2018年02月12日

『地下室のメロディー』犯罪映画の傑作

『地下室のメロディー』
(アンリ=ヴェルヌイユ:監督・1963年・フランス)

いまさらながらだけど、
はじめて『地下室のメロディー』をみる。
圧倒的におもしろい。
ゴージャスな音楽にのって、
テンポよくストーリーがすすむ。
色気なし。
はでなアクションやカーチェイスもない。
純粋に、ハラハラ・ドキドキだけでひっぱる、
サイコーにいかした作品だ。
以下、ネタバレあり。

5年のつとめをおえ、シャルル(ジャン=ギャバン)は
パリ郊外にある家にもどる。
奥さんは、彼のかえりをまっていて、
これからはホテルの経営でもして、
かたぎにくらしくらそうともちかける。
でも、シャルルはまじめにコツコツ生きようなんて、
すこしもおもってない。
ムショをでたその日から、つぎの仕事をねらっている。

ふつうの映画なら、
ムショからでた銀行やぶりなんかを、
むかしの仲間がもうこれでさいごだからと
いやがってるのにむりやりさそうのが
よくあるパターンだけど、
『地下室のメロディー』はぜんぜんちがう。
ムショからでたその日に、
シャルルはもうつぎの仕事のことをかんがえている。

カンヌのカジノが標的だ。
週末の金庫には、10億フランがねむっている。
でかい仕事なので、仲間が必要になる。
シャルルはムショでしりあった
フランシス(アラン=ドロン)をさそう。
カジノの設計図を手にいれ、
大胆な計画をシャルルはたてていた。

作戦は予定どおりに うまくすすむ。
まんまと金庫にはいりこんだシャルルは、
棚におさまっている札束を、
ひとつのこらずていねいにカバンへおとしていく。
いそいでいるからといって、
ガバーッと雑な仕事をするようでは
りっぱな金庫やぶりにはなれない。
あせらずあわてず、おちつきはらって、
きっちりと札束をカバンにいれる場面にゾクゾクする。
仕事をおえたシャルルとフランシスは、
カバンふたつにおさめた札束を、
いったんべつの場所にかくしておく。

しかし、カジノの経営者に、
ふたつのカバンをしっかりみられていた。
警察はカバンの特徴をききだし、捜査をすすめようとする。
カバンをもちだそうとしていたフランシスは、
この会話をきき、札束のつまったカバンが、
いまや安全でないのをしった。
警察はフランシスのまわりにウジャウジャいて、
いまにもカバンを目にされそうだ。
フランシスは、とりあえず、プールにカバンをしずめて、
さわぎがおさまってから とりにもどろうとする。
あれだけカバンのはなしをされたら
(「カバンをみたらわかりますか?」
 「もちろんです」
 みたいな)
フランシスでなくても どこかへかくしたくなるだろう。
とりあえず、プールにしずめるのは、
いいアイデアだとおもったけど・・・。

ラストのきりあげかたがうまい。
もうすこしでうまくいったのに。
みおわったあと、血がさわいだ。
まだわかいアラン=ドロンがいい味をだしている。
行儀のわるさ、下品さがうまい。
顔だけでなく、スタイルもいい。
いまのハリウッド俳優は、
筋肉をとくいげにみせびらかすけど、
この作品でのアラン=ドロンは、
ほっそりとひきしまったからだがきれいだ。

この作品の教訓はふたつある。
カジノや銀行にしのびこむなら、
めだたないカバンを用意すること。
もうひとつ。
カバンのチャックはしっかりとめたほうがいい。

posted by カルピス at 16:42 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

そこそこ本ずきの中年男性が、2月11日にどんな本をかったか

仕事からのかえりに本屋さんへいったら、
よみたい本がつぎつぎと目にはいった。
こんな日はめずらしいので、
なにをかったのか かいておきたくなった。

・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
・『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
・『文藝春秋 三月特別号』

6冊で5000円弱だった。
だんだん逆上してきて、いくらでもかいたい本がでてくる。
今夜もっていたお金が5000円しかなかったのは、
よかったのか、わるかったのか。
本をながめながら ほしい本をさがすたのしさは、
本屋さん、つまり、紙の本でないと味わえない。

・『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子・新潮文庫)
しりあいがすすめてくれた本で、
まえからさがそうとして、検索にもかけたけど、
みつからなかったのに、きょうは本棚をながめていたら、
本のほうで わたしにアピールしていたかんじ。

『オンブレ』(エルモア=レナード・新潮文庫)
まえにエルモア=レナードの『キルショット』をよんだら、
まずまずおもしろかったので。
それに、なによりも村上春樹さんの訳だ。
村上さんがなんでレナードの本を訳す気になったのだろう。

・『三人屋』(原田ひ香・実業之日本社文庫)
原田ひ香さんのうまさには、いちもくおいている。
どの作品でも、あたらしいきりくちでかたる。
はずれがない作家だ。

・『本の雑誌 3月号』(本の雑誌社)
毎月かかさずかっている本(雑誌ではないそうだ)。
「本屋さんになろう!」の特集がおもしろそう。

・『不死身の特攻兵』(鴻上尚史・講談社現代新書)
特攻兵は、出撃すればかならず死ぬとおもっていたけど、
9回も特攻して いきているとはどういうことなのか。

・『文藝春秋 三月特別号』
芥川賞を受賞した二作が全文掲載されているというので。
『百年泥』は、けさの朝日新聞で、
斎藤美奈子さんが書評をかいていた。
『おらおらでひとりいぐも』も、よみたいとおもっていた。
二作ともよめて980円ならお得だし。
もっとも、芥川賞の受賞作をのせる特別号をかったのは
はじめてだ。

1冊もかわずに店をでる日だってあるのに、
ときにはきょうみたいな日もある。
文庫と新書が中心なのは、貧乏性のわたしらしい。
夜はまだたっぷりのこっているし、あすはやすみだ。
本の神さまにみちびかれたようで、
しあわせな2月11日として記憶にのこるだろう。
よみたい本がつぎつぎにみつかったのは、
きびしい冬がもうすぐおわり、
あたたかな春がくるきざしかもしれない。

posted by カルピス at 20:21 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

サンチャゴ巡礼にうごきだしたわたしの師匠

わたしがあるくのをすきになったのは、
師匠としてあがめている ある女性の影響だ。
きのうはひさしぶりに彼女とおしゃべりした。
きょねんあったときに、
サンチャゴ=デ=コンポステーラ巡礼を話題にだしたら
彼女はつよい関心をしめし、あとからネットでしらべたという。
で、きのうまたサンチャゴ巡礼についてたずねたら、
こんどの5月にいこうとおもう、というからおどろいた。
すごくうごきがはやい。

2ヶ月で1600キロをあるくという、
サンチャゴ巡礼の魅力はたしかにあるけど、
けしてそれだけではなく、
きょねんの秋に、仕事がちょうどひとくぎりついたと
自分で納得できたのがおおきかったという。
それから職場にやめるはなしをなんどもだして
さいきんやっと了解までこぎつけたそうだ。

わたしは話題としてあちこちで
サンチャゴ巡礼のはなしをするけど、
まだまだ漠然とした予定でしかない。
むすこへのしおくりがあと2年、
そして旅行資金をためるために1年はたらくとして、
はやくても出発は3年さきになるとかんがえている。
そんなノロノロとしたわたしなんかとちがい、
彼女はさっさと行動にうつしていく。

クツやリュックはもうめぼしをつけているという。
雨の日にあるく場面を想像すると、
どんなクツにするのかはすごくだいじだ。
リュックのサイズをたずねたら、
30リットルにおさまる荷物におさめるそうだ。
サンチャゴ巡礼の写真をみると、
もっとおおきなリュックをせおったひとがおおい。
それを30リットルにおさえようとすると、
かなり禁欲的な選択が必要になるだろう。
わたしだったら、パソコンと電子書籍末端、それにスマホと、
ずるずると荷物がふえるだろうけど、
彼女は基本的にそうした器具はつかわないひとなので、
30リットルにおさめるパッキングができるのだろう。

旅行はかんがえたらできないと、宮田珠己さんがかいている。
何のために、なんて考えていると、旅はいつまでたっても始まらない。意味を考える前に計画をたて、結論が出る前に出発してしまう。これが大切である。『だいたい四国八十八ヶ所』(宮田珠己・本の雑誌社)

かんがえていると、ほんとうに いつまでたっても出発できない。
あとのこと、さきのこと、将来のことは とりあえずほっておく。
彼女は老後のことなんて心配していない。
手にするお金の範囲でくらしていけばいいとおもってます、
と彼女はいった。
あるくだけでなく、彼女は人生の師匠でもある。

posted by カルピス at 17:10 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月09日

わたしのなかの教養主義な傾向

週に1本は映画をみたいなとか、
月に3冊は本をよまなければとか、
できるだけインプットにつとめようとおもっている。
でも、かんがえてみれば、なんのためだっけ。

つきつめてみれば、ものすごく漠然とした状況設定だけど、
わたしのまえに魅力的なひとがあらわれたとき、
頭からっぽでは、あいてにしてもらえないから、
が動機のかなりの部分をしめている。
そのひとに値するだけの、
内容をともなった人間でありたい。
冗談ではなくて、わりと本気でそうおもいこんでいた。
何歳になっても可能性がゼロになるわけではないけど、
いまとなってはほとんどありえない状況だ。

だったら映画や本はもういいか、とはならないので、
けして魅力的な女性だけのためではなく、
まともな人間として、みたいな教養主義的な傾向が
わたしのなかにあるのかもしれない。
生きているかぎり、最低限こなさなければならない
義務みたいなものだ。
そうやって、どう生きてきたかが、
わたしという人間の総力であるわけで、
あたりまえのことだけど、
一日いちにち 手をぬかずに、おくりつづけるしかない。

「夜廻り猫」をよんでいたら、
歩道橋のうえでさみしそうな顔をしているわかい男に
遠藤さんがはなしかけている。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/370
もし そこな
飲めない酒を飲んだ感じのおまいさん
泣いておるな? 心で

若者は、「寂しい 誰か欲しい」という。
親友か?友達か?と遠藤さんがたずねると、
そこまで高望みしてないよ
かかわれる人が欲しい
話しかけても良い相手
怖がらなくていい相手
一緒に笑うみたいな

と若者はこたえる。

それぐらいの「誰か」は
どこにでもいそうだけど、
遠藤さんは
「もっともだ そういう相手 ほしいよなあ」
と若者のこころによりそっている。
しっかりしろ、それぐらいの相手どこにでもいると、
はげましたり けしかけたりするのではなく、
よりそえるのが遠藤さんのすばらしさだ。
「じゃあ わたしが」
とならないところもいい。
遠藤さんは、これまでに どんな時間をすごしてきたのだろう。

posted by カルピス at 15:58 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月08日

瀬古さんの「選手を政治に巻き込むな」への違和感

けさの朝日新聞に、「ロシアのいない五輪」の題で、
ロシアが参加しない大会となる
平昌オリンピックをとりあげていた。
そのなかで、瀬古利彦さんが
「選手を政治に巻き込むな」として、
みずからの体験をかたっている。
瀬古さんは、ご自身が選手としてピークにあったモスクワ五輪を、
日本オリンピック委員会がボイコットしたために、参加できなかった。
もちろんマラソンの代表だった瀬古さんだけでなく、
すべての種目において日本はボイコットをきめたのであり、
柔道の山下選手が、なきながら
スポーツに政治をもちこまないでほしい、
とうったえていた姿をおぼえている。

その後、何年かのちに、
スポーツ社会学の本をよむようになったわたしは、
スポーツが政治ときりはなせるわけがない、
という視点をもつようになった。
普及や強化の方針は、そのときの政治と
けして別々に存在したりしない。
ヒトラーのひらいたベルリン・オリンピックが、
ナチス・ドイツの宣伝として 最大限の効果を発揮したように。

けさの記事で瀬古さんは、
今後、日本で政治絡みの騒動がないことを願うばかりです。もし起きたら、そうした動きには体をはって反対します。

とうったえている。
「願う」だけでは あまりにも弱々しくないか。
瀬古さんは、ボイコットがおきた場合、
スポーツ選手が被害者であると とらえられているけど、
かわいそうな被害者というのなら、
1980年の山下選手のころから なにもかわっていない。
国のうごきに影響をあたえるような
主体的な活動に期待したい。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

島根にはスーパー銭湯がありません

『東南アジア紀行』(中央公論文庫)で、
梅棹忠夫さんたちの調査隊は、
タイ北部のファーンにある温泉をたずねている。
ゆたかな湯のわきでる温泉があるのに、
なんの設備もほどこされていないと 梅棹さんはおどろいている。
わたしは日本のことを思った。日本で、これだけ湧出量の豊富な泉源が発見されたら、えらいことになるところだ。いまごろは、このあたりいちめんに旅館やら芸者屋やらができているところだ。しかし、ここには一軒の家もない。まわりの原始林は、静まりかえって音もない。この国では、これだけの資源をもちながら、ほとんど利用しようともしていないのである。『東南アジア紀行(上)』p248

わたしがファーンの温泉へいったのは、
梅棹さんたちの旅行から60年ちかくたっていたので、
さすがに立派な入浴施設ができていた。
ただ、どうしても浴場がプールみたいになるようで、
日本のような温泉気分は味わえない。
温泉は世界じゅうにあるのに、
日本のようにたのしんでいる国はないらしい。

冬のさむい夜、お風呂につかってあたたまるよろこびは、
なにごとにもかえられない。
ことしの冬みたいにさむい日がつづくと、
お風呂なしでほかの国はよくやってられるなとおもう。
タイで日本風の温泉が発達しないのは、
冬のさむさがないためだろうか。
タイを旅行したとき、これまで3つの温泉にいったけど、
プールみたいなお風呂か、
個室でも、熱湯をバスタブにそそぎいれるタイプで、
温泉からイメージされるやわらかさからはほどとおい。
あつければいいんだろ、みたいな猛々しさをかんじた。
もうひとつは、パーイでいった温泉のように、
温泉がわきでる池を、自然公園として
そのままのこしているタイプだ。
梅棹さんがファーンで体験した温泉も
こんなかんじだったのだろう。
ただの池なので、快適な入浴とはいえず、
それなのに入園料として
300バーツ(1000円ちょっと)もとられた。

なぜ日本だけで温泉が発達したのだろう。
それをテーマにしたのが
ヤマザキマリさんの『テルマエ・ロマエ』なのだろう。
日本人のわたしからみると、
いかにローマ帝国がさかえていたといっても、
温泉については日本式のほうがずっと気もちよくすごせる。
わたしはモロッコでハマムとよばれる風呂にいったことがある。
うすぐらいむし風呂で、めずらしい体験ではあったけど、
日本のお風呂とはくらべものにならない。
ローマ帝国の風呂も、基本的には
ハマムをおおきくしたようなものではないか。

クールジャパンで温泉をとりあげたとき、
スーパー銭湯がすごくたのしそうだ。
まえに県外の友だちとはなしていて、
「スーパー銭湯」といわれても、
わたしはなんのことはわからなかった。
むこうははなしがつうじず、じれったがっている。
島根には、スーパー銭湯がないので、
わたしが理解できなかったのは無理もない。
島根には、温泉がたくさんありすぎて、
スーパー銭湯なんて必要ないのだ きっと。

ソウルではいった入浴施設が
いまおもえばスーパー銭湯みたいだった。
サウナみたいなむし風呂や、
ただのあったかい部屋にしかおもえない空間など、
いくつかの「お風呂」があり、
体操服みたいな服にきがえるので、
男女がいっしょにお風呂ですごせる。
すっぱだかの日本式もいいけど、
ソウルみたいに服をきるお風呂も
それはそれでたのしめた。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月06日

「北斗の拳」だけよめる電子末端は すばらしいアイデアだ

けさの朝日新聞に、
「『北斗の拳』だけ読める電子版」
の記事がのった。
この末端は、ネットにつなげられない。
よめるのは、「北斗の拳」だけと
機能をしぼったところがミソだ。

わたしはだいぶまえのブログに、
村上春樹作品をあつめた末端がでないだろうか、
とかいたことがある。
この場合は、村上春樹作品だけ、ではなく、
ほかの本をダウンロードする機能もあるわけだけど、
今回こころみられたのは、
くどいようだけど、「北斗の拳」だけよめる末端だ。
すばらしいアイデアだとおもった。
紙の本と、電子末端のいいとこどりが、
こんな形で実現するなんて。
おもしろいことをかんがえるひとがいるものだ。
電子末端は、ほかにも いろんな形でのすみわけが 期待できる。

開発したベンチャー企業によると、
「電子末端が進化しすぎて紙で読みたい人にマッチしていない」
とかんじたことから この商品をつくったのだという。
たしかに、わたしのまわりにも、
いまだに電子末端をもっているひとはおらず、
これはまあ、本をよまないひとがおおいからかもしれないけど、
本がすきなしりあいにたずねても、
電子末端にはなんとなく抵抗があるみたいだ。

「北斗の拳」だけの末端は、
全集をそろえても場所をとらないし、
それでいて「所有する楽しみ」も かなえてくれる。
人気長編や全集などを ほかの作品でも
一冊(というか、ひとつの末端)にまとめたら、
興味をもつひとが かなりの数みこめそうだ。
そうやって、電子末端へのアレルギーがうすまれば、
そのあとは、多機能の末端をかい、
気にいった作品をネットからダウンロードすればいい。

「北斗の拳」だけ末端は、まだ一般販売されていない。
値段についても今朝の記事にはかいてなかった。
開発した会社は、クラウドファンディングで資金をあつめ、
ある金額以上の出資者に、まずこの末端をおくったあと、
一般にむけて販売していく予定だという。
紙の本とおなじようによめ、
場所をとらず、全巻としては値段もやすければ、
ファンとしてはありがたいこころみだ。
これはもう、電子末端というよりも、
かぎりなく紙の本にちかい。

シンプルな「◯◯だけ」末端になれてしまえば、
多機能の電子末端まで あと一歩だ。
いちどネットからダウンロードしてみれば、
そんなに敵対視しなくてもいい道具だとわかるだろう。
将来的には、ネットにつなげない末端だけでなく、
ふつうの末端に、全集をだきあわせるやり方での
本づくりもとりくまれるだろう。
わたしがねがっていた村上春樹全集末端みたいに。
電子末端が、ネットでの利用にみきりをつけ、
紙の本をめざしてつくられた、という発想がおもしろい。
これまでとちがう電子末端のつかい方が、
本の可能性をひろげていきそうだ。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月05日

ラジオ番組をききたくて MP3プレーヤーを注文する

MP3プレーヤー「VEHOLION」を発作的に注文する。
FMラジオがききたかったからだ。 
わたしがかうくらいだから、4000円弱と、すごくやすい。
このごろながい距離(と時間)を
ずんずんあるくのがたのしくなってきて、
そのときのおともは iPodでの音楽よりも、
ラジオ番組のほうが散歩と相性がいい。
このまえ「ラジオマンジャック」ききたさに、
1200円(乾電池代をふくむ)でかったちいさなラジオは、
ステレオではないので 音楽をきくには
さすがにものたりなかった。
かといって、ステレオのラジオをかえば
けっこうな値段がするし、コンパクトさがうしなわれる。
いろいろかんがえて、FMラジオがきけるという
MP3プレーヤーをえらんだわけだ。
わたしがスマホをつかういちばんの用途は、
じつはラジオだというのがわかってきた。
だったら、ラジオをかえばいいと、ようやく気づいた。

でも、MP3プレーヤーの説明書に
「FMラジオを受信可能」とかいてあるとおり、
「可能」だけど、けしてスムーズにはあつかえない。
それに、このプレーヤーには ディスプレイがついているものの、
初期のiPodみたいに、ボタンをおして機能を選択するやり方だった。
タッチパネル方式になれた身にとって、
ボタンでの操作はかなりイライラさせられる。
とても実用にはならない。
いままでどおり、「らじる★らじる」のアプリをつかい、
スマホでラジオ番組をきくことになりそうだ。
ラジオをきくというシンプルな要求なのに、
その実現は、意外とハードルがたかい。

こんなことなら、iPod nanoをかえばよかったのかも。
値段のやすさにつられて つかえない商品を、
これまでにいくつかったことか。
わたしの散歩ライフを充実させてくれるには、
どんなラジオが適切なのだろう。

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

ランスマにでていた原田泳幸さんに刺激をうける

「ランスマ」で、ビジネスにいかすランニングをとりあげていた。
はしることとビジネスは、なにか関係があるのだろうか。
ゲストには、アップルコンピュータ日本法人など、
おおくの代表を歴任された原田泳幸さんがまねかれていた。
原田さんによると、ランニングはいいことばかりなのだそうだ。
仕事をしてると、いやなこと、
おこりたくなることがたくさんあるけど、
はしるとそれらをぜんぶゆるせるという。
精神的に健康でいられるのは、
原田さんのようにストレスのおおいビジネスマンには
なによりもありがたい効果なのだろう。

原田さんは、歳をとるとともに体重がふえ、
ゴルフでもつかれやすくなり、
健康診断で脂肪肝といわれてショックをうけ、
つぎの日からはしりはじめている。
62歳で初マラソンに挑戦し、そのときが4時間16分で、
ベストタイムは4時間2分。
はじめは1キロあるいただけでしゃがみこむくらいの
体力のなさだったというのに、このタイムはすごい。
いまは、午前5時におき、コーヒーをのみながらメールのチェック。
6時からはしりだすのが日課となっている。
10キロを1時間のペースで週4〜5回、という練習量だ。

はしるとアイデアがわいてくるし、
冷静な判断ができるようになると原田さんはいわれる。
仕事がうまくいかないときでもはしる。
はしるから冷静でいられる。
金さんが、
「マラソンはどれだけ自己管理ができるか、
 マネージメントできるかのスポーツ」といっていた。
いい仕事をするひとは、自己管理もじょうずにできるのだろう。

わたしはランニングがすきといいながら、
自己管理という視点をもっていなかった。
いいかんじにはしれたらたのしいし、
わるければたのしくない。
その日の気分ではしっているだけだ。

自己管理ができなくてはしれないのはなさけないので、
自分にまけないよう、練習にむきあえそうな気がする。
はしろうか、どうしようかまよわずに、
さっとはしりだすしかない。
相手はお天気やスケジュールではなく、
いつだって自分だ。
一日いちにちを確実にこなしていくしかない。
やめておけばいい よけいな酒をのんで、
つぎの日のランニングにさしさわるなんて もってのほかだ。
自己管理というかんがえ方を、
わたしはもっと意識したほうがいいみたいだ。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

『夜廻り猫』にでてきた「本当の子供」がいいはなしだった

『夜廻り猫』(深谷かほる)に
「本当の子供」というはなしがのっていた。
犬のラピとネコのラミーが わかい夫婦にかわれていて、
ラピは自分がその家の子どもであると
当然のようにふるまっている。
あとからきた子ネコのラミーは、自分がほんとうに
その家の子どもとしてうけいれられているのか、
まだどこか遠慮したところがある。

お父さんが雪かきをするというと、
ラピは自分もいくといってはしゃぎだす。
ラミーは、いっぽひいており、
「お父さんとお母さん 大好きだから
 ぜったい嫌われたくない」
と、わがままをいわず、
家のなかからふたりのようすをながめている。
それでもお母さんが、「ラミー 私達も雪かき 行こうか」
とさそうと、ラミーもお母さんにおんぶされて外にでた。

近所のわかものが、
「わ、猫!? それも永沢さんちの子供?」
とたずねると、
お母さんは「いや この子は・・・子供じゃないわね」
という。
ラミーは、いっしゅんネコの顔になって こころをとざす。
やっぱり、ぼくはこの家の子供じゃないんだ、と
お母さんが口にする つぎのことばを 身をかたくしてまつ。
お母さんは、いうのだった。
「この子はまだ小さいから 孫」
それをきいたときのハッとしたラミーの表情がいとおしい。

わたしがいっしょにくらしているネコのピピは、
ラミーほど気をつかってくれない。
ごはんがほしければ、夜中でもカンヅメをあけさせるし、
トイレまでいくのをめんどくさがって
ふとんのうえでおしっこをしたり。
同居している母は、ピピのことを「ピピさん」とよんでいる。
ピピがお世話をさせてあげている、という関係みたいだ。
母の部屋のこたつ布団をおしっこでぬらしても、
母はおこらずに、現実的な対応(あらったり、かわかしたり)をする。

わたしはピピをどうおもっているだろう。
子どもかとたずねられたら 子どものような気がするけど、
子どもでもネコでもない なにか、というのが
いちばんしっくりくる。
いまでもピピは、夜のきまった時間にわたしの部屋にきて、
あまえた声をあげ だっこをせがむ。
顔をちかづけて、ハナをスリスリしてくれる。
もう16年もいっしょにいると、
生きつづけてくれてありがとしかいえない。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする