2017年11月14日

ひさしぶりの「関白宣言」

きらいなものをわざわざブログにかく必要はないとよくいわれる。
たしかに。
でも、苦手については、すこしぐらいゆるされるのではないか。
なにかをきらいなことに理由はないけど、
なんで苦手かのなかには、わたしの深層心理にかんする
普遍的な問題点がかくされているかもしれない。

というわけで、さだまさしさん。
先日NHK-FMの「歌謡スクランブル」をきいていたら、
昭和・平成のヒット曲集を特集していた。
月曜日に昭和のふるい歌からはじまり、
だんだん時代をさかのぼって 金曜日には平成の曲にいたる。
わたしはさだまさしさんが苦手で、
あのひとの曲がかかると たいていすぐにチャンネルをかえるけど、
この日は、ヒット曲のながれをおいかけたかったので、
「関白宣言」がかかっても そのままききつづけた。
ひさしぶの「関白宣言」だ。

なんでわざわざこんな曲をつくったのか理解にくるしむ。
なんどきいても、感想はかわらない。
歌ってる本人は冗談だというかもしれないけど
冗談でも ああいう 歌詞が出るのは、
ほんとのところは、冗談でないからだろう。
自民党の議員が、どこかで問題発言をしてしまい、
「ジョークだから」と いいわけする場面をおもいだした。

なぜわたしはさだまさしさんが苦手なのか。
よくある現象として、さだまさしさんのなかに、
かくしている自分をかんじとってしまい、
なるべく距離をおきたくなるのかもしれない。
さだまさし的な要素が「関白宣言」にはつめこまれており、
だからこそつよく反発してしまうのでは。
あまりかんがえたくない仮説だけど、
つよく否定する裏には、それなりの理由があるはずだ。
自分という人間の存在基盤を あやうくしかねないので、
無意識のうちにさだまさしさんを
とおざけているとしたら かなり残念だ。
ネガティブな感情をあつかうのはむつかしい。
きらいでも苦手でも、わざわざブログにかくのは
やめたほうがいいみたいだ。

posted by カルピス at 22:46 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月13日

寝床難民

すこしまえのブログで予告したとおり、
ピピのおしっこからにげようと、べつの部屋でこっそりねた。
夜なかになんどもおこされては、そしてそんな日がつづけば、
仕事にさしつかえるので、ピピにかくれて寝袋を用意する。
家庭内ショートステイで、俗にいう寝床難民だ。
結果からいえば、ピピはわたしの「かくれが」を
朝の4時にかぎつけて 枕もとで「わー」とないた。
いまさらしらばっくれてもしょうがないので、
ピピをだきよせて再会をよろこびあう。

ピピにだまってちがう場所でねるのは、
ひどいうらぎりにおもえて気がひけた。
もしわたしが愛するだれかをベッドでまってるのに、
そのひとがこっそりべつの部屋でねたら、
そうとうきずつくのではないか。
おなじことを、わたしはピピにたいしてやったのだ。
でもピピは、そんなわたしにたいしても、
あいかわらず全幅の信頼をよせてくれ、
あまえた声をだしながら鼻をこすりつけてくる。

ベッドをはなれての睡眠は、プチ野宿として
野宿へのあこがれをすこしだけみたしてくれた。
寝袋にくるまるのだから、さむくはないけど、
ペラペラの座布団をしたにしいただけなので
背中と腰がいたくなった。
野宿をするときは、寝袋だけでなく、
マットがどれだけ大切かをおもいださせてくれる。
これは、野宿伝道師のかとうちあきさんが、
野宿をかたるときに、かならずふれている重大なコツだ。
もっとも、かとうさんは、快適な睡眠をめざすのではなく、
なんとか一夜をしのげたらいいという 達人なので、
最小限のクッションと断熱をねらい、
市販のマットをしいているだけだ。
わたしはずいぶんまえに、
あつい座布団をならべたうえに寝袋をしいてねたことがある。
つかれのとれかたが ぜんぜんちがい、快適さにおどろいた。

梅棹忠夫さんは、『モゴール族探検記』のなかで、
じゅうじつした個人テントの大切さをのべている。
隊員ひとりひとりに個室となる個人テントを用意し、
そのなかにふかふかの寝床をつくる。
わたしたちは、昼間は共同テントに出勤して、仕事や食事をする。夜は各自の自宅に帰る。個人テントは、ナイロンとブロード、骨は軽金属のパイプでつくったすばらしい上等だ。わたしはその中に、ヘアロックのマットレスを敷き、さらに空気マットレスと毛布で、上等のベッドをこしらえる。その上に羽毛の寝袋をおくと、これならいくらでも眠れそうだ。わたしは自分の新しい家に満足する。(梅棹忠夫『モゴール族探検記』岩波新書)

・マットレス
・さらに空気マットレス
・そのうえに毛布

これだけつかってあついクッションをこしらえ、
さらに羽毛でつくった寝袋をのせるのだから、
よんでるだけでも そうとう居心地がよさそうだ。
この探検は、いまから62年もまえの
1955年におこなわれているのに、
すでに寝床づくりのノウハウが確立されている。
テントでの睡眠は、一夜をしのげればいいのではなく、
ながい期間にわたって調査をつづけられるだけの
快適さがもとめられる。

ピピのおしっこをさけようと わたしがつくった「ねぐら」は、
1955年のモゴール族探検でのテント生活にさえ およばなかった。
ピピがみつけてくれず、なんにちもあの部屋でねていたら、
おそらく体調をくずしていただろう。
つぎの日から トイレシートをしきつめたもとのベッドにもどった。
いつふとんにおしっこをされるかのリスクにおびえながら、
2017年の冬をすごしている。

posted by カルピス at 22:52 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

Tシャツに外国語をつかいたくなる気もち

デイリーポータルZに、タイでみかけたへんな日本語がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/171103201102_1.htm
Tシャツなどに、「可能な!」なんて 日本語でかかれていると、
たしかにへんなかんじだ。
正確な日本語でも、たとえば「がんばろう!」と
日本語でかかれていたら違和感がある。
Tシャツにかいてあるのは「もよう」としてわりきっているので、
はっきりしたメッセージは かえってじゃまなのかもしれない。
いまでこそ、陸上部などは くじけないでがんばるぞ、みたいな
「ポエム」がかかれたシャツをみかけるけど、
普段着のシャツだと はずかしくてきられない。

わたしは外国へ旅行にいったときに よくTシャツをかうけど、
その国のことばがデザインされていたほうが おみやげになる。
タイで、タイ語がのったTシャツをさがしたけど、
そのときはみつからなかった。
かりにあったとしても、タイ語なので、
なにがかいてあるのかわたしにはわからないのに、
それでもタイ文字のTシャツがほしい。

日本でうられているTシャツだって、外国人からみると、
へんなメッセージがけっこうあるのではないか。
Tシャツにかかれているのは、ほとんどが英語だろうけど、
正確な英語かどうかは 問題ではなく、
デザインとしてかっこいいかどうかを かうほうは大切にする。
「読んでる人大好き」みたいなデザインは
いくらでもやってそうだ。
タイには屋台がずらーっとならんでいるとおりがよくあり、
「うどん」「すし」とノボリがたっている。
「うどん」のところへいってみると「すし」だった。
かといって「すし」のノボリがたった店は
うどんがたべられるかというと、
ほんとうに「すし」がならべてあって肩すかしをくう。
メニューをしらせるためのノボリではなく、
ただのマークなのだからしょうがない。

欧米のひとにとって、町でみかけるTシャツのほとんどは
母語でかかれているわけだけど、
そういうのって、彼らの目に どう うつっているのだろう。
日本では、外国語でかかれた店のなまえやシャツがあたりまえなので、
ぜんぶ日本語でかかれていたら、かえってへんなかんじがするはずだ。
欧米人にとって、それが日常風景なのだから、
日本人からすれば、ずいぶん地味な景色のなかでくらしている。
タイだけでなく、欧米でもへんな日本語のTシャツをみかけるのは、
わたしがタイ語でかかれたTシャツをありがたがるのと いっしょだ。

posted by カルピス at 22:51 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月11日

信号機のない横断歩道で 車はなぜとまらないか

先日の朝日新聞に
「止まらぬ車 戸惑う外国人」
という記事がのった。
投稿したマーク=リバック氏は、
「信号機のない横断歩道は車優先」
という日本の状況におどろいている。

しかし、日本の運転手は、
車優先と はっきり意識しているのではなく、
横断歩道でまっているひとが、自分とは関係ない存在だから
あえてとまろうとしないのではないか。
自分が所属する「世間」でなければ、
運転手にとって かかわりのない「その他大勢」にすぎない。
横断歩道で車がとまらないのは、
そこでまっているのが、自分とは縁のない他人だからだ。

横断歩道で車がとまらないのは、
電車の席を老人にゆずらない問題とよくにている。
日本はサイフをおとしてもかえってくるほど
道徳がゆきとどいた国なのに、
いっぽうでは、老人をたたしたままでも平気な国だ。

鴻上尚史さんが
「日本人には社会がなくて
世間だけで生きている」となにかにかいていた。
自分がぞくするコミュニティでは親切にふるまうのに、
そこから一歩でると、まわりはぜんぶ関係のない他人となる。
世間にたいしてはずかしいかどうかが 判断の基準であり、
ひろく社会的にみたらどうかはかんがえられない。
世間と社会とを、はっきりわけてあつかっている。 

わたしはバスにのっていたとき、
年配の女性が、あとからのってくる友だちのために、
荷物をおいて 席を確保しているのにでくわした。
その女性の論理では、ほかのひとがすわれなくても、
あとからくる自分の友だちがすわれたらいい。
このひとにとって、バスにのっているお客さんは
自分とかかわりのない他人であり、
しらないひとがすわりたい気もちは想像できず、
自分の友だちに楽をしてもらいたいと「親切」にする。

投稿によると、道路交通法38条に
「横断歩道等における歩行者等の優先」
とあるそうだ。
それなのに、人対車の交通事故のうち、
「約30%が横断歩道を横断中に起きている」そうで、
こんな状況がほっておかれているのが
そもそもめちゃくちゃなのだ。
なんで規則違反として とりしまらないのだろう。

信号を無視すると、ルール違反でとがめられる。
日本人は、きまりならば まもろうとするので、
信号のない横断歩道で ひとがまっているときは、
とまらなければ罰金という規則にすればいい。
交通違反にすれば、どの運転手もとまるようになる。
もちろん、老人に席をゆずらないのも犯罪としてあつかう。
なんだか安倍さんがめざす共謀罪法案後の日本を
さきどりしたようなギスギスした社会だ。

posted by カルピス at 09:18 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

ブラジルをあいてに1-3

善戦したというべきだろう、ブラジルをあいてに1-3。
ブラジルは、これまでだと、ゆっくり試合をはじめ、
ここというときだけギアをあげるプレーがおおかったけど、
チッチ監督にかわってからは、守備と攻撃に、
全員が連動してうごきまわるようになった。
ボールをうばうと、すぐにトップスピードでのカウンター。
ますますスキのないチームになった印象だ。

ブラジルは、もちろんうまかったし、
とくに前半はスピードがはやく、
ファールでしかとめられなかった。
とはいえ、日本の3失点のうち2点はPKがらみで、
完全にくずされたのは1点だけだ
(あいてのミスにもたすけられたけど)。
この試合では、ビデオアシスタントレフリーが導入され、
あやしげなプレーについて主審がビデオをみて確認する。
1本目のPKは、このビデオアシスタントレフリーによるもので、
もったいない失点だった。

後半は、日本のプレッシャーがよくきいて、
攻撃のかたちをつくれていた。
それだけに、前半だけで3点をうばわれたのは くいがのこる。
槙野のヘディングで1点をかえしたあとも、
追加点をねらってせめつづけたし、あわやというプレーもあった。
もうすこし運が日本に味方してくれていたら、
あんがいいい試合になっていたのでは。
でもまあ、そんなグチをいってもしかたない。
日本はこれまでにブラジルとなんども試合をしてるので、
リスペクトしすぎることなく、普段着のプレーができていた。
10回やって1回かてるかどうかのあいてなのだから、
今回は、その1回ではなかった、ということなのだろう。
後半から乾がはいったけど、あまりボールにさわれず、
攻撃にからめなかった。
試合のはいりかた、乾のいかしかたが、つぎのベルギー戦の課題だ。

ネイマールには、PKとはいえ、
この試合でも点をいれられてしまったし、
気もちよくうごきまわられた。
ブラジルはネイマールがゲームをくみたてており、
ネイマールにボールがわたると対応がむつかしい。
でも、自分がイエローカードをもらうと、
その直後の井手口のプレーにたいし、
おおげさにいたがって、ピッチをのたうちまわっていた。
ネイマールは以前から役者ぶりがめだつ選手で、
あまりの熱演にうんざりさせられる。
つぎにブラジルと対戦するときは、
なんとかネイマール対策を工夫して、
おおげさにいたがる演技にクギをさしてほしい。

posted by カルピス at 23:51 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月09日

貯蔵がなかった時代のシンプルなくらし

トランプ大統領の韓国訪問にあわせ、
3隻の原子力空母が朝鮮半島ちかくに展開したという。
わたしの関心は、これらの空母が、
北朝鮮への圧力となったかどうかではなく、
それぞれの空母にどれくらいの兵士がのり、
彼らが生活するのに必要な資材を
どう調達したらいいのかという、具体的な対応方法にある。
職場の同僚にはなしたら、空母だからヘリコプターや飛行機で、
どーんと補給できるでしょう、といわれた。
たしかに。
でも、膨大な水や燃料はどうするのか。
運行しながら補給できる 給水船やタンカーがあるとはいえ、
しっかりした港が必要な場合もでてくるだろう。
船にのりっぱなしでは精神的にながくつづかないので、
ときには娯楽施設のある港にたちより、うさばらしもしたい。
じっさいの戦闘よりも、そうした補給についてかんがえただけでも、
あまりのややこしさに頭をかかえてしまう。

ちなみに、おなじ原子力空母であるジョージ=ワシントは、
士官・兵員3200名、航空要員2480名と、ウィキペディアにあった。
合計5700名ちかくの人間が、安定した精神状態をたもつためには、
どれくらいの資材が必要なのだろう。
きっと、献立には工夫がこらされており、
栄養にみちて、あきのこない食事が提供されているはずだ。
ジョージ=ワシント号の調理場と貯蔵庫をみてみたい。
なんにんのコックさんがいて、
どれくらいのビール、何キロの牛肉がつみこまれているのか。
必要なニンジンはどこに発注するのだろう。
ものすごくかんがえられたシステムがなければ、軍隊を維持できない。

原子力空母とは、なんの関係もないけど、
何万年ものむかし、人類の祖先が巨大なマンモスをたおしたとき、
大量の肉をどうやって保存したのだろう。
うまく獲物をたおせたとしても、そのあとの解体や保存は
そうとうたいへんだったのでは。

梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』(朝日選書)には、
アフリカのサバンナにくらすティンディガのひとたちが、
カバをしとめたときのようすが紹介されている。
5家族が現場に「ひっこし」をしてきて、
たべつくすまで 腰をすえてたべつづけたという。
たべて、ねむり、目がさめるとまたたべて、
3日後にはおおきな骨以外の すべてがなくなったという。
1965年におこなわれた調査のときでさえ、
保存を工夫するより、たべつくす方法が観察されているのだから、
マンモスをしとめたときの古代人も、
きっとおなじように一族があつまってきて、
たべつくしたのではないか。
食糧を手にいれたときのこうした分配方法が、
たすけあい、わけあって生きていく形で定着したのだろう。

いまさら補給や貯蔵が悪の根源だとまではいわないけれど、
貯蔵技術がなかったころのシンプルなくらしなら、
おおきな戦争など できっこなかった。
貯蔵への工夫は、耳をかしてはならない 悪魔のささやきだった。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

コンフィをつくる

デイリーポータルZに刺激され、コンフィをつくってみた。
コンフィは、肉を低温のあぶらでゆっくり加熱する料理だ。
http://portal.nifty.com/2008/07/07/a/
このまえからとりいれているMEC食では、
いちにちに200グラムの肉をたべたいので、
つい鳥の胸肉にたよりがちとなる。
胸肉は、やすいけど、脂肪分がすくなく、
うまみをひきだすのがむつかしい。
コンフィなら、あぶらで煮こむのだし、
もともとが保存のための調理法なので、
いちどつくれば何日もたべられるはずだ。

デイリーポータルZの記事では、
耐熱皿とオーブンをつかっている。
クックパッドをみると、炊飯器による
かんたんなつくり方がのっていたので、
そちらをためしてみた。

・肉に塩とスパイス(ローズマリー・タイム)をまぶす
・ジップロックにいれ、冷蔵庫でひとばんねかせる
・ラードをチューブ1本ほど ジップロックにくわえる
・ジップロックを炊飯器にいれ、沸騰したお湯を
 袋がしっかりつかるようにくわえる
・「保温」にしたまま3時間おく
・ジップロックを炊飯器からとりだし 常温でさます
・容器にうつしかえ、冷蔵庫で保存する

工程をぜんぶあげると ややこしそうだけど、
じっさいの作業はきわめてかんたんだ。
コンフィ.jpg
できあがったコンフィを、てきとうなあつさにきり、
デイリーポータルZの記事ですすめているように、
フライパンでかるくやいてみる。
ラードをたっぷりすいこんで、
しっとりと、ふかい味わいを期待していたけど、
おどろくほどのおいしさとはいえない。
たしかにやわらかくはなったものの、
胸肉特有のパサつきはあいかわらずだ。

フライパンでやく効果を あまりかんじなかったので、
冷蔵庫からだしたコンフィに、そのままマヨネーズをつけた。
これが意外とおいしい。
あぶらまみれのコンフィに、
さらにマヨネーズのあぶらをくわえたほうが
おいしくなるとは どういうことだろう。
ラードにマヨネーズというと、動脈硬化へ一直線、みたいだ。
ゆっくりと自殺してるような強力なコンビ。
でも、たべものでコレステロール値はあがらない、
というのがこのごろの定説なので、おそれずに摂取している。
たべた食品は関係ないのだったら、
ではどうしてコレステロール値があがってしまうのか、
不思議におもえてくる。
卵にはコレステロールがおおくふくまれているので、
卵は1日1個にとどめましょう、なんていわれていたのに、
いったいあれはなんだったのか。
とにかく、MEC食のおしえにしたがい、
コレステロール値なんて気にせずに、
どんどん動物性脂質とたんぱく質をとりいれている。

ラードをたっぷりつかうので、ジップロックはあぶらまみれになる。
いくらあらってもヌルヌルがとれず、
どうしようもないので、けっきょくすててしまった。
そのたびにすてるのは もったいないので、
次回は鍋をつかって、新聞紙にくるむ保温料理法をためしてみたい。
なによりも、もっとおいしくならなければ
わざわざラードで煮る意味がない。
胸肉が脂分をたっぷりすいこんで、
濃厚なハムみたいにならないものか。

posted by カルピス at 21:21 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

「人的資本」にたよるしかない わたしの老後

月曜日の朝日新聞では、お金の運用に関する
「なるほどマネー」が連載されている。
投資や、老後にそなえた貯蓄のアドバイスは、
きっとそのとおりなのだろうけど、
コツコツ堅実な生活をいとなんできた
りっぱなサラリーマンにしか 参考にならないプランがおおい。
わたしは、貧乏人と劣等生のひがみから、
なにが投資だと、やさぐれながら ときどき目をとおしている。
11月6日には、投資の新「常識」2として、
「人的資本」がとりあげられた。

人的資本とは、ききなれないことばなので、
はじめはこれまでの人生でつちかってきた
「人脈」のことなのかとおもった。
しかし、この記事でいう「人的資本」とは
「健康で働くことができる力」なのだという。
精神的にも、肉体的にも、健康でなければ 仕事はできない。
歳をとってもすこやかにくらせる状況が「人的資本」であり、
わかいころから投資してこのちからをはぐくんでいかないと、
歳をとってから きゅうになんとかできる能力ではない。

歳をとっても、健康ではたらけるのなら、
すこしでもお金をかせげるし、医療・介護への支出もすくない。
「人的資本」ということばはしらなかったけど、
わたしは、わかいころから げんきなからだ だけをたよりにしていた。
公的年金だけでくらせるとは とてもおもえないので、
年金5万、はたらいて5万の、10万円あれば
なんとかなるのでは、というのがわたしの計画だ。
そのためには、65歳をすぎてもはたらかなくてはならないけど、
いちにちに数時間ていどの仕事なら
そんなに負担ではなく、社会とのつながりをたもてるぶん、
健全な精神状態のためにも いいようにおもう。
お金はもちろん大切だけど、健康はそれ以上に生活の質を左右する。

10代のころからトレーニングをかかさなかったのも、
本や映画ですこやかな精神状態をたもってきたのも(ほんとうか?)、
56歳のいまとなっては、ぜんぶ「人的資本」への投資だったといえる。
そうかんがえると、「人的資本」は便利なことばだ。
わかいころのあそびは、歳をとってからの趣味にもいきる。
ひとりでの旅行がすきだったので、
お金をかけない旅行のスキルを身につけられた。
歳をとってから、さあ旅行にでかけよう、としても、
あるていどの経験がなければ、自由で気ままな旅行は
なかなか実行できないだろう。
水泳やジョギングの習慣は、
老後のコンディションづくりに直接むすびつく。
すべては老後の準備としてとらえられる。

人的資本は、からだの健康だけでなく、
ゆたかな精神活動も だいじな資本だ。
体力とおなじように、きゅうには手にはいらない。
人生はトータルだと元日本代表監督のオシムさんがいっていた。
たしかに、わかいころからどう生きてきたかが
老後になってトータルとして とわれてくる。
人的資本とは、どれだけのちからが
トータルとして蓄積されているかであり、
お金にたよれないわたしは、
それ以外のちからで老後を準備するしかない。
さいわい、からだをうごかすのは苦にならない。
人的資本の蓄積をめざして
いまのうちから たくさんあそんでおこう。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月06日

ピピのおねしょにまけて、ベッドをあけわたす

きゅうにさむくなってきたけど、
ふとんのうえでピピ(16歳のネコ)に
おしっこをされたらひどいので、
寝袋をひっぱりだして 夜のさむさをしのいでいる。
化繊の寝袋なら、もしおしっこでぬれても、
あらったり ふいたりがかんたんだ。

と、おもっていたけど、
いざ寝袋のうえでおしっこをされるとたいへんだった。
ピピはあったかさをもとめてわたしにくっついてくる。
くっついたまま、おしっこもする。
ぬれたパジャマと寝袋をまえに ぼうぜんとなっていると、
ピピは無邪気な目でわたしをみながら
「わー」とあまえた声をあげた。
かわいいけど、夜中のおねしょにつかれてきた。
寝袋のぬれたところにアイロンをあて、パジャマのうわぎをかえる。

糸井重里さんが すこしまえの「今日のダーリン」で、
モネというわがままなネコを紹介している。
「お母さん、なんか食べたい」
「あと、ミルク。冷たいのイヤ、あっためて」
「熱すぎる」「甘くして。砂糖イヤ。はちみつ」
 おとうさんがテレビの相撲を真剣に見ているところで、
 いっしょにお風呂に入りたがったり、
「熱いのイヤ。水はイヤ」「ひのきの香りがいい」
「あ、そこそこもっと。耳はイヤ」と、言い放題。
(深谷かほる『夜廻り猫』)

そうやって、わがままにふるまわれるのを、
いっしょにくらしている中年夫婦はよろこんでいるのだけど、
ピピのおしっこを、ただいとしくおもえるほど
わたしは成熟したおとなではない。
そこらじゅうでおしっこをするピピにむかい
「そこにすわりなさい」とお説教をする。

まえに、枕のうえでおしっこをされる気もちは、
枕のうえでおしっこをされたひとでないとわからない、
とかいたことがあるけど、
寝袋でも、問題はおなじだ。
寝袋でおしっこをされた気もちは、
寝袋でおしっこをされたものにしかわからない。

夜中になんどもおこされるので、じゅうぶんねた気がしない。
さすがにつかれ、ピピのいない部屋でねむりたくなってきた。
書斎とよぶにはあまりにもしょぼいスペースと、
そのとなりのかくれがみたいな寝室をピピにあけわたし
(まさに、ひさしをかして母屋をとられる、だ)、
なんちゃって書庫に座布団と寝袋で
短期間限定のねぐらをつくったらどうだろうか。
自分のベッドをはなれれば、
多少なりとも野宿の気分だってあじわえるかもしれない。
でも、おそらくピピはわたしのうらぎりをかぎつけて、
ひっこしさきのねぐらにやってくるだろう。

ネコとのつきあいは、年をとり、
介護状態になってからが、最大のやまばとなる。
そこらじゅうでおしっこをする問題を どうしのぐか。
モネのかいぬしみたいに、わがままをいわれても
ニコニコうけいれられるひとばかりではないだろう。
介護づかれにショートステイの利用が有効なように、
かくれがへの逃避もまた、
いちじしのぎとしてゆるされるのではないか。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』

『アイ・アム・ニューマン 新しい人生の見つけ方』
(ダンテ=アリオラ監督・2012年・アメリカ)

「新しい人生」や「もうひとつの人生」って、
おおくのひとがいちどくらい夢みるのではないか。
やたらとおなじようなタイトルを目にする。
「見つけ方」と「はじめかた」も よくにていてまぎらわしい。
どっちにしても いまさら新鮮味がないので、
ほかの作品とまちがわないために、
「アイ・アム・ニューマン」をあたまにつけたのかも。

主人公の男性は、それまでの生活をチャラにして
再スタートをこころみる。
べつの人間としてうまれかわるために、
偽造した身分証明を用意した。
自分は海辺で行方不明になったようにみせかける。

この作品は、とりわけ男の夢かもしれない。
ベンツのオープンカーでの旅だち。
となりには偶然しりあったきれいな女の子。
トランクには札束のつまったカバンがおさまっている。
再スタートする町をめざしてのロードムービーだ。
内容は、たいしたできだとおもわないけど、
これだけの小道具を配置して、
過去と現在をそこそこからめていけば、
おもしろい作品にならないわけがない。

チャラといえば、きょうの「ラジオマンジャック」
(NHK-FM)は、リセットがテーマだった。
チャラもリセットもおなじようなものだ。
赤坂さんが、スマホを水につけてしまい、
あたらしいスマホにかいかえなければならなかったという。
バックアップがどれだけ大切かを強調されていた。
人生に、バックアップって、あるだろうか。
IT時代においても、人間はデジタルにかわれない。
うわがき保存がきかないからこそ、人生はスリリングだ。

映画にはなしをもどすと、
そうかんたんに人生はリセットできないようで、
けっきょく ふたりとも それまでの生活をすてきれない。
自分がもとめていたものは、以前のくらしのなかにあった、
という よくありがちなはなしにとどまっている。
すっかりリセットするまでもなく、
仕事をやめたりひっこしすれば、
かなりのていど あたらしい生活となる。
離婚だって、そうとうリセット感がたかいだろう。
そこそこ・ちょぼちょぼなリセットだからといって、
それがかんたんとはかぎらない。
「新しい人生」や「もうひとつの人生」は、
あんがい手にしにくい永遠のテーマなのかも。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする