2017年09月04日

アジアのトイレが洋式になってしまった

角田光代さんのエッセイをよんでいたら、
トイレにまつわるはなしがのっていた。
家の便器がこわれたので、あたらしいのをかうと、
乾燥ボタンがついてなかったそうだ。
角田さんは、おしりを電気でかわかすなんて、
さほど必要な機能におもえなかったので、
不人気な乾燥機能が淘汰されたとおもわれたようだ。
じっさいは、角田さんが
たまたま乾燥機能のない便器をえらんだだけで、
半分ほどの機種にはいまも乾燥ボタンがついているらしい。
そうしたマクラから、角田さんがわかいころ旅行した
アジアのおおくの国では、おしりを手であらったものだと、
テーマであるトイレのはなしにはいっていく。

そういえば、このごろはアジアへでかけても、
手でおしりをあらわなくなった。
宿には洋式の便器ばかりがおいてあり、
トイレットペーパーもついている。
わたしの旅行スタイルがかわり、
やすいゲストハウスにとまらなくなっただけが原因ではなく、
個室には西洋便器が基準になりつつある気がする。
バスで長距離を移動するときの休憩所には、
アジア式のトイレがあるので、
まったく目にしないわけではないけど、
やすい宿でも洋式トイレがふつうにそなえつけてある。
ただ、トイレに紙がつまるのをふせぐために、
おしりをふいたトイレットペーパーは、
トイレにおいてあるゴミ箱にすてるのが基本なので、
日本人としては、すこしひっかかる。
水のながれもいまひとつで、なかなか便器がきれいにならない。
こんなことなら 手と水でおしりをあらうほうが気もちいい。

以前は、アジアを旅行していると、おおくの国で
どうしてもおしりを手であらわなければならなかった。
便器のよこにおいてあるオケから容器で水をすくい、
おしりのうしろ側から水をかけながら、
まえから手をまわしておしりをきれいにする。
なれてくればとまどわなくなるし、あんがい気もちがいい。
注意しなければならないのは、ネパールやインドなど、
トイレのない家がおおい地域をあるくときで、
気をつけないと、ウンコをふんづけてしまいそうになる。
ネパールでトレッキングをしていたら、
うつくしい景色とウンコがセットになっている場合があり、
あやしそうな場所では用心が必要だった。

ただ、そとでウンコをするのは、ある種の快感があり、
せまくてきたないトイレよりも
気もちよく用がたせるのもたしかだ。
わたしは、日本で野良仕事をしているとき、
がまんできなくなって、外でなんどかウンコをした。
ひとにみられないように、と
コソコソおおいそぎでするのではなく、
みはらしのいい丘のてっぺんで のんびり腰をおろしたのは
すてきな経験だった。
人口密度のたかい都会では まず味わえないよろこびだろう。
もっとも、ひとの目を気にしつつ、
という状況のほうが刺激的ですきだ、という意見もあるかもしれない。
そとでするトイレは あんがいおおくのひとが
秘密の体験をもっており、話題がなくなったときにたすけてくれる。
まだこころみたことがない方は、
いちど外でおしりをさらしてみるよう おすすめしたい。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

『中年だって生きている』(酒井順子)中年期をむかえる女性の本音

『中年だって生きている』(酒井順子・集英社)

先日よんだ群ようこさんの『ゆるい生活』とおなじように、
中年期にさしかかった女性が、自分におとずれた老化を
どうとらえるかについてかかれている。
年齢でいうと、群さんはわたしの7歳うえ、
酒井さんはわたしの5歳しただ。
わたしをふくめた3人がかんじている「老化」の微妙な差は、
すこしずつずれている 世代のちがいではないだろうか。

本の内容について、おおまかな印象としては、
群さんが、どこまでも個人の体験をこまかくかいているのに対し、
酒井さんは、自分だけでなく、まわりの女性たちの声もつたえている。
酒井さんのもち味は、主流派に位置する女性たちの声を
ありのままにおしえてくれるところだ。
少数派の意見ではなく、主流派というのがミソで、文章をかくひとは、
中心からすこしはなれたポジションをとる場合がおおく、
本をよんでいるだけだと、そうした少数派の意見ばかりが目にはいる。
酒井さんは、高校生のころから、
彼女と彼女の仲間たちが、いったいなにをかんがえ、
なにをしているのかをおしえてくれた。
教室のすみっこにいる 一部の女の子に焦点をあてるのではなく、
クラス全体の雰囲気をつたえている。
そうした声はなかなか男性にはとどかないもので、
まるで女子会ではなされている内容を、
おしえてもらっているような気がしてくる。
友人がおばちゃんに見える時というのは、すなわち「ラク」の方向に逃げた時です。「お洒落は我慢だ」という話もありますが、人は年をとると、肉体的な我慢がどうしたって利かなくなるもの。「お洒落」と「ラク」を天秤にかけて「ラク」の方に目盛りがぐっと傾いた時に、私たちはある一線を超えるのです。

「綿のパンツ」は、いうまでもなく非モテアイテムです。熟女ものAV、それもかなり特殊なセンスの作品にしか、綿のパンツを着用した女は登場しないことでしょう。女物の綿のパンツが干してあるご家庭は、明らかにセックスレスだと思う。

パンツの秘密を、ここまでおしえてくれるひとは なかなかいない。
そもそも、酒井さんはパンツをちゃんと「パンツ」とかいてくれる。
わたしの酒井さんへの信頼は、そうした感覚を共有しているからだ。

たった「ファッション」というひとつのみだしだけをとっても、

・ロングスカートのおばちゃん性
・おばさんになるとき
・きゅうくつを我慢できなくなり、ゆるさをもとめる
・なぜ綿のパンツなのか

など、いくつもの「気づき」や「告白」がつまっている。
女性のこんな事情を セキララにあかすのは、酒井さんだけだ。
人間、ウエストにゴムが入ったものを着るようになったらおしまいだ、という話もありますが、私はもはやゴム入りのものすら嫌いです。なぜならば、ゴムというのは伸びもするけれど縮みもするので、その縮み力が腹に食い込むのが嫌なのです。

「腹に食い込むのが嫌」とまでうちあけてくれる酒井さん。
酒井さんは、このようにして、いつも女性の本音をおしえてくれる。

posted by カルピス at 18:25 | Comment(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

『ゆるい生活』(群ようこ)

『ゆるい生活』(群ようこ・朝日新聞出版)

50代のまんなかで、体調をくずした群さんが、
漢方薬局のマッサージにかよい、
だんだん自分のからだとのつきあい方に目ざめていくはなし。

群さんは、からだがひえやすく、余計な水分をためがちな体質で、
とどこおっている水をだすために、
週にいちど、リンパマッサージをうける。
マッサージの先生は、群さんのからだにふれただけで、
ときには顔色や表情をみただけで、体調をいいあてるゴッドハンドだ。
リンパマッサージは、はじめのうちすごくいたいけど、
漢方薬局へかようにつれ、だんだんと余分な水分がぬけ、
体重がへり、なやまされていためまいがおきなくなる。
でも、それで問題が解決されたかというと そうではなく、
老化をむかえつつあるからだと、
どうおりあいをつけていくかが これからの課題となる。
(マッサージをうけるようになって6年がたち)当時よりははるかに体調はよくなってきているけれど、加齢という問題はこれからもずっと続く。体調が回復したのはいいけれど、加齢による身体のトラブルのほうが上回れば、再び体調が悪くなる可能性がある。

私にとって快適にくらすためには、
「増やすよりも減らすほうが大事」
だった。身体によいことをするより、身体によくないことをしないほうがいい。

年齢を意識しすぎないほうがいい、とか
気もちがげんきならいつまでもわかくいられる、
みたいなことがよくいわれるけど、
できればそうありたいとおもいつつ、
わたしはどうしても年齢を気にかけてしまう。
56歳でこんなにたいへんなのだから、
これからどんな老化がまっているのだろう。
トレーニングまえはいつだってからだがだるいし、
記録は年々おちていく。
朝おきたときからのつかれはいったいなんだ。
かといって、なにかが決定的にわるいわけではないので、
コーヒーや寝酒をガマンしてまで健康をめざしたくはない。
群さんのように、ひどい体調不良になやまされなければ、
なかなか習慣はかえられないだろう。
本当に疲れやすく、ふんばりがきかなくなったのは感じる。でもそれならそれなりに、仕事さえやっていれば、だらだらと過ごしてもいいかなと考えている。とにかく、
「無理をしない」
それだけで生きているといった感じなのである。

わたしもまた、トレーニングを中心にした生活ではなく、
「無理をしない」を、
からだがもとめているのかもしれない。
群さんみたいに 毎週ゴッドハンドのマッサージをうければ、
体調もよくなるだろうけど、
わたしの経済力では そんなぜいたくはゆるされず、
「無理をしない」を基本方針に、
自分のからだとおりあいをつけていくしかない。

posted by カルピス at 14:24 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月01日

教訓にみちている安藤昌教さんの「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」

すこしまえのデイリーポータルZにのった
「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」(安藤昌教)
がおもしろかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170721200204_1.htm
鉄道写真には写真のテクニックが凝縮されている。
そのテクニックを駆使して人を撮ると、それはもう電車に見えるんじゃないだろうか。

結論からいうと、ひとが電車にみえるわけはない。
でも、強力で乱暴な仮説のもとに、
プロの鉄道写真家をひっぱりだして、
記事を成立させてしまう 安藤さんのちからワザにおどろくこととなる。

・正面ドカン
・アウトハイ
・インロー
・アウトカーブ0角度
・流し撮り

鉄道写真には、いくつもの手法があり、
それぞれが、電車の魅力をよくひきだしている。
しかし、それらのとり方をもってしても、
ひとはどうしても電車にはみえない。
本物の電車とひととのギャップはいかんともしがたく、
想像力を駆使しても、ひとと電車はあきらかにちがう。
テーマである「人は電車に見えるか」よりも、
モデルをひとにかえることで、鉄道写真のテクニックのすごさを
紹介するための記事といっていいのでは。
それほどプロによる鉄道写真は迫力がある。

モデルとなったライターの地主さんは、
鉄道写真家の金子さんからうける技術指導にそって、
一生懸命 電車になりきろとしているけれど、
しかし ひとと鉄道との差は いかんともしがたい。
まじめにとりくめば とりくむほど、
これはいったいなんの撮影なのかと、
地主さんは とまどいの色をかくせない。
それはそうだ。ひとが鉄道に、みえるわけがないのだから。

みえるわけがないけれど、それを承知であえて記事にする。
「こういう企画では我に返るの厳禁である」
という、安藤さんの気づきが身につまされる。
われにかえると とてもやってられないので、
かんがえるのをやめ、ひたすらゴリゴリとまえにすすむ。
ブログをかいているとき、わたしにも ときどき疑問がわくことがある。
意味がないのをしっているくせに、
わたしはなにをしようとしているのか。
安藤さんの記事をよむと、わたしのまよいなど
とるにたらない あまえたレベルだ。
われにかえらないほうがいい瞬間はおおい。

posted by カルピス at 10:45 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

祝 日本代表 2018Wカップ ロシア大会へ

Wカップアジア最終予選、
対オーストラリア戦に日本が2-0と勝利し、
2018ロシア大会への出場をきめた。
ロングボールでいっきょにゴールまえにせまり、
フィジカルのつよさでゴリゴリおしてきたオーストラリアは
すでに過去の姿となった。
いまは、キーパーからパスをつないでせめあがるサッカーをめざし、
世界で通用するチームへと、戦術をきりかえちゅうだ。

解説の木村さんが、なんどもくちにしていたのは、
「パスをつないでくれて、ほんとうにたすかった」
というセリフで、
事実、オーストラリアは後半にケーヒルをいれても
戦術そのものはかえないで、あいかわらずパスをつないできた。
オーストラリアにとって、
チームをつくりなおしている期間なのだから、
めさきの勝利にこだわらず、パスをつなぎつづけるのは、
適切な方針かもしれないけど、
日本にとって、そのほうがやりやすかったのはたしかだ。

とはいえ、前半41分に浅野が先制点をいれるまで、
せめながらも、シュートをはなちながらも、
日本は得点をうばえずに、いやな展開になりかけていた。
実況アナウンサー氏は、
「点がはいらなかったら、どうしようかという前半でした」
とあとからふりかえっている。
これまでの日本がそうだった。
シュートをたくさんはなちながら 決定力をかき、
自分で試合をむつかしくしている。
きょうは、後半に2点目を井手口がきめ、
戦術をかえてこないオーストラリアにもたすけられた形で、
あぶなげなく試合をおえている。

香川・本田・岡崎という、これまでの中心選手にかわり、
浅野・井手口・大迫・乾が先発でピッチにたつ。
選手たちは90分をつうじてよくはしり、
相手にプレッシャーをかけつづけた。
つぶされても、なんどでもボールにからんでいく姿勢が、
試合終了のホイッスルがなるまでかわらない。
はしりつづける選手たちがたのもしかった。

試合終了後のインタビューで、
ハリルホジッチ監督は、インタビューというよりも、
ひとりでかってに演説していた。
「ありがとう。メルシーボクー。ファンタスティック!」
4年前もこんなかんじでスタジアムがよろこびにつつまれた。
Wカップの出場をきめたときの監督・選手たちの感激は、
みているものの胸をうつ。
4年前も 相手はオーストラリアで、会場もおなじ埼玉スタジアム。
後半ロスタイムにえたPKを 本田がゴールのまんなかにきめて、
劇的なかたちで同点においつき、ブラジル大会への出場をきめた。
あのときと、きょうの試合の両方に先発したのは
川島・長友・長谷部、そして吉田の4名だ。
いまの日本代表は、若手とベテランが、
いいかんじで融合したチームといえるかもしれない。
オーストラリアに2-0での完勝は、
ハリルホジッチ監督になってからのベストマッチだった。

posted by カルピス at 23:07 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

まくらのうえでピピがおしっこ

ゆうべは、ピピがベッドのうえで、2どおしっこをした。
いちどめは、あつさ対策としてしいているゴザのうえで。
にどめは、まくらのうえだ。
まくらには、もちろんわたしの頭がのっているはずだけど、
わたしがトイレにいっているあいだに
(スキをみはからったかのようだ)、
まくらのうえにすわりこんでいた。
足元には、おしっこのシミがみえる。
こんなときにかぎって、
まくらの裏側までおしっこが貫通するほどの
大量のおしっこが放出されたようだ。

まくらのうえでおしっこをされると、とてもこまる。
まくらのうえでおしっこをされたトホホ感は、
まくらのうえでおしっこをされたひとにしかわからない。
今夜わたしはどうやってねればいいのか。
まくらカバーをあらっただけではダメで、
なかにはいっているちいさなつめものを あらわないくてはならない。

ピピがまくらのうえでおしっこをするのは、
いやがらせではなく、ネコはこういうちょっともりあがった
やわらかいところがすきだからだ。
うずくまるだけならいいけど、おしっこはひどい。
ピピは、最低限の量をたべ、水ものんでいるので、
なんとか夏をのりきってくれたけど、
ますますやせてしまい、顔までとんがってきた。
でも、まだベッドにとびのるちからがあるし、
なによりも食欲がピピのいのちをのばしている。

ほぼ日にのる「ドコノコカメら」には、
まいにちかわいいネコや犬の写真が掲載される。
かわった顔だったり、表情がおもしろかったり、
かわいいしぐさだったり。
どのコも、それぞれ「かわいい」としかいえないくらい「かわいい」。
いつの日か、ピピの写真がのらないかとまっているけど、
競争がはげしいらしく、なかなかピピまで順番がまわってこない。
ピピみたいに、おしっこまみれのあげく
手足が黄色くなったネコが「ドコノコカメら」にのれば、
それはそれで反響があるのではないか。

わたしはまいちにピピとつきあっているから気づかないけど、
おそらくわたしの部屋はそうとう
ネコのにおいがしみついているだろう。
もしかしたら、すでにわたしのからだからも、
ピピのおしっこのにおいがただよっているかもしれない。
ネコのおしっこのにおいがする不潔な男と、
女性にきらわれたら どうしてくれるというのだ。
でもピピは、夜になるとわたしのベッドにきてくれるし、
きっと今夜もベッドのどこかでおしっこをする。
トイレシートをすきまなくしいて、万全の対応でのぞみたい。
とはいえ、おしっこをされてこまる場所はたくさんある。
まるで北朝鮮のミサイルみたいに、わたしの裏をねらってくるだろう。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

にげまくって生きてきた男の末路は?

たかい目標をかかげてトレーニングをかさねたり、
ライバルや自分自身にまけないよう
たいへんな努力をつみかさねたりと、スポーツにかぎらず、
なにかに成功したひとの苦労ばなしが紹介されると、
わたしは、楽をして生きてきたなー、とおもう。
トレーニングがきらいなわけではないけど、
とことん自分をおいこむまで負荷をかけたのは、
大学生のころまでで、あとは自分にここちよいペースにおさえている。

スポーツだけでなく、仕事でも、対人関係でも、
いやなことから背をむけ、それでもたりないときは、
にげまくってきたのがわたしの人生だ。
梅棹忠夫さんの『わたしの人生論』につよい影響をうけ、
わかいころから人生を半分おりたように生きてきた。
ぜんぶおりようとするとたいへんだけど、
半分おりるだけなら あんがいかんたんだ。
〜するべき、とかの正論で自分をしばらない。
勇気も否定して、楽なほうに、プレッシャーのないほうにと、
自分のすすむ道をえらんできた。
向上心もなく、これまでされてきたことを ただくりかえす。

すこしまえの記事で、いまはやりらしい「末路本」をとりあげ、
「わかいころから はっきりとした方針のもとに生きていたひとが、
その後どんな生活をおくっているのかしりたい」
とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/452706078.html?1504009220
ある傾向のもとに生きてきたひとの、その後をしることで、
いろんな生き方のモデルとなる。
記事をかいたときは気づかなかったけど、
にげまくって生きてきたわたしの生涯も、
これはこれでひとつのケースとして、
あんがいなにかの参考になるかもしれない。

わたしはいま56歳で、あともうすこし生きるだろうから、
まだ最終的な「末路」が決定したわけではく、
いまのところ、という限定つきでの末路だ。
わたしの感想としては、にげまくって生きても
それなりになんとかなる、というものだ。
はなばなしい活躍をしたひとや、
たかい目標をかかげて努力したひととくらべると、
はるかに質はおちるだろうけど、だからといって後悔はない。
なにかの達成にむけて生きるのは、もちろんひとつの選択だけど、
そうでないからといって、けしてはじることはない。

自分の意志よりも、状況にながされ、
うけみで生きるのもまた、ひとつの選択だ。
自分からうごかなくても、じっとしていたら、
状況がすこしずつかわってゆき、
その結果、自分の仕事や立場もかってにうごいていく。
なんと志のひくいやつだといわれても、
志じたいを否定しているので 反省したりしない。

わたしはこれまで仕事を4回やめてきた。
それでもなんとかたべられているし、
結婚もして子どももひとりできた。
にげまくってきた人生は、いまのところそうわるくない。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

音楽の世界は、いまも神童たちが生まれているのか

「クラシックカフェ」などの音楽番組では、
演奏家や作曲家を紹介するときに、
8歳から才能を開花させ・・・、みたいなはなしがよくでる。
おさなくして数十曲の作曲をしたとか、
10歳にならないうちから、国王のまえでピアノを披露したとか。
むかしの大音楽家たちのおおくが、おどろくほど おさないころから
ゆるぎない神童であった。
いまもまた、そうした天才たちが、音楽の世界にはいるのだろうか。
音楽の世界では超有名であっても、
一般にはあまりしられていないだけなのか。

音楽の天才たちが花をさかせた時代は、
音楽くらいしか、目だった才能を発揮できなかったのかもしれない。
貴族だったら乗馬やキツネがりなどで
ひいでたうでまえを披露する機会があるけど、
庶民クラスの階層では、音楽にすぐれるぐらいしか、
成功をおさめる場面がない。
だれもがきいて、はっきりわかる技能が、音楽だった。
音楽方面での突出した才能を
パトロンである貴族たちはまちのぞんでおり、
すぐれた子が才能をみせると、すぐにケアされて、
大演奏家のもとへでむいてトレーニングをうける
(ような気がする)。

いまは、スポーツやパソコンなど、
天才が能力をあらわせる場所が
音楽のほかにもたくさんある。
サッカー選手など、だれにもできないような技を披露し、
スポンサーが何十億もの価値をみとめるのだから、
むかしの音楽家に匹敵する天才たちといえるのではないか。
将棋の藤井四段も、わかりやすい形であらわれた超天才だ。
ひとけたの年齢で、すでに将棋界から注目されていた。

ものすごくおおざっぱにいってしまうけど、
ほんの100年か200年のあいだに
ポコポコと大音楽家たちが生まれ、
そのおおくはおさないころからの神童だった。
そしてクラシックは、大音楽家たちが世をさってからも、
歴史の波をかいくぐり、おおくのひとから愛され、
世界じゅうで演奏されつづけている。
音楽の世界では、8歳で作曲をはじめるような天才が、
いまもあちらこちらでそだっているのだろうか。

posted by カルピス at 23:14 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

スイカにたすけられたことしの夏

ことしの夏は、スイカなしではこせなかっただろう。
ほぼ毎週、半分にきったスイカを業務用のスーパーでかっている。
値段はこまかくうごいた。
780(鳥取産)→880→980→780(青森産)→680(北海道産)

値段の頂点である980円は、何週かつづいた。
ほしいけど、たかい。たかいけど、
まだしばらくは値段がさがらないだろう。
足もとをみられているようでシャクだったけど、
980円でもかうしかなかった。
こまかな値段のあがりさがりは、
当然ながら需要と供給の関係がよくあらわれている。

例年だと、お盆をすぎればスイカの味がおちるし、
からだもスイカをもとめなくなるけど、
ことしは8月下旬になってもそこそこおいしいし、
はしったり、草かりなどで汗をかいたあとは
スイカしか からだがうけつけないようなときがあった。
まだ車にのる用事があるときは、スイカだけがたよりだ。

車にのらなくてもいい日は、
水風呂につかってビール、というのをなんどかやった。
イメージとして水風呂でのビールが大切なのであり、
頭におもいえがくと、ひどいノドのかわきを なんとか我慢できる。
水風呂につかってビールをのんでも、
じっさいはそれほどの快感はないけれど、
そうやってもりあげるのが 夏をたのしむひとつのコツだ。

ねるまえのお酒は、ジン=トニックにとどめをさす。
ボトルもグラスも冷凍庫でひやしておき、
氷はロックアイスでありたい。
これまでレモンをしぼっていたけど、
ライムのほうがジン=トニックにはよくあうのがわかった。
おかわりには、ジンをウォッカにかえる。
ウォッカにもまたライムがピッタリなので、
よくひえた2種類の酒が夏の夜を居心地よくしてくれる。
チェイサーというか、水もいっしょにのむようにしている。
つぎの日にアルコールがあまりのこらなくなった。

なんだかんだで、すこしくらいあつくても
夏は夏でわるくない。
それにしても、スイカにはお世話になった。

posted by カルピス at 18:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

雷におびえながら 命がけでおよぐ

県立プールについたとき、ちょうどはげしい雨がふってきた。
いかにも「大気の状態が不安定」な雨で、
どしゃぶりとこぶりをくりかえす。
雨がよわくなったスキをとらえて車からでた。
駐車場に水がたまっており、シューズがずぶぬれになる。

外にある50メートルプールでおよごうとすると、
職員の方に「雷がなったらあがってもらいます」といわれた。
そうか。雷がおちる危険性があるのか。
わたしが死ぬときは、もしかしたらこんなふうに
不意の事故によるものかも、と頭をかすめた。
老後にたのしもうとしている旅行へいけないし、
いろいろとはずかしいものをのこしたまま、
雷で死ぬなんて、たまらんとおもうけど、
わたしの死に方として、いかにもありそうだ。

まえは自転車での事故で死ぬような気がしていた。
いつもあぶなっかしい運転をしているし、
いつまでも自由自在に自転車をあやつれるとおもっていたら、
からだがついていかなくて、車にひかれる、というシナリオだ。
でも、交通事故は死ぬまでいたそうだし、
もしすんなり死ななくて、マヒがのこったりしたらこまる。
おなじ不慮の事故でも、雷で一瞬に死ぬほうが
あっさりしていて わるくないようにおもえてきた。
そんなことをかんがえながらおよぐと、水泳も命がけだ。
命をかけておよぐ自分が、かっこいいような気もしてくる。

あぶないのなら、およがなければいいのに、
もしかしたら雷がおちるかも、とおもいながらの水泳は、
しめきり間際のあせりみたいに
おしりのほうがムズムズしてくる。
そうまでしておよぐ自分がいとおしい。
命をかけておよぐなんて、なかなか体験できない。
ピンピンコロリには、落雷がおすすめかもしれない。

さいわい雷はおちることなく、
わたしが1500メートルおよぎきるまでまっていてくれた。
雷を気にして はやくおよげばいいのに、
いつもよりもっとおそく、1500メートルに40分もかかる。
最低記録だ。雷にうたれるのを おすすめしたくなるレベル。
命をかけたわたしの冒険は、なにごともなく無事におわる。

posted by カルピス at 09:21 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする