、
こんなふうにかけるのは 生活者としての
ゆたかな経験をかんじさせる。

かぞえてみると、わたしは伊藤理佐さんの記事を
この3年間でエバーノートに43とっている。
マンガ家としてよりも、おもしろいエッセイとして、
目のつけどころにいつも感心してきた。
身のまわりでおきた なんでもなさそうなことが話題だ。
伊藤さんがはなしをすすめるうちに、
裏にかくされていた ふかい意味にようやく気づく。
人生は、たとえささやかなできごとでも
みかたをかえれば含蓄にみちている。

たとえば、「雪の朝、私は艦長になった」は、
日常生活にとつぜんおとずれる緊張がテーマだ。
雪がつもった日の朝、幼稚園からはおやすみのメールがとどかない。
幼稚園は、やる気だ。
先生たちの「幼稚園、やります」を裏切れない、と思った時には、地球を出発するヤマトの船員のようになってしまった。(中略)
・・・と、このようにですね、雪が降ると刑事っぽくなって、ボスになって艦長になって、船員になってしまう。

ご自分でかかれたさしえには、
防寒着に身をかためた親子とすれちがう伊藤さんが、
雪とたたかう同士として
キリッとあいさつをかわす場面がえがかれている。
雪をイベントにしてしまう きりだしかたが、
雪の朝あるあるで、すごくたのしい。

宮ア駿さんが、作品にとりあげるのは
身のまわり3メートルの範囲でおきたできごと、
となにかでかたっていた。
伊藤さんのエッセイも そんなかんじ。
おおきな問題はあつかわれない。
目のまえでおきている ささやかなあれやこれにも
とりあげかたによって こんな味がかくされていたとは。
ゆるい人間をよそおいながら、伊藤さんは人生の高段者であり、
どんなものでも行間をふかくよみ、
裏にかくされた秘密をあきらかにする。

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2016年12月02日

伊藤理佐が気づいた おばさん化の完成

けさ朝日新聞にのった伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」がすばらしかった。
今、自分の中で
「今やらなくてもいい、ちょっとしたことをやっておく」
が、はやっている。(中略)
大きなラクじゃなくて、小さなラク。たとえば、「履いていく靴を出しておく」みたいなことだ。

いい習慣がついたのだな、と感心してよんでいると、
「ちゃんとしたおばさんになった」というオチがまっている。
さきまわりしてラクをしたがるのは、
かしこくなったというよりも おばさんへの道であり、
ゆくゆくはおばさん化の完成へとつながっていく。
わたしは昔、履く靴も決めないで、早朝、海外にでかけて靴ずれしていた。若いってすごい。でも、そんな頃に戻りたくない。

わかいころは しらないことだらけだ。
なにもしらないからできるし、
なにもしらなくてもこわくない。
それがわかさの特徴であり 特権ともいえる。
わたしにもおぼえがある。
わかいころは さきの心配なんてしないので、
かんたんに仕事をやめた。
なんとかなるだろうとおもっていたし、
たしかになんとかなった。
なんとかなったけど、「わかくてよかった」と
かんたんにはいいきれない。
伊藤さんは「そんな頃に戻りたくない」そうだ。

伊藤さんの記事をよんで気になってきたのは、
おばさんの完成を40代にむかえるのだとしたら、
「老人になった」と気づくのは、
どんな習慣を身につけたときだろう。
老人といっても幅がひろいので、
うっかりしていると、どっぷり老人になっていながら
自分はまだ「おじさん」なのだと
ごまかしてしまうかもしれない。
前期高齢者のうちから、用心しておいたほうがいいような気がする。
わたしが自覚している変化としては、
このごろくつしたをはくのに
無意識で壁によりかかっている。
1500メートルをおよぐと、まえよりも2分おそくなった。
そうした、目にみえる変化だけではなく、
ちいさなラクをするために
なにかさきまわりをするように なっていないだろうか。
それらの工夫を、老化の信号ではなくて、
生活の知恵の獲得とおもいこんでいるのなら いたい。

伊藤さんが「そんな頃に戻りたくない」という裏には、
「ちゃんとしたおばさんになった」ほこりがある。
年齢をかさねただけではなく、さきまわりして、
ちいさなラクをするテクニックも身につけた。
そうなれた自分は、
お金をつまれてもわかいころにもどりたくないほど、
「ちゃんとしたおばさん」なのであり、
伊藤さんは 「ちゃんとしたおばさん」になれた自信がある。
わかさにしがみつきなひとがおおいなかで、
伊藤さんの自覚は すこしさきをいっている。
それができるのも、ちゃんとしたおばさんだからだ。

posted by カルピス at 20:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

がんばらないように、がんばる

土曜日の朝日新聞に、
「オトナになった女子たちへ」というコラムがあり、
伊藤理佐さんと益田ミリさんが
交代で記事をよせている。
きのうは伊藤さんの番で、
タイトルは「がんばっちゃった」。

がんばるべきときに「がんばった」のではなく、
がんばってはならないのに「がんばっ」てしまったはなしだ。
がんばらないように「がんばる」には、どうしたらいのか。

これでは いったいなんのことだか
わからないだろう。
もうすこしくわしく説明すると、
伊藤さんは子どものためにお弁当をつくっており、
夫であるヨシダサンが
あまったおかずや、子どもがのこした朝ごはんを
ちいさなタッパーにつめようと 公園のハトがエサをねだるみたいに
(「ハトな仕草」とかいてある)
伊藤さんのすぐうしろでまっているそうだ。

おかずのきれはしを、ごはんのうえに
ぞんざいにならべるだけなのに、
ちいさないれもののせいか、すごくかわいくみえるという。
ツイッターでも評判になるほどで、
伊藤さんがそのタッパーを、しりあいにもみせようとしたら、
ヨシダサンがおもわずがんばってしまい
フツーのお弁当にすぎなくなってしまった。
ミニチュア感を出していた米粒が、そぼろたっぷりで見えていない。そぼろには手間感があって残り物感ゼロ。「喜ばしたい」が入っているのに「できることをできるだけしない」がなくなってて、この「ちゃんとしててつまらない」って、なんだろう・・・。

「次回はがんばらないように、がんばります」
がシメになっている。

わたしの存在が世のなかでいかされる場面があるとしたら、
この「できることをできるだけしない」だとおもった。
ちゃんとしたらつまらなくなるものが たしかにある。
あってほしい。
本気度のたりないわたしは、
「ちゃんと本気でやれよ」という雰囲気をかんじると、
いっぺんいしおれてしまう。
テキトーにやってこそ うかぶ瀬もあるのだ。
わたしに気をつけられるのは、
「がんばらないように、がんばる」しかない。

posted by カルピス at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする