2017年08月25日

シャツをズボンのなかにいれる

シャツをズボンやスカートのなかにいれるのが
このごろ はやっているらしい。
ファッションにうといわたしが気づくほど、
そうした女性がよく目につくようになった。
ダサいといわれたこの着こなしを はやらせたひとはえらい。
まえはダサさの象徴みたいだったのに、
シャツをいれるのがおしゃれと、価値観を180度かえてしまった。

背中から、シャツをちょろっとだす、というのを
すこしまえによくみかけた。
ファッションなんて関心なさそうな女性でも、
ちゃんと背中からシャツをだしているので
流行のちからをおもいしらされたものだ。
女性だけでなく、意識のたかいひとは
男性でもシャツをだしていたのをおぼえている。
「ちょろっと」というのが特徴で、
「ちょろっと」だすためのシャツがよくうれたのではないか。

酒井順子さんの本に、
私たちは「どう見られるか」に命をかけたような高校生活を送っていたわけですが

という記述があった。(『下に見るひと』P70)
おおくの女性は、ファッションの訓練を、
小学生くらいのときからやってるわけで、男とは年季がちがう。
男子生徒にも、なかにはそうした「青春」を
おくっていたひとがいたかもしれないけど、
すくなくとも、わたしのまわりにいた男たちにとって、
ファッションは必然ではなかった。

いまの、シャツをズボンのなかにいれるスタイルは、
これだけは流行ってほしくなかったと、
おもっている女性がおおいのではないか。
強調したくない部分をシャツがかくしてくれていたのに、
それがきんじられてしまった。
ふつうにかんがえると、
シャツをいれられるひとと、
いれられないひとに、はっきりわかれそうだけど、
ファッションへの関心が、不可能を可能にかえていくような気がする。
どうやって 女性たちがシャツをズボンのなかにいれるのか、
勉強させてもらおう。

わたしは、シャツをちょろっとだしもしなかったし、
ことしの夏も、シャツをズボンのなかにいれたりしない。
なにがはやっていようが、まったく関係ない態度だ。
お腹がぽっこりでているわけではないけど、
流行のために服をかうほど勤勉ではない。
おおくの男たちが、わたしとおなじように、
流行と関係なく生きているようにみえる。
ファッションのことをかんがえると、
男にうまれてたすかったとおもう。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

『騎士団長殺し』雑感

『騎士団長殺し』(村上春樹・新潮社)をよみおえる。
たいへん興味ぶかい小説であるのはまちがいないとして、
いくつか気になるところがあったので、
よみおえた印象を、ざっとかいておきたい。
ネタバレというか、この本をよんでないひとには、
なんのことかわからない「印象」だけど、
いちどめによんだときにかんじたわたしの率直な感想だ。

・免色さんにたのまれた肖像画は、いくらしはらわれたのだろう。
 依頼したときに500万円、じっさいにふりこまれたのは、
 ボーナスとしてうわのせした600万円というのはどうだろう。
・年上のガールフレンドが、
 免色さんのことをやたらとしりたがるので、
 ゴシップずきな俗物におもえてきた。
 「私」は彼女に、免色さん情報を
 そんなにくわしくかたらなくてもいいのに。
・雑木林にある祠に重機でいれたのは水曜日だけど、
 この日の夕方は絵画教室の仕事があるはずなのに、
 なんの説明もない。
・免色さんが「私」のむかえによこしたインフィニティの運転手は
 「顔色ひとつ変えずに」まがりくねった道を運転したとあるけど、
 「顔色ひとつ変えずに」は、おもしろみのない いいまわしだ。
・秋川まりえの表情について
 「食べかけの皿を途中で持って行かれた猫のような顔つきだった」
 がうまい。
・伊豆の療養所から「私」がぬけだしてからの何章が、
 かなりたいくつだった。
・「私」がのるカローラは、ほこりがつもるほど
 ほったらかしになってる、となんども「埃」がでてくるけど、
 車をただあらわないだけなら そんなにほこりはつもらない。
・イデアとしての「騎士団長」は、
 高橋留美子さんのマンガにでてくる
 カラス天狗をおもいえがくとピッタリだ。
・髪がまっしろ、とかいてあるのに、
 免色さんを俳優の渡辺謙さんにおきかえてしまう。
 はなしかたやしぐさが、いかにも渡辺謙さんだ。
・おわりのほうがかなりしりつぼみにおもえる。
 それまでは、ずいぶんこまかくさまざまな描写があるのに、
 いったん「事件」がかいけつすると、
 バタバタバタっとかたづいてしまった。
・「私」の子が保育園にはいったけど、
 小田原は待機児童問題はないのだろうか。
・「私」は、たずねてくる客を、
 しばしばカーテンのすきまから観察している。
 あまりいい趣味ではないのでは。
・「自分のとった行動が適切なものだったかどうか、
 いまとなっては確信が持てなかった」(第2部P454)
 村上さんの小説に、よくでてくるフレーズだけど、
 確信がもてないことがよくあるのは、
 あたりまえにおもえるけど。
・免色邸にしのびこんだ秋川まりえが、
 「侵入を防ぐための、手に入るすべての防犯手段が用いられている」
 とおもった場面があるけど、
 12歳の女の子になぜそんなことがわかるのか。
・秋川まりえのおばさんの胸について
 「オリーブの種を思わせる叔母さんのそれとは比べようもない」
 とあるのは、種ではなく実ではないのか。
・夕食に、そんなに時間がかかるだろうか?
ブリの粕漬け
漬け物
キュウリとわかめの酢の物
大根と油揚げの味噌汁
米飯
「その簡素なひとりぼっちの夕食を食べ終えかけた頃に」
 秋川まりえがやってくる。(第二部P47)
 「私」はまりえを家にいれ、「最後まで食べちゃっていいかな?」
 とことわってから 「食べ終えかけ」ていた夕食にふたたびむかう。
 わたしの疑問は、わずかなおかずの夕食なのに、
 しかも「食べ終えかけて」いたにもかかわらず、
 再開してからさらに
 「ブリの粕漬けを食べ、味噌汁を飲み、米飯を食べ」るのは
 ずいぶん時間がかかるじゃないか、
 というイチャモンみたいなものだ。
 よほど一品がおおもりなのか、
 ひとくち100回以上よくかんでいるのか。
 まるで夕食のスタートから
 まりえがみまもっているみたいな描写は
 おおげさではないだろうか。
・氷をいれないのが一般的なシングルモルトを、
 オンザロックでのむのはなぜか。(第二部P137)

ついこまかなところが気になったけど、
すばらしい作品であり、たのしい時間をすごせた。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

ポカラで突然きいた「ありがとう」の主題歌

きょうの仕事は車での移動がおおく、
そのせいか ラジオをよくきいたいちにちとなる。
まず、NHK-FMで「プレイバック・昭和歌謡主題歌集」をやっていた。
・行け行け飛雄馬
・アタックNo1
・タイガーマスク
・あしたのジョー
と、すごくなつかしい。
アニメ特集かとおもったら、
・時間ですよ
・サインはV
・ありがとう
など、ドラマの主題歌もかかる。
どれもそれぞれになつかしい。
番組のサイトをみると、あすは
・太陽がくれた季節
・天才バカボン
・キューティーハニー
・デビルマンのうた
・マジンガーZ
などが予定されている。
仕事ちゅうでもなんとか理由をつけて
車のラジオでききたくなった。きっときくだろう。
ツボをおさえた選曲がすばらしい。
むかしなつかしい気分をたくみにくすぐられて、
ズルズルと、いつまでもきいていたくなる。

「ありがとう」は、わたしが小学生のときの番組だ。
母親がこのシリーズをよくみており、
わたしもつきあってみていたので、主題歌までよくおぼえている。
中国の雲南省を旅行していたとき、
かなりの田舎町にある旅館では
1台のテレビをおおぜいのひとがかこんでみていた。
そのときやっていた番組が「ありがとう」だったので、
なんだか不思議な気がしたものだ。
典型的な日本人気質をえがいたドラマが、
中国の田舎町のひとがみておもしろいのだろうか。

そのあとも旅行をつづけ、何ヶ月かのちに ネパールのポカラについた。
いまのわたしには とてもまねできないけど、
そのころは旅行先であんがいほかの旅行者と かんたんにしたしくなり、
いっしょにごはんをたべたり、
雑談にふけったりして無為な日々をすごしている。
ある日、なんにんかで町の食堂にでかけ 夕ごはんをたべ、
てきとうなはなしをしながら
ゲストハウスにむかってあるいていると、
そのなかのひとりがきゅうに
「さわやかに 恋をして・・・」とうたいだした。
「ありがとう」の主題歌だ。
うたったのは、すかしかわっているけど、
そんなところもふくめて みんなからかわいがられていた若者だ。
江戸川にすんでいるので、「江戸川くん」とよばれていた。
なんできゅうに「ありがとう」をうたうのか たずねると、
「なんとなく」と、とくに理由はないらしい。
それにしても、ポカラにきてまで「ありがとう」の主題歌をきくとは。
ポカラといえば「ありがとう」をおもいだすぐらい、
印象にのこるできごとだった。

夕方の番組では、「ゆうがたパラダイス」で
水曜日担当の津野米咲さんが「赤い公園」のなかまたちと
電話でおしゃべりするコーナーがあった。
そのなかでメンバーのひとりが
「おまつりはたのしむものだからね」
といったのが胸にひびく。
たしかに。おまつりはたのしむものなのだ。
ひとがいっぱいいていやだ、とか
タコヤキもからあげも、どれも値段がたかい、とか
つまらないことをいって水をさすのではなく、
こころをおおきくひらいてとにかくたのしむ。
わたしは、こうしたまずもっての前提をまちがえることがよくあり、
たのしむ機会をのがしたり、だいなしにしがちだ。
たのしくするかどうかは自分しだいなのに、
おまつりにでかけようともしないで、
はじめからつまらないものときめてかかっている。
「おまつりはたのしむもの」という前提を たいせつにしたい。

「赤い公園」は、津野米咲さんが
ひとりめだっているグループかとおもっていたけど、
ほかの3人もみんないいかんじだ。
自由なこころがまえが気もちよかった。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

毎週のイオンフードコートはまずしくないか

イオンのフードコートへ つきそうで でかけたら、
ちかくのテーブルに先週もみかけた 親子づれがいるのに気づいた。
女の子ふたりにお父さん・お母さんの4人だ。
おなじ時間に、おなじ場所にすわっている。
こっちだって、おなじ時間、おなじ場所なのだから
にたようなものだけど、
わたしはおでかけの支援として、
そのつど別のひとときている。

この家族は、毎週日曜日のブランチを(10時半なので)
イオンのフードコートときめているのか。
はじめにみたときは、家族でのスペシャルな食事にみえ、
たのしくやってねと、応援をおくっていたけど、
もしかして毎週、となると、印象がちがってくる。
いちどめにみたときは、お父さんが
むすめさんの のこしたラーメンをすすっていた。
にどめはそれぞれが自分の注文したものをたべている。
そんな、ごくふつうの風景が、
いっぺんにさえない日常にみえてきた。

そんなことは、わたしが文句をいう筋あいではない。
毎週のイオンフードコートが団らんの象徴であってもいいわけで、
子どもたちがおおきくなれば、家族がまとまりをもっていた
しあわせな時間だったとなつかしくおもいだすだろう。
わたしは、さえない日常こそが人生だと、ひごろはいってるくせに、
イオンフードコート的な場所を、
気のきかないまずしい選択としてきめつけてしまう。
わたしの発想こそが固定観念にしばられ、偏見にまみれている。
あの家族は、平凡な日常をしゅくしゅくとすごす達人にちがいない。

フードコートをみわたしてみると、
この家族だけでなく、おなじみとなった顔にいくつもであう。
あんがいおおくのひとが、毎週のイオンフードコートをたのしみに
たいくつな一週間をやりすごしているのかもしれない。
いまやイオンフードコートは、すぐれた大衆文化へとそだち、
きわめて日本的で クールな場所になっている。
自分たちの家族だけが ほかのひととちがうところへいくのではなく、
とりあえずたいていのものがそろうイオンへ だれもがなびく。
平和でいい光景なのかもしれない。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月21日

「世界入りにくい居酒屋」がとりあげたホイアンのお店

「世界入りにくい居酒屋」で
ベトナムのホイアンにあるお店がとりあげられた。
ホイアンへは、わたしもいったことがある。
ベトナムの中部にあるちいさな町だ。
ちかくには、ベトナム戦争のときに
米軍の基地があった都市として有名なダナンがある。
ホイアンは、1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されており、
それ以来おとずれるひとが10倍以上にふえたそうだ。

わたしがおとずれたのは2014年であり、
しずかな田舎町を想像していたけど、
観光客でいっぱいだった。
もうすこしはやくいっていれば、
むかしながらのしずかなホイアンをみられたのだろう。
有名な日本橋も、屋根つきの橋としてめずらしいけど、
いちどみれば、それでもうじゅうぶんだ。

ふつうの町は、旧市街が開発からとりのこされた
さみしい地域になり、
新市街にあたらしく活気のあるまちなみが発達する。
でも、ホイアンの場合は、旧市街に観光名所があつまっており、
ひとびとは、新市街にすみ、旧市街へかようかたちがおおいらしい。
番組がとりあげたお店は新市街にある。
新市街といっても、旧市街にくらべてあたらしいという意味で、
じゅうぶんごちゃごちゃしてるし、ふるめかしくもある。

そのお店に、毎晩たくさんのお客がやってくる。
番組が紹介するほかの「入りにくい」居酒屋は、
名物料理や郷土料理を大切にしているなど、
はっきりした特徴があるけど、
ホイアンのお店「MC」は、気のいいご夫婦がやっている、
ごくふつうの食堂だ。
きっと、ホイアンのひとには「ごくふつう」に意味があるのだろう。
年配のお客さんは、だれもがベトナム戦争の体験をかたっていた。
さいごに自分をうけいれてくれるのは、ふるさとしかないのだという。
わかいひとたちも、大都会のホーチミンではおちつけず、
けっきょくまたホイアンにかえってきた、といっていた。

以前はこの番組をみると、とりあげられたお店に
なんとかしていってみたいとおもっていたけど、
ホイアンのお店をみたら、そうでもないかと気がかわった。
お店に魅力がなかった、というのではなく、
わたしが旅行でたずねた町にも
「入りにくい居酒屋」があったことに満足したのだ。
いこうとおもえばいけたお店だとおもうと、
残念というよりも、だったら どこのお店でもいっしょかも、
という気がしてきた。
もし番組がわたしのすむ町の、どこかのお店をとりあげたら、
よろこんでかようようになるかというと、
きっとそうはならない。

番組がとりあげる店を、「いいな〜」と
かるくおもうだけでじゅうぶんなわけで、
なにがなんでも番組が紹介されたお店を
さがしだすのはヤボというものだ。
自分がなじんだ町の、ときどきおとずれる店こそが、
自分にとっての「入りにくい居酒屋」である。
青い鳥はすぐちかくにいるのだ。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

「夏でも野宿」のかとうちあきさんがすばらしい

かとうちあきさんが、
「夏はやっぱり野宿でしょ!」と、
上高地での一夜を紹介している。
https://www.bushikaku.net/article/36236
あつくてねぐるしいうえに、蚊になやまされる夏が、
「やっぱり野宿」に最適とはおもえないけど、
かとうさんにとったら、ほんとうに
いちねんじゅうが野宿の季節みたいだ。
・1月は正月で酒がのめるぞ・・・
・2月は節分で酒がのめるぞ・・・
と、なんだかんだいって 酒をのむ理由にする歌があったけど、
かとうさんは、いちねんを あの歌のように野宿しているのではないか。

それにしても、台風の影響で雨と風がつよく、
びしょびしょになっても なお
悪夢を見たり、びしょびしょになっても、やっぱり一晩夜を過ごすと楽しいし、ゆっくりできます。

というのだから、かとうさんが野宿にむける愛はどこまでもふかい。
わたしだったら、びしょびしょにならないように、
寝袋カバーを用意するだろうけど、
そうやってなんだかんだと準備するうちに、
どんどん自由がうしなわれていく。
かとうさんは、だれもがとびつきがちな便利さよりも、
なにもかまえない自由な精神がすきなのだろう。
いや、「自由な精神」なんて かまえてしまうのではなく、
かとうさんは、ただめんどくさくてやらない。
めんどくさいと、なにも準備しないででかけ、
その結果、自由な野宿に到達できる。
めんどくささは、あんがい自由な精神と
ふかい関係があるのではないか。

村上春樹の『騎士団長殺し』をよんでいたら、
「ここにあるものは、すべてがみたいなものなのです」
というセリフがでてきた。
大胆な仮説として、『騎士団長殺し』は、
ちまたでいわれている「もっともらしさ」への疑問が
おおきなテーマといえるかもしれない。
「もっともらし」くあるよりも、
しょせんすべては「みたいなもの」なのだ。
かとうさんは、いぜんから「のようなもの」として
すべての「らしいもの」のとりあつかいに慎重だ。
いまやっているお店も、
「お店のようなもの」がただしいお店の名前であり、
お店らしいお店を期待したらいけないよ、
とちゃんとおことわりしている。
野宿伝道師と、かるい肩書をなのっているけど、
かとうさんこそが、ほんものの伝道師であり、
『騎士団長殺し』の第三部には、「のようなもの」を自在にあつかう
かとうさん(のようなひと)がでてくるのでは。

posted by カルピス at 20:26 | Comment(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

宍道湖一周のサイクリングに失敗

きゅうにおもいたって宍道湖一周のサイクリングにでかける。
宍道湖を一周すれば およそ50キロ、
3時間あれば一周できる、手頃なコースにおもえた。
スイムランをめざし あついなか はしってきたので、
レースがおわると気がぬけて、はしりたいとおもわなくなった。
気分転換に、しばらく自転車にきりかえてみよう。

でも、出発して50分、15キロのところで前輪がパンクしてしまう。
修理道具はあるけど、空気いれがない。
お金を800円しかもっていなかったので、
自転車屋さんに修理をおねがいもできない。
けっきょく、きた道を、自転車をおしてあるいてもどる。

この自転車は、ほとんどのっていないのに、
これで3度めのパンクだ。
まえの2回は、家にとめておいただけでパンクしている。
わたしがのっている自転車は、シクロクロスといって、
「オフロードもはしれるロードバイク」のはずなのに、
のってもいないのにパンクするようではこまる。

自転車をおしてあるくのは、
だれもなにもいわないけれど、かなりなさけない姿だ。
コースが国道9号線ぞいだったこともあり、
わたしのわきを、ひっきりなしにスピードをあげた車がとおる。
サイクリングにでかけるときには、
パンク修理のセットと、お金もじゅうぶもっていたほうがいい。
パンクをなおす自信がなかったので、
運にまかせて空気いれをもっていかなかったのが失敗だった。

けっきょく14キロをあるいて家までかえったのだけど、
3時間あるくのは、けっこうたいへんだった。
わたしはちかい将来に、
スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラをめざして
巡礼の徒歩旅行を計画している。
いちにちに30キロはあるきたいところだけど、
14キロの2倍となる距離を まいにちあるくのは
おもいえがいていたような 牧歌的な旅ではないかもしれない。

自転車旅行もまた、わたしが老後の生活で
夢みている「あそび」なのだけど、
ほんとうにいきたいのなら、
パンクぐらいなおせるようにしておかなければ、
どこかでひどい目にあうだろう。

4時間の、おもわぬアクティビティとなり、
たった14キロあるいただけなのに、
からだもこころも、かなりおいつめられて家にたどりつく。
スイカとビールでいきかえったけど、
なれない土地で、おもったように お店や宿にたどりつけなかったとき、
わたしの巡礼は、かなり余裕のない旅になりそうだ。
いちにちの移動距離を、かなりみじかめにコースをとって、
あるくのがたのしい範囲におさめたほうがよさそうだ。

posted by カルピス at 17:43 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

ネットでみたこのごろお気にいりの表現

佐々木正悟さんがシゴタノ!に、
つくづく思ったのですが、「やる気というものは、つまり、出そうと思った段階ですでに何かが間違っている」

https://cyblog.jp/28923
とかいている。
「どうすればやる気を出せる?」とい状態におちいるのが
そもそもまちがっているらしい。
こういうの、だいすきだ。
「〜しよと思った段階ですでに何かが間違っている」
は、いろいろ応用がききそうではないか。
たとえば、
「マラソンは、はしろうとおもった段階ですでに何か間違っている」なんていうと、
ついに最上級のさとりをひらいたようにみえる。
「ダイエットは、やせようとおもった段階で、
 すでに何か間違っている」も、
なにかものすごくふかい真理をあらわしていそうだ。
いわれたほうがかってにふかよみしてしまう。
本のタイトルにつけたら、それだけでうりあげがのびるのでは。

世のなかでいわれていることは、かなりまえからの常識であり、
いまとなっては たいていまちがっている。
なにかもっともらしいことをするまえに、
ひとまず「すでにまちがっているかも」と
うたがってみたほうがよさそうだ。

このごろのお気にいりとして、もうひとつ
「〜すぎない」がある。
新聞かなにかに、
「美人すぎない市議会議員」とあった。
よく美人すぎる◯◯、と話題になるけど、
「美人すぎない」は正直で、好感のもてる表現だ。

「〜すぎる」、は「すぎる」ほどすばらしいと、
強調したいのはわかるけど、
いまや、あまりにも手垢がつきすぎた。
それとくらべれば、
「〜すぎない」は、謙虚であるとともに、事実をあらわしている。
なにしろ「すぎない」のだから、
ようするに、「ふつう」なのであり、
安定したこころもちと 地味なひととなりをかんじる。
ひかえめであるとともに、ふつうである状況を適切にあらわしている。
美人すぎる市議会議員より、美人すぎない市議会議員のほうが、
よほど仕事ができそうだし、気らくにはなせそうで、わたしはすきだ。

posted by カルピス at 20:19 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

嬬恋村で大根ぬきのアルバイトをしていたころ

近所のスーパーへかいものにいくと、
「嬬恋村」とかかれたダンボールに レタスがいれられていた。
なんとなく店内をみていただけなのに、
「嬬恋村」の文字が、わたしの目にとびこんできた。

20代のまんなかへんのころ、
群馬県の嬬恋村で大根ぬきのアルバイトをしたことがある。
「アルバイトニュース」で求人情報をさがし、
嬬恋村の農家に連絡すると、
すぐにはたらかせてもらえることになった。
嬬恋村までは、東京からのトラックに便乗させてもらう。
東京を夜でると、朝には嬬恋村につく。
ひと夏を、その嬬恋村ですごした。

嬬恋村は、一面がレタスとキャベツの畑だ。
大根畑なんてまったく目にはいらない。
わたしとしては、大根でもキャベツでも なんでもよかったけど、
じっさいに仕事をはじめてみると、大根がいちばんらくそうだった。
レタス畑では、朝はやくから、必死の収穫が延々とつづいている。
すこしぐらい雨がふっても仕事をやすまないし、
夕方にはトラクターのライトをつけてまで はたらいている。
収穫は、人間がひとつずつレタスをきりとるしか方法がない。
商品価値があるうちに、ひとつでもおおく収穫しようという
農家の方々の執念がつたわってくる。
おしゃべをしながら、和気あいあいに、という農作業ではなく、
一刻もムダにせずに、すこしでもおおくのレタスを、
という気迫にあふれた労働だ。
あまりにもずっとレタスにかかりきりなので、
人間というより、レタスとりのロボットにおもえてくる。

大根は、そんなおそろしい世界ではなく、
アルバイトのわかものだけが5人ほどでチームをくみ、
とまりこみで仕事にあたった。
朝ごはんと昼ごはんは、農家の方がつくってくれ、
夕ごはんはたのんである食堂へたべにいく。
午後の仕事がすむと、まいにちかならず温泉へでかけた。
農家が温泉旅館と契約してくれており、
ほとんどの場合だれもお客のいない大浴場につかる。

ちからと体力のいる仕事であり、そうらくではなかったはずだけど、
まだわかく、エネルギーにあふれていたわたしは、
仕事がおわっても、ジョギングや筋トレをする余裕があった。
高原の朝夕はすずしく、真夏でもふとんがいるほどひえこむ。
なにしろ避暑地ですごしているようなものなのだ。
適度な労働と、気のあった仲間をえて、たのしい日々をすごした。

やすみの日には、大根ぬきの仲間と、
ちかくの町まであそびにでかけた。
浅間山・軽井沢・小諸など、どこも有名な観光地だ。
大根ぬきのアルバイトをしてなければ、
きっとわたしは一生いくことのなかった場所だろう。
まだわかかったわたしは、将来の心配などぜんぜんしないで、
ひと夏のアルバイトにいそしんだ。

いまでも大根ぬきやレタスの求人が
アルバイトニュースにでているだろうか。
ロボットがいかに発達しても、畑にでてレタスを収穫するのは、
かなりむつかしい仕事におもえる。
スーパーでみかけたレタスは、農家のひとが収穫したものだろうか。
アルバイトニュースをみたわかものが とりこんだのか。
あんがいもうじきしたら、わたし自身が、
またどこかの高原で 野菜の収穫にたずさわっているかもしれない。
わかいころの経験をいかしてがんばろう。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

『騎士団長殺し』と散歩にひたった夏やすみ

お盆やすみ、つまり会社づとめの人間にとっての
実質的な夏やすみがきのうでおわった。
8月11日から15日まで、5日間をぜんぶ自分のためにつかえたので、
客観的にいえばわるくはないかもしれないけど、
このていどでよろこんではならない、ともおもう。

たった5日間とはいえ、ぜんぶ自由にしていいよ、といわれると、
あんがいリズムがつくりにくいものだ。
ことしは
・リハビリみたいなトレーニング
・散歩
・読書
の3つが、ぴったりはまる休暇となった。
リハビリみたいな、というのは、
ことしいちばんの目玉であるスイムランをおえ、
身体的にも精神的にも一段落ついた。
いわばオフの時期として、まったくからだをやすめるのではなく、
負担のない範囲で すこしからだをうごかし、
しかるべき再スタートにつなげるすごしかただ。
具体的にいえば、プールで1500メートルをゆっくりおよいだり、
ひさしぶりに体幹トレーニングにとりくんだり。

散歩は、いつもいくスーパーへ、たまたまあるいていったら、
あんがい気もちよくて、もっとつづけてあるきたくなった。
つぎの日から とおまわりのコースをえらび、
1時間半から2時間あるいている。
ふだんから これぐらいの時間をはしることはあっても、
散歩としてはめずらしい体験となる。
はやあるきしていると、だんだんリズムよく足がうごくようになる。
老後の生活をさきどりしたような ながい距離の散歩だ。

読書は『ロング・グッドバイ』(レイモンド=チャンドラー)と、
いまさらながらの『騎士団長殺し』(村上春樹)にとりくむ。
夏やすみのメインイベントとして、この時期の「騎士団長」を
まえからねらっていた。
第一部と第二部、それと、『みみずくは黄昏に飛びたつ』
(村上春樹・川上未映子)もいっしょにかいこみ、
いまは第一部がおわったところ。
期待していたとおりおもしろい。
かきたいことを、かきたいように表現できる
村上さんのテクニックがすばらしい。
村上さんは自由自在にことばをあやつり、
おもうぞんぶんものがたりをうごかしている。

意外だったのは、「騎士団長」の奥付をみると、
発行された日づけが2月25日になっていたこと。
増版をなんどもくりかえしているとおもっていたのに、
発売されてから半年後にかった本が、
まだ初版なのは、あまりうれていない、ということだろう。
わたしみたいな、いまさらながらの読者がいうのもなんだけど、
これだけすぐれた本が、なぜもっと評判にならないのか不思議だ。
それとも、おまつりにうかれた新潮社が、
ありえないほどの数をはじめに印刷したのだろうか。

たのしい5日間のあと、きょうの出勤は心理的にかなりおもたかった。
バカンスをここちよくすごすリズムができたところで
また仕事がはじまるのはいつものお約束だ。

posted by カルピス at 19:09 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする