2021年09月02日

W杯アジア最終予選、オマーンに0−1でやぶれる

W杯アジア最終予選、日本対オマーン

らいねん秋におこなわれるカタールでのW杯にむけ、
アジア最終予選がきょうからはじまった。
日本はBグループにぞくし、らいねんの3月まで、
5カ国によるホーム&アウエー方式で試合をすすめてゆく。

新型コロナウイルスが、世界じゅうで いまだにおちつかないなか、
W杯は予定どおりカタールでひらかれるみこみだ。
ヨーロッパでは、客をいれない国があるとはいえ、
それでもサッカーがなくては、生きていくはりがないと、
リスクをおかしてサッカーの試合をつづけている。
日本だって、完全にサッカーを中止したのは
ほんの数ヶ月にすぎず、そのあとは、無観客だったり、
観客を制限したりして、通常のリーグ戦を再開した。
感染予防の方法や、試合の運営など、
Jリーグのほうがプロ野球にお手本をしめしていた。
日本のサッカーが、ふかく生活に根づいてきたのをかんじる。
リスクがあろうがなかろうが、
サッカーの存在が、おおくのひとをささえている。
サッカーなしの生活はもはや日本でかんがえられない。

最終予選の初戦はオマーンとのホームゲームだ。
オマーンは、「ひいてまもってカウンター」、かとおもっていたら、
戦術とテクニックにすぐれたいいチームだった。
セルビア人の監督にかわってから、サッカーの質がかわったそうだ。
前半はせめあいがつづき、日本のリズムがうまれない。
まあ、そのうちオマーンのやり方に、
日本の選手たちがなれてくるだろう、とおもっているのに、
いつまでもおなじながれのまま前半がおわる。

後半にはいっても、オマーンはまだまだげんきにせめてくる。
日本は古橋・堂安・久保と、2列目の選手を
たてつづけにかえるけど、なかなかシュートまでいけない。
初戦でひきわけはいやだなー、とおもっていたら、
後半44分に、オマーンが右サイドからのクロスをあげる。
つめていた選手がすこしさわっただけで、
ボールはゴールへとすいこまれていった。
オマーンあいてにこれほどくるしみ、
1点もうばえないまま まさかホームでまけるとは。
試合終了間際にいれられた点がひびいたとはいえ、
90分をとおしてオマーンは いいサッカーをつづけていた。
ひいてまもるだけではなく、日本のパスをなんどもカットし、
カウンターへとつなげてゆく。チャンスのかずは、
オマーンのほうが日本をうわまわっていたかもしれない。
日本は、きめるべきときに きめられなかったつけが、
さいごにひびいてきた。初戦での敗戦はいたい。

森保監督は、スターティングメンバーに、
アジア最終予選を経験しているベテランの選手をならべた。
それだけ最終予選のむつかしさに配慮し、
この試合を重視していたのに、慎重にはいりすぎてしまったか。
オマーンは日本のやり方をよく研究してきたようで、
パスをなんどもカットされ、攻撃につなげられていた。
日本の2列目に仕事をさせず、日本のパスをよく予測して、
自分たちのカウンターにつなげていた。
オマーンがこんなにいいチームだったとは。

中東のオマーンがあいてなのに、
レフェリーはおなじ中東の国(どこかわすれた)のひとだった。
判定をみていると、あきらかに日本に不利な笛におもえる。
そんななか、後半6分に、長友がPKをあたえてしまった。
長友の手は、からだにくっついていたけど、
レフェリーによっては、いくらでも日本に不利な判定をくだすだろう。
さいわい、このレフェリーはVARを採用し、
結果として、この判定はくつがえされた。
そんな幸運があったにもかかわらず、
日本はさいごまで自分たちのリズムをとりもどせなかった。
なにがどうわるいのか、修正できないまま、
ズルズルと時間だけがすぎてゆき、
決定的な時間に先取点をゆるしてしまう。
日本がまけるときは、いつもこんなかんじだ。
つよい国にたいしてはいい試合をするのに、
格下とやるとなぜかリズムをつくれない。
ドリブルできりこみ シュートまでもってゆく選手、
そう、三苫がいたらなー、という試合だった。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月01日

「ぬか」のひとたちが大切にする「そのうち精神」

せんじつの記事にかいた介護事業所の「ぬか」では、
「なんでそんなんプロジェクト」のほかにも
たのしそうなとりくみをされている。
そのひとつが「そのうち精神」で、
一般的には あまりいい意味にとらえられていない「そのうち」だけど、
ほんとうは、とてもすぐれたことばだと 代表の中野さんはいわれる。

ふつう「そのうち」ということばは、
わかれるときにつかう なにげないあいさつにすぎない。
たとえば「そのうちごはんでも」とうのは、
ほとんど実行されることのない 害のないセリフだ。
いわれたほうが、その気になってまっていても、
おそらくずっとおさそいはかからない。
「そのうち」は、いいっぱなしですむ約束であり、
実行の義務がともなわない、便利なことばだ。

「ぬか」のひとたちは、そんな「そのうち」に
肯定的な意味をみいだしている。
いますぐにではなくても「そのうち」ほんとうにやろう、と
あまり信用されていない「そのうち」に、まえむきな意味をもたせた。
すぐにではなくても、「そのうち」やればいい。
わるいのは「そのうち」ということばではなく、
いいっぱなしにしてしまう、つかう側の人間だ。
気ながにかまえていれば、「そのうち」いい風がふいてくれるから、
それまで頭のすみにおいといて、あせらずにまつ。

せんじつよんだ小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』にも、
状況がととのうまで わすれたかのように気ながにかまえる
タンザニアの露天商たちがでてくる。
商売をはじめるからとお金をせびので、いくらかわたしたけど、
いつまでたってもうごきだすようすがない。
けっきょく くちさきだけだったのか、と
小川さんが残念におもっていたら、
わすれたころに、あたらしくお店をはじめた。
小川さんの友人であるタンザニア人の露天商には、
お金をだましとるつもりはなかった。
ただ、ときがじゅくすのをまつ感覚が 日本人とちがうので、
日本人からすると、お金をせびるだけで、
けっきょくはたらかない、というみかたになってしまいがちだ。

口さきだけで「そのうち」というのではなく、
案としてずっとあたためておけば、
「そのうち」実行にうつすときがくる。
たいせつなのは、わすれないで、「そのうち」をまつことで、
まちさえすれば、「そのうち」いい風がふきはじめる。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月31日

寝袋はあたたかくなければ、という本質論がすき

ネパールのポカラにあるゲストハウス
「スルジェハウス」にとまっていたときのこと。
わたしはアウトドア用品にうとく、寝袋なしで旅行していた。
おなじ部屋にいたひと(スルジェにとまるのは、ほとんどが日本人)が
べつの町へ移動する朝、ベッドにひろげてあった寝袋を、
てきとうなやり方で袋につめこんでいる。
袋といっても、靴をいれる程度のおおきさしかない。
そんな袋に、おおきな寝袋がはいるわけないじゃん、
とおもってみていたら、あれよあれよという間に
袋のなかへと おさまってしまった。
あとでしりあいに そのときのことをはなすと、
羽毛でできた寝袋だったのだろう、とおしえてくれた。
高級なダウンは、おどろくほどコンパクトにまとまるそうだ。
あまりにもちいさな袋におさまってしまったので、
わたしは手品をみたときのように、ただおどろいてしまった。

部屋にいたなんにんかの旅行者で 寝袋が話題となり、
あるひとが、べつにいやみではなく、自分の体験として、
「でも寝袋はあったかくないと意味がないよね」
と、さらっといった。
どんなにかるくてコンパクトでも、あったかくない寝袋は、
寝袋としての用をはたさない、という意味だ。
もちろん夏用の寝袋もあり、季節により、
いろいろなつかい方があるのだろうけど、
夏の寝袋は、べつに寝袋である必要はなく、
寝袋カバーやシーツでも用がたりる。
寝袋が、ほんとうになくてはならないのは、
さむくてねむれない冬や秋だけだ。
わたしはそれほどシビアな旅をした経験がなかったけど、
「寝袋はあったかくないと意味がない」
のひとことは、機能を重視したとらえ方として
わたしの胸にふかくささった。

こういう本質論がわたしはすきで、
たとえば服はいくらかっこよくても、
あたたかくなければ意味がないし、
カバンは量がはいらなければつかえないとおもう。
たべものだって、おいしさよりも、
腹もちでえらんでいるところがある。
自動車は、ちいさくて、物があるていどつめたらじゅうぶんで、
おおきな排気量や、外国産の車に興味はない。
わたしの価値観、というかものごとの優先順位は、
いつだって機能重視だ。

こんなわたしだから、ファッションには当然うとい。
自分のことだけならまだしも、髪がながい女のひとをみると、
あらったり、かわかしたりがめんどくさいだろうに、と
よけいな感想がどうしてもわいてくる。
デザイン重視のちいさなカバンは、
もしかしたらたかいブランドものかもしれないけど、
量がはいらないのにおつかれさま、とおもう。
機能的でないものにたいし、ひどくつめたい目をむけがちだ。

お金よりも、ものに価値をおくのは、
おさないころによんだ『ロビンソン漂流記』の影響だろう。
いくらお金をたくさんもっていても、
灯油の一斗缶や、コメ一俵がもつ 説得力のまえでは影がかすむ。
お金ではさむさや空腹はいやせないけど(貨幣経済に背をむける男)
お米さえあれば、とりあえずお腹いっぱいたべられる。
世間はキャッシュレスへとかわりつつあるけど、
ほんとうに大切なのは、お金ではなく ものなのだとしんじている。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月30日

『モゴール族探検記』(梅棹忠夫)アフガニスタンを舞台に、66年まえにおこなわれた探検の記録

『モゴール族探検記』(梅棹忠夫・岩波新書)

アフガニスタン全土がタリバーンの支配におかれ、
事実上ひとつの国が崩壊した。
20年にわたるアメリカの介入はいったいなにをもたらしたのか。
アメリカ軍がずっとアフガニスタンにのこっても
うまくいくみこみはなかったとはいえ、
タリバーンがこれから民主的に国をおさめるとはかんがえにくい。
こんなにもあっけなくひとつの国がガタガタになってしまうとは。

アフガニスタンというと、
梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』があたまにうかぶ。
1955年におこなわれた探検で、梅棹さんたちの一行は、
アフガニスタンにあるちいさな村にとどまり、
モゴール語をはなす一族をさがそうとする。
モンゴルからとおくはなれたアフガニスタンに、
なぜモゴール語(モンゴル語)をはなすひとがいるのか。
地理的な探検のおもしろさとともに、
うしなわれつつあるモンゴル語をさがすという
民族学的な調査のようすが全編にえがかれている。

はじめてこの本をよんだときは、正直なところ、
いったいなにがかいてあるのか よくわからなかった。
なぜとおい国へでかけ、ふるいことばを採取したいのか。
北極点をめざすとか、地理的な空白地の探検とかではなく、
はじめてよむ学術探検であり、10代のわたしは
なんのことかピンとこないまま、ななめに「よんだ」。
この本のおもしろさがわかってきたのは、
はじめて手にしてから、10年以上たってのことだ。
本についている地図をたよりに 本文をよんでいくと、
探検隊がとおった道がよくわるとともに、
いま新聞やニュースで名前がでてくる地名も目にはいってくる。
本書のなかにはふれられていないけれど、
探検をおえてからカーブル(ママ)へもどるとちゅう、
梅棹さんはバーミヤンの遺跡もたずねている。
アフガニスタンは民族学的な宝庫なのだとある。
この探検は、アフガニスタンが平和だった時期に、
奇跡的に実行された探検といっていいだろう。

『モゴール族探検記』(岩波新書)は、
第1刷が1956年に出版されている。
もう65年もまえにだされた本だ。
わたしがもっている本は、1975年の12月20日に、
第25刷として発行されたものだ。230円としるされている。
もうなんどもよみかえしているし、古本でかったものだから、
いまではページがほつれ、よみづらくなっているので、
この記事をかくのをきっかけに、アマゾンで注文した。
アフガニスタンが注目されているいまだから、
この本にもふたたび関心があつまればいいのに。

「村の将来」と題して、梅棹さんは下記のようにのべている。
ほんとうをいうと、こういう問題を、問題としてとりあげるのは、まだちょっと早すぎるだろう。現在はまだ、アジアは国家的独立の時期であって、一国の中の諸民族、あるいは諸部族間の調整が問題になる時期には来ていない。しかし、大ていにおいてアジア諸国は民族国家ではない。ほとんどが複合民族国家である。それを構成する各民族の相互関係は、これからどうなってゆくのだろう。その調節が、つぎの時代のアジア史の課題になるのではないかと、わたしは考えている。(中略)
 世界はいろいろに変転するだろうが、ジルニー(梅棹さんが調査で滞在した村)はなかなか変わるまい。十年たっても二十年たっても、サンギ・マザールの連峰のふもとで、モゴールの農民たちは、かさかさの土を、そまつな農具で引っかきまわしているだろう。しかし、だんだんと部族間の交渉は深刻になってくるかもしれない。有能な村の指導者が、村をあやまちなくみちびいてゆくことを、わたしたちは祈っている。

歴史は、おおむね梅棹さんの予想どおりにすすみ、
アフガニスタンでくらすおおくのひとたちが、
混乱のなかでたちすくんでいる。
若干36歳の青年が、これだけ成熟した文章を記録したことに、
わたしはよむたびにおどろかされる。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月29日

斎藤幸平さんと柴咲コウさんによる ふつうのおしゃべりがいいかんじ

『人新生の「資本論」』をかいた斎藤幸平さんが、
俳優の柴咲コウさんと対談する番組をみた。
斎藤さんは、柴咲さんの仕事ぶりを、かねてから注目していたといい、
対談のあいてとして おねがいしたらしい。
はなしのなかで、斎藤さんが
アメリカへ留学していたころの写真が紹介された。
ロックにのめりこんでいた18歳ころなのだそうで、
いかにもパンクロックなわかものがそこにうつっている。
斎藤さん本人だとは、とてもおもえない。

『人新生の「資本論」』をよむと、このまま資本主義をつづけては
地球がだめになる、とおもえてくるけど、
それをふせぐためには、「私」をかなりおさえないといけないようだ。
総論としては賛成だけど、実践となると、
わたしはどれだけのことをやる覚悟があるだろう。
ただ、番組での斎藤さんからは、いい印象をうける。
いいのがれできそうにない、えらそうなひとから、論理的に
「私」をおさえよう、といわれても、なかなか実行できない。
でも、むかしパンクだったわかものなら、すこし事情がかわり、
なんだかしんじられそうな気がする。
斎藤さんのふつうっぽさが いいかんじだ。

『人新生の「資本論」』をよんでから、気候変動の問題が、
テレビや新聞でとりあげられるに 気づくようになった。
ことしもまた世界的に異常気象で、
イタリアやギリシャを熱波がおそい、
ドイツでは大雨による被害が問題となった。
日本だって、猛暑と梅雨前線という、
ありえない2つの現象が、どうじにおきている。
気温がたった1℃あがっただけでも、
これまでの数倍も 異常気象がひきおこされる。
新型コロナウイルスだって、ふえすぎた人間を
ウイルスがターゲットにしたものだと解釈できる。
アクセルから足をはなし、おもいっきりブレーキをふまなければ、
おおきな壁への衝突がすぐそこまできている。

あの本をよんで、おおきなショックだったのはまちがいないのに、
わたしは、あいかわらず具体的なうごきがとれていない。
ただ、サランラップのつかい方とか、
自動車や飛行機による移動へのためらいとか、
本をよんだときのショックが、ボディブローとして、
じわじわきいてくるのをかんじている。
定年とあわせ、自分のいきかたを かんがえるときのようだ。

posted by カルピス at 20:51 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月28日

「ぬか」の「なんでそんなんプロジェクト」がすばらしい

ひごろから交流のある7つの介護事業所があつまり、
実践報告会と講演会がひらかれた。
さくねんは、新型コロナウイルスの影響で中止となり、
2年ぶりの報告会となる。3つの事業所が
活動をつうじてかんじたことを発表する。
そのあとは、岡山県ではばひろい活動を展開する「ぬか」のようすを
代表の中野さんがおはなし してくださる。
http://nuca.jp/
コロナの感染がひろがっているなかなので、
Zoomによる講演会となった。
わたしは、なんねんかまえに、「ぬか」を見学している。
そのときも、ものすごく自由な活動におどろいたものだ。
その後も中野さんたちは、おもしろそうな企画をいくつもたちあげ、
ますます活発にうごいておられた。

そのひとつとして「なんでそんなんプロジェクト」がある。
意味がよくわからないことにたいし、
なんでそんなんやるの?と、いちいちつっこんでいく。
よくわからないものを排除するのではなく、
かといって、むりしてわかろうとするのではなく、
わからないままにたのしむプロジェクトだ。
「なんでそんなんやるの?」といいたくなることは、
現場にたくさんおちている。
芸術なのか、表現なのか、よくわからない。
たいせつなのは、それをおもしろいと気づくかどうかで、
職員には、おもしろさを発見する目がもとめられる。
そして、日々の発見・気づきを記録し、蓄積していくこと。
量があつまると、おもしろさがうまれる。

「なんでそんなんプロジェクト」には、
「なんでそんなん大賞」も用意されている。
世界じゅうのひとが、だれでも参加できる賞で、
国籍も年齢もとわない。
フランスの「アンデパンダン展」とよくにた精神だという。

中野さんのおはなしをきいていると、
「ぬか」のとりくみは、わたしがすきなwebサイト、
デイリーポータルZとよくにているのに気づく。
ふつうなら、意味がないときりすてられるような企画に、
おとなたちが正面からむきあっておもしろがる。
わたしたちの事業所は、すこしまじめすぎるのでは、とおもえてきた。
クッキーの仕事をしていると、どうしても衛生に気をつけたり、
生産数を確保したり、販売につとめたりと、
職員がでしゃばる場面がおおくなる。
わたしたちの事業所は、「なんでそんなんプロジェクト」を
たちあげるやわらかな精神があるだろうか。

「ぬか」は障害があるかどうかを あまり意識していない。
障害はあとづけされたもので、
そのひとの特質と関係ないかもしれない。
ひとりひとりの発言や行為じたいに
すぐれた資質がかくされているのであり、
障害があるから特殊だというのは おもいこみでしかない。

中野さんは、「ピンチはピンク」とかかれたTシャツをきておられた。
「ピンチはチャンス」なら だれにでもいえるけど、
「ピンチはピンク」はすごい。
このわけのわからなさを、おもしろがるところが「ぬか」なのだ。

posted by カルピス at 20:41 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月27日

3ヶ月後の治療が12月、におどろく

歯医者さんへ定期検診へ。
まえは1年にいちど、歯石をとってもらいに
歯医者さんにいく程度だったけど、
歯周病といわれてからは、3ヶ月ごとにかよっている。
そのつど歯茎の状態をしらべ、数値をタブレットにかきこみ、
前回の検診から どうかわったかを説明される。
そのあと歯石をとり、さいごに
男性の「先生」がチェックする、というながれだ。
いくらまじめに歯みがきをしても、
歯周病がいっこうによくならないので、
3ヶ月にいちどとはいえ、歯医者にいくのは気がおもい。
すこしずつ歯茎の状態がわるくなっているそうで、
親しらず歯が、ほかの歯にわるい影響をあたえるから、
はやくぬいたほうがいい、といつも先生にいわれる。

年をとれば、あるていど歯茎がおとろえるのは
しかたがないと、ひらきなおっていた。
老化にさからおうとすると、どこかにひずみがでる。
ジタバタせずに、親しらずはぬかず、
このままうやむやにすごせたら、とおもっている。

前回の治療のあと、歯茎がひきしまった気がする。
歯をみがいたとき、血がでることがなくなったし、
定期的に歯茎がはれて くるしむこともなくなった。
まじめに歯みがきをつづけた成果が、
ここにきて ようやくあらわれたのだろうか。
歯石をとると、歯をみがきやすくなり、
その結果として歯ぐきがしまってくるそうで、
まさにそんなかんじがしている。
わたしの実感を先生につたえると、
そうだとおもいます、いいサイクルになっているようです、
といわれた。
親しらず歯については、このままようすをみましょうと、
きょうは はじめてぬくはなしをされなかった。

しはらいのあと、3ヶ月後の予約をいれる。
11月の下旬かとおもっていたら、11月は予約でうまっているそうで、
12月3日はどうでしょう?といわれた。
次回の治療は、12月なのかとおどろく。
夏にしてはめずらしく雨もようの天気がつづいたあと、
またあつさがもどり、きょうはいつもの夏だった。
つぎに歯医者さんへいくときは、冬になっている、
というのが なんだかすごい。
夏から冬は、あっというまに季節がかわってしまう。
次回は、秋ではなく冬、というのが、きょうのおどろきだ。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月26日

キングサイズのグラスでのむウイスキーがたのしみ

ブログをかきはじめたら、あんがいとぎれずにつづけられたので、
そのうち、10年間かきつづけのが目標になってきた。
まいばんシコシコと記事を更新し、ついにあと10日となった。
グレートレースなど、超長距離レースでは、
ウィニングランといって、最終日は はしる距離をみじかくして、
これまでのがんばりをたたえる日とするようだ。
ゴールテープまでを、達成感にひたりつつ、
いっしょにはしってきたランナーと、
健闘をたたえながらさいごの道をゆく。

ウィキペディアをみると、ウィニングランの本来の意味は、
ゴールした優勝者が、観客の声援にこたえるために、
ゆっくりスタンドをはしることらしい。
でもまあ、ゴールまでのあとすこしの距離だって、
ウィニングランとよんでもいいではないか。
100里の道をいくときは、99里をもってなかばとせよ、
なんておかたいことをいうようりも、
ちゃっかりいまのうちから
「おめでとう10年」企画をたのしむのも、
自分にあまいわたしらしくていい。

ブログ10年連続を おいわい日は、たまたま禁酒100日目にもあたる。
めったにない記念日として、ひさしぶりのお酒をたのしもうとおもう。
家にあるグラスは、形もおおきさも いまひとつなので、
お酒の解禁日にそなえて、
アマゾンでタンブラーとビールグラスを注文した。
おもいっきりおおきなタンブラーがほしかったので、
430ccのものをえらんだら、ほんとうに、
わらってしまうぐらいおおきい。
タンブラーはこうでなくっちゃ、というよい見本だ。
こんなおおきなグラスでつよい酒をのんでいたら、
あっという間に依存症になりそうだ。

わたしがすきなカーター=ブラウンの軽ハードボイルドでは、
主人公のアル=ウィーラー警部が
キングサイズのグラスを愛用している。
いきさきで「なにかのみものは?」とたずねられると、
「スコッチのオンザロック、ソーダをちょっぴりいれて」
と いつもこたえるのがすきだった。
自分の家でくつろぐとき、おおきなグラスにたっぷりいれたお酒、
そして音楽のセットは、なにものにもかえがたい。
映画をみていると、ばかでかいグラスに
ウィスキーをすこしだけそそぐ場面をよくみかける。
オンザロックでなくても、ストレートでたのしむのにも、
おおきなグラスは ゴージャスな雰囲気をつくってくれるだろう。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月25日

うんこネタをおそれない林雄司さんがすばらしい

デイリーポータルZのwebマスターである林雄司さんは、
「うんこ」といいたいために仕事をしてるようなもの、
と どこかではなしていた。
いや、ちがうか。これはさすが記憶ちがいだろう。
「うんこ」といいたくて、はたらくひとなんているわけがない。
とはいえ、林さんがかく記事には、ストレートに
「うんこ」とかいてあるものがおおいので、
仕事の目的が「うんこ」ということではなくても、
「うんこ」といえる自由を わりとだいじにされているのはたしかだ。
わたしの記憶は あながちまちがえではないとおもう。

林さんが個人のブログ「やぎの目」にかいた今回の記事も、
タイトルは「皆既月食」だけど、ないようは ほぼ「うんこ」だ。
http://yaginome.jp/?p=3022
「いいえ、それはうんこです」。
たしかにおかしい。

ブログをかくときに、PVをかせごうとおもえば、
「うんこ」なんてことばを つかわないほうがいいそうだ。
糸井重里さんの「今日のダーリン」をみていると、
おしっこは「C」、うんこは「U」と、ストレートには
表現しないよう工夫されている。
これは、PVをかせぐための配慮というよりも、
いまこの文章をよんでいるひとは、食事ちゅうとか会議ちゅうとか、
いろんなシチュエーションがあるだろうから、
「うんこ」とか「しっこ」などと、無神経に連呼しないほうがいい、
という糸井さんなりの配慮があるのだとおもう。

ふつう、おとなはそんなふうに判断する。
林さんだって、それぐらいのことはわかっていながら、
それでも「うんこ」とかくことをおさえきれないから
ポロっと、いろんなところで「うんこ」とかいてしまうのだ。

わたしがながねんブログをつづけてるうちに、
すこしずつではあるけれど、PVがふえていった。
そりゃまあ、そうだろうな。まいにちシコシコと更新するのだから、
そのみかえりとして、PVがふえていかないとわりがあわない。
傲慢にそうかんがえていたある日、きゅうにPVがさがったときがある。
樋口毅宏さんの小説『テロルのすべて』をとりあげたつぎの日なので、
グーグルが「テロ」ということばをきらい、
検索されないように操作した結果なのでは、とおもった。
ほんとのことはわからないけど、
あまりにもきゅうにPVが激減したので、
グーグルの介入は、こういう形であらわれるのか、
と背中がゾゾゾっとした。なにか、いやなかんじだけど、
わたしはPVによってお金をかせいではいないので、
どれだけPVがへっても、実害はない。
ひとによまれない、というのはさみしいことではあるけど、
それだけ気らくに すきなことをかけるともいえる。
わたしは、「テロ」だろうが「うんこ」だろうが、
グーグルのご機嫌をうかがわずに かきたいことばをつかえる。

その点、林雄司さんはえらい。
Webマスターとして、PVを無視できない立場なのに、
小学生みたいに「うんこ」をつかいたがる。
確信犯であるために、グーグルもいまさら手をださず、
林さんのやりたいように させているのだろうか。

posted by カルピス at 21:52 | Comment(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月24日

『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか)

『チョンキンマンションのボスは知っている』
(小川さやか・春秋社)

著者の小川さやかさんは、タンザニア本国につづき、
香港で商売をするタンザニア人を調査している。
この本は、学術的な報告ではなく、
エッセイという形をとっていながら、
内容はじゅうぶん文化人類学で、
タンザニア人のビジネスマンたちが、
どのようなコミュニティをつくり、
商売にいかしているかを、こまかくさぐっている。

なお、チョンキンマンションとは、
香港の中心部にあるふるいビルのことで、
民族料理のレストランや、ゲストハウスが
びっしりとはいりこんでいる。
香港についたバックパッカーは、
とりあえずチョンキンマンションをめざし、
やすい宿を確保するのがおやくそくだった(1987年当時)。
1階にはアフリカ系やインド系のひとたちがたむろし、
いかにも外国にきたことを実感させてくれた。

チョンチンマンション(重慶大厦)のボスとは、
タンザニア人のカラマ氏(以下、「カラマ」)のことで、
カラマは、中古自動車や自動車部品をあつかう
ブローカーとして香港でビジネスを展開している。
タンザニア人など、アフリカ人に中古自動車をうりたいものの、
信頼関係のなさにためらう香港・中国の自動車業者と、
やすい自動車がほしいけど、自分で香港から輸入するのはちょっと、
というタンザニア人とのあいだにはいり、
おたがいのニーズをおぎなうのがカラマの役割だ。

カラマたちは、仲間と「タンザニア香港組合」をつくり、
香港でビジネスをするタンザニア人
(だけでなく、ケニアやウガンダ人も)が
たすけあって生きるしくみをつくりあげている。
たとえば、香港でタンザニア人の仲間が亡くなったとき、
組合がうごいて組合メンバーに寄付をつのり、
本国へ遺体をおくる手つづきをすすめる。
その過程は完全に自由なはなしあいで、
集会では、個人とのおもいでを、はなしたいメンバーがかたり、
どんなに親切にしてくれたかをのべるうちに、
「ある種の連帯感が即興的に醸成され」る。
カラマが必要な経費のみとおしをたて、
その説明を受けて、現組合長のイッサが「一人1000香港ドル(約120米ドル)の寄付を募りたい」と提案した。売春を生業にしている女性から「香港で商売をしている者なら、それがどんなビジネスでも1000香港ドルくらいは用意できるはずだ」と声が上がり、それに同意する声が続いた。
 その後にカラマは、各手続きを担当する者を順番に指名していった。寄付を集める係が四人、行政的手続きを担当する係二人、棺桶やエンバーミングの手続きを担当する係二人、家族との連絡係一人、中国のタンザニア人組合との連絡係ひとり。寄付を集める係が任命されると、すぐさまカンパ帳が回り始めた。

なんと ととのった組合であり、スムーズな連携プレーだろう。
強制ではなく、自由意志で、これだけの組合活動がおこなわれている。
「無理をしないこと」が基準であり、
最終的には「いろいろな事情があるんだから、
細かいことをいうのはやめようぜ」といった結論に落ちつく」そうだ。

香港でくらす、すべての外国人が、
タンザニア人のようにたすけあっているわけではない。
タンザニア人は、生粋の商売人で、
つねにどうやってかせぐかをかんがえている。
ひとのテリトリーにふみこまないけど、
協力できるところは協力しあう。
まったくしらなもの同士がであったときでも、
あいてがこまっていれば、そして自分にたすけるだけの余裕があれば、
ベッドをかしたり、食事をおごったりするのは
彼らの生き方において当然であり、
世話になったからといって、すぐにおかえしを気にしたりはしない。
自分のその余裕ができたときに、直接たすけてくれたひとにではなく、
みしらぬ同国人にたいし、手をさしのべたらいい。
わたしは、なにかプレゼントされたら、
なにをおかえししたらいいのかが気になってしょうがない。
はやく相手に それなりの品をかえし、おちつきたくなる。
ここらへんの心理がタンザニア人とはまったくちがうところで、
小川さやかさんは、彼らの商売が、どのような倫理のもとに
成立しているかをこまかくさぐっている。

カラマたちはスマホのSNSをつかい、ビジネスにつなげていく。
アルン・スンドララジャンは企業中心の現代は人類の歴史から見ればごく短期間にすぎず、産業革命までは大部分の経済的関係が個人対個人の形を取り、コミュニティに根ざし、社会関係と密接に絡まっていたと述べ、かつて存在した共有体験、自己雇用、コミュニティ内での財貨の交換が現代のデジタル技術によって復活しつつあるというのが、新規なもののように語られているシェアリング経済に対する正しい見方であると指摘している。

SNSの利用により、あたらしい方法がうまれたとおもっていたけど、
企業中心に社会がまわっている いまが特別なのであり、
産業革命までは、個人対個人でやっていた、
という指摘がおもしろい。

小川さんは、タンザニアの露天商を調査しているときに、
スワヒリ語を身につけ、こんかいのこの調査でも、
スワヒリ語ができるつよみをいかし、
ややこしくてふかい内容までを 自由にやりとりしてききだしている。
タンザニア人たちのコミュニティにはいりこみ、
仲間としてうけいれられ、スワヒリ語を自在にあやつって、
彼らのくらしをききだしている小川さんは すごくたのしそうだ。
小川さんにしか かけない本にしあがっている、といっていいだろう。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする