2017年04月26日

どこまでもつづく乾燥地帯の大平原に 胸をあつくする

『梅棹忠夫著作集 第4巻』におさめられている
「トルキスタンの旅」をよんでいたら、
『モゴール族探検記』にあたる部分をおえたあと、
カーブルへかえるまでの旅行がしるされていた。
土地はしだいに平坦になり、中央アジアの大平原の様相を呈してくる。まったいらな地平線があらわれてくる。(中略)わたしは、十数年ぶりに、びょうびょうたるアジア大陸の地平線をたのしむ。あの地平線は、そのままモンゴリアまでつらなっている。あのラクダのふみあとがそのまま北京までつづいている。(梅棹忠夫著作集 第4巻P268)

梅棹さんは、アジア大陸の内部につらなるこの大平原をみて、
『文明の生態史観』の着想をえている。
東北アジアから、西南アジアのアラビアまで、ユーラシア大陸を斜めに横断して走る大乾燥地帯がある。それは、際限もなくひろがる砂漠と草原の世界であり、それをつらぬいて点々と連なるオアシスの世界である。その大乾燥地帯の一角にとりつけば、あとは一しゃ千里である。三蔵法師もマルコ・ポーロも、みんなこの大乾燥地帯を利用して旅行したのであった。(『モゴール族探検記』P8)

わたしはまえにモロッコを旅行したとき、
この大乾燥地帯のはしっこをみたようにおもった。
マラケシュからアトラス山脈をこえると
それまで緑のおおかった植生にかわり、乾燥した土地があらわれる。
アトラス山脈にそって車が東へはしると、
右手には延々と大平原がひろがっている。
『文明の生態史観』をよんでいたわたしは、
この大平原がずっと東のはて、モンゴルまでつづいているのだと、
ひそかに興奮したものだ。
目のまえにあらわれた大平原をみて、
梅棹さんのいう「一しゃ千里」の意味がよくわかった。
機動力のある騎馬隊がこの一角にとりつけば、
なにもさえぎるものがないので、かんたんに距離をかせぐだろう。
乾燥地帯は悪魔の巣だ。(中略)昔から、何べんでも、ものすごく無茶苦茶な連中が、この乾燥した地帯の中からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。そのあと、文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃をうける。『文明の生態史観』(中公文庫P102)

夜ねむむるまえ、
お酒をすすりながらの読書にぴったりなのが探検記だ。
よいがまわるにつれ、こまかな描写には頭がついていかないので、
たいていは、いちどよんだ本をひっぱりだす。
このごろわたしがよくひらくのは、
冒頭にもかいた『梅棹忠夫著作集 第4巻』で、
この巻は「中洋の国ぐに」として『モゴール族探検記』など、
「中洋」を舞台にしたはなしがおさめられている。
わたしがすきな「カイバル峠からカルカッタまで」もこの巻にあり、
よいにまかせて適当にページをひらく。
梅棹さんは、このときの旅行で、
タイプライターをたたきながら、まどのそとにひろがる
風景を記録している。
みじかくきられたリズム感のある文章に、
まるで自分もいっしょに旅行している気がしてくる。
たとえば出発のようす。
 4時30分。用意はできた。江商バンガローの人たちは、懐中電灯をもって、門まで見おくってくれる。わたしは、みんなにさようならをいう。わたしたちは、車にのりこむ。シュルマン博士は、エンジンをかけ、ハンドブレーキをはずす。わたしは、ながいあいだ行動をともにしてきた友人、山崎さんに、最後のごきげんようをいう。そして、出発する。(梅棹忠夫著作集 第4巻P282)

梅棹さんのここちよい文体にひたり、
つい寝酒がすぎてしまいがちだ。

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2017年04月25日

このさき のこされた初体験はどれだけあるか

椎名誠さんがなにかのエッセイで
70歳になったいま、一生 体験しそうにないことが
たくさんのこっているのに気づいた、とかいていた。
人妻とややこしい関係になったり、
なにかをはじめて体験する可能性は、
これからさき きわめてひくい、というはなしだ。
椎名さんが達観をかたりたかったのか、
ジタバタしたいのかは、わすれてしまった。
人妻うんぬんは、椎名さんがたしかに具体的な例としてあげていた。
しっかり記憶にのこっているあたり、
わたしにもおなじような願望があるのかもしれない。

「一生 体験しそうにない」は、
わたしもこのごろ よくあたまをかすめる。
わかいころは、その気になれば
すべてが実現可能だと のんきにかまえていたけど、
55歳となれば、のこされた時間・体力からいって、
初体験は あまりおとずれないだろう。
だからといって、やたらと「はじめて」にこだわるのもへんだ。
中年になってから やりのこしがないように気をつけても もうおそく、
わかいころのすごし方で 勝負はすでについている。
といって、つよい後悔になやむわけではなく、
たいした人生ではなかったけど、それなりにおもしろかったと、
しめくくりをまえに、ぼんやりと総括しているかんじだ。
歳をとると、あんがいかんたんにあきらめがつく。

とはいえ、かんたんに体験できる「はじめて」は、
いまのうちに できるだけあじわっておきたい。
のんだことのないお酒、シングルモルトやテキーラをかったり、
ガールズバンドについていこうとするのは、
さいごをむかえようとするときに、
生物的な本能がはたらくのだろうか。
そんなこといったって、お金もちではないのだから、
ほしいものをぜんぶお金で解決するわけにはいかないけど、
基本的な方針として、体験できるのは いましかないと
自分にいいきかせている。

これからやりたいことを具体的にあげたら、
ずいぶんながいリストになるかとおもっていたのに、
いまのところ
・サンティアゴ巡礼
・スーパーカブでの旅行
のふたつしかおもいつかない。
アジアへの旅行はいつでもいけるので、
リストにあげるまでもないだろう。
ずいぶんささやかな終活になりそうだ。
いまの小市民的日常生活に
わたしはたいして不満をもたず、
あんがいしあわせにくらしているのだろう。
あやしい人妻とのややこしい関係は、
まだ可能性があるような気がする。

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2017年04月24日

津村記久子さんの『ディス・イズ・ザ・デイ』から、「窮屈なところ」にいる自分をしる

朝日新聞の日曜日に連載されている
津村記久子さんの『ディス・イズ・ザ・デイ』第3話がよかった。
これまでとおなじように、Jリーグの、
ただし2部や3部にぞくするするチームのはなしだ。
バイトさきがいっしょだけど、
ほとんどはなしをしたことがない学生の松下と、
貴志はスタジアムでたまたまいっしょになる。
松下は、出身地のチームである
ネプタドーレ弘前を応援しにきていた。
サッカーのサポーターというと、
あついおもいを自分のチームにかたむけるとともに、
サッカーについてもルールや戦術にくわしそうだ。
でも、松下は おどろくほどなにもしらなかった。
「アディショナルタイム」や「PK」がわかってないし、
自分が応援するチームの順位さえしらない。

「三鷹は17位だよ。強くないよ」
「へー。もっと上かと思ってた」
 こいつ順位表見てないのか、という驚きと、それでも弘前のアウェイの試合の行けるところには行っている、という事実の落差に、貴志は、自分はなんだか窮屈なところにいたのではないか、という疑いが胸を衝くのを感じた。

「降格?やばかったってこと?」
「そうだよ。よそのチームの結果にもよるけど、負けたら21位で入れ替え戦に回るか、22位で自動降格のどっちかだった」
 そんなことも知らないでこいつは試合を見ていたのか、と貴志は少し呆れるのだが、それ以上に驚く。そんなことを知らなくても、好きなチームの応援はできるのだということに。

 席を外していた松下は、熱燗を買ってきて、おでんをあてに呑んでいた。その様子があまりにも幸せそうで、外でめし食うのはうまいよな、とつい貴志が言うと、松下は、うんうんと何回も大きくうなずいて、おれ大根好きじゃないから食うか?と訊いてきた。

わたしもサッカーがすきで、Jリーグや代表戦をよくみるし、
本棚には何段もサッカー関係の本がならんでいる。
だれにいわれたわけではなく、
すきだから試合をみるし、サッカーについてしりたくて
有名なチームや戦術についての本をもとめた。
サッカーファンならあたりまえだとおもったし、
オフサイドのルールや、リーグ戦のとりきめを理解していなければ
サッカーをしらないひとときめつけていた。

「しらないこと」と「サッカーをたのしむこと」は、
まったく関係ないと 松下におしえられる。
わたしも貴志とおなじで「窮屈なところにい」るのではないか。
サッカーをみはじめたころのわたしは、
松下みたいに なにもしらなかったけど、
サッカーのおもしろさに胸をおどらせていた。
なにもしらなかったわたしのようなファンでも、
おおきなよろこびにひたらせる魅力がサッカーにはある。

試合がおわり、貴志は松下といっしょにスタジアムをでて駅へむかう。
 松下の話にうなずきながら、自分は何かを自分自身から取り返したのだということを貴志は知った。(中略)次の春が待ち遠しかった。

貴志がなにかをとりかえせたのは 松下のおかげだ。
なにもしらないにひとしい松下が、
サッカーをこころからたのしんでいるのをみて
(だから松下は「あまりにも幸せそう」におでんをたべる)、
地元チームの三鷹ロドリゲスに素直な気もちでむきあえるようになる。
いいやつだなー、松下。
それに気づいた貴志もなかなかだ。

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2017年04月23日

メイキング=オブ『ブルース・ブラザーズ』

録画でみた『ブルース・ブラザーズ』は劇場版であり、
いくつかのシーンがカットされていた。
DVDにはオリジナルフィルムのほうがおさめられているので、
手もとにおいておきたくなり、アマゾンに注文する。
いくらいい作品でも、DVDをかう気になるなんて、
わたしにしてはきわめてめずらしい(3作目)。
それほどこの作品はわたしの琴線にふれた。

DVDには48分のメイキング=オブ『ブルース・ブラザーズ』
がついていたので さっそくみてみる。
DVD作品によくある2次的な情報であり
(メニューに「ボーナス資料」とかいてある)、
関係者へのインタビューからなっている。
ジョン=ベルーシはすでになくなっているので、
ダン=エイクロイドと監督のジョン=ランディスを中心に、
出演したミュージシャンや作品のスタッフが
当時をふりかえっている。

自分たちが関係した作品は、だれにとっても特別なものだろう。
どんな作品にもそれなりの苦労はあるだろうし、
自分たちがどんなおもいをその作品にぶつけたのかをかたりたい。
でも作品は、あくまでもその本編によって評価されるべき、
というのがわたしの基本的なかんがえだけど、
すきな作品となると、またはなしがちがってくる。
どんな情報でもしりたい。
もっとも、たいていのはなしは
ウィキペディアですでに紹介されている。

インタビューをうけているミュージシャンの
スティーブ=クロッパーとドナルド=ダック=ダンは、
清志郎が以前いっしょにうたっていたひとだ。
ブルースとメンフィス、それに清志郎がつながっていたのがうれしい。

ランディス監督は、1980年だからつくれた作品であり、
いまでは金がかかりすぎると、くりかえし強調していた。
映画のなかでいい曲をつかえば、
当時とはくらべものにならないほど たかくつく。
シカゴ市内であんなカーチェイスの撮影は、
とても市が協力してくれない。
実力のあるミュージシャンの参加にくわえ、
いくつかの偶然と幸運のおかげで
『ブルース・ブラザーズ』はできあがった。

それにしても、税務署のビルにつっこむラストはみごたえがある。
川からは警備艇、空からはヘリコプター、
地上では騎馬隊に特殊部隊、さらに装甲車と戦車までが
ふたりをマジでおいまわす。
あれだけ世間をさわがしたら、
18年の懲役をいいわたされても文句はいえない。

レイ=チャールズの楽器店で、
エルウッドがトースターに目をとめるのがすごくおかしい。
「ん?なんでこんなところにトースターが?」
と、気になったエルウッドは
白いパンを上着の内ポケットからとりだし、
そっとのっけてみる。
この場面には伏線があって、エルウッドは自分のアパートで
ハンガーみたいな形の針金にパンをのせてやいている。
エルウッドにとって白パンは、
そうやってやくのがあたりまえなのに、
楽器店には ほんもののトースターがあったので、
ついためさずにはおれなかった。
本筋からはなれて 脇のものに関心をむけがちな
エルウッドのかるさとこだわりがうかがえるし、
この作品の雰囲気をあらわしていて、わたしのすきな場面だ。

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2017年04月22日

江戸時代をいまの子どもたちはどうイメージするのか

朝日新聞の土曜日版に、
「時代劇は好きですか?」
の記事がのった。
それによると、約6割のひとが「すき」とこたえ、
いちばん人気は「鬼平犯科帳」で、
「大岡越前」「水戸黄門」とつづく。
2011年に「水戸黄門」がおわってから
時代劇の放送はなくなっている。
今年の秋から、武田鉄矢氏を主演に再開する「水戸黄門」は、
6年ぶりの時代劇となる。

わたしが小学生のころ、家族で「水戸黄門」や「大岡越前」、
それに「銭形平次」をみるのが習慣となっており、
マンネリともおもわずに けっこうたのしんでいた。
いまおもえば、わたしが江戸時代にイメージする風景は、
時代劇がベースになっている。
悪代官がいて、越後屋とつるむ ありがちなストーリーや、
お奉行や家老などの役職を、時代劇にまなんだ。
かならずしも事実をつたえているわけではないかもしれないけど、
わたしは時代小説がにがてなので、
江戸時代の情報は、ほとんどテレビからのみもたらされている。
弥生時代や平安時代をリアルにイメージできないのは、
テレビでみたことがないからではないか。

「水戸黄門」で、米俵のうえに腰をおろした黄門さまが、
お百姓さんにしかられる場面をみると、
苦労してつくったお米にのっかったりしてはいけないとまなんだし、
ながい道のりを黄門さまご一行があるいていくと、
ところどころに茶店があって、
みたらし団子がおいしい、とかの風景があたまにうかんでくる。
わたしが江戸時代についてしっている情報のおおくは、
時代劇によってもたらされている。
テレビで時代劇をやらなくなってから、
子どもたちはどうやって江戸時代をイメージしているのだろう。
そもそも子どもはテレビをみなくなっているらしく、
「水戸黄門」が再開しても、
子どもたちへあたえる影響としては
あまり期待できない。
まったくみたことがない時代を、
子どもたちは教科書だけでどうくみたてるのか。
時代劇がはたしていた役わりは、あんがい重要だったのでは。

朝日新聞の記事には、
だれも見たことのない世界を再現する時代劇は、極論すれば、なんでもありのファンタジー

というペリー荻野さんのことばを紹介している。
もっともらしいはなし方や、
庶民のくらしぶりなど、
ほんまかいなと、うそくささをかんじていたけれど、
「なんでもありのファンタジー」なら それもわかる。
すこしまえに映画館でみた
『十三人の刺客』(三池崇史:監督・2010年)は、
1963年につくられた同名の作品をリメイクしたものだった。
かなり大胆につくりかえたといい、
いまどきの時代劇としてたのしめる作品となっている。
わたしはおもしろければそれでよく、
あたらしい時代劇として好感がもてた。

秋からはじまる「水戸黄門」では、
革新的な解釈がもちこまれ、
だれもみたことのない黄門さまとなればおもしろい。
「なんでもありのファンタジー」なのだから、
史実がどうのこうのは関係ない。
これまでの「水戸黄門」シリーズをひっくりかえし、
あたらしい黄門さまをみせてほしい。

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2017年04月21日

田んぼでは、レンゲが花をさかす

ひさしぶりに畑と田んぼへでかける。
畑では、キャベツの苗が草にうもれていたので、
まわりの草をかりとる。
べつのウネでは エンドウのツルがのびていたので、
そこらへんにあった木の枝をさして支柱にする。
さいごに、あまり草がはえてないウネに、落花生の種をうえる。
ほんの10粒しかはいっていないのに、200円もするたかい種だ。
40分ほどで
・草とり
・支柱たて
・種まき
と、3つの用事がおわり、
なんだかすごく仕事がはかどった気になる。
すべては自然農法のおかげだ。
苗が草にまけない程度 ちょこちょこっと、
草をかりとればいいし、
種まきも、土をたがやさず、
移植ゴテで穴をあけるだけだから かんたんだ。
肥料もつかわないので、種をうえたらそれでおわり。
もっとも、うまくいかないときのほうがおおい。
そだちにくい野菜は ほとんど収穫がゼロだったりする。

おなじ区画で野菜をつくっているおばあさんが
わたしにはなしかけてきた。
「なにをうえなさる?」
「あんたはすごいやり方をするね」
ろくに手をくわえないで野菜をつくろうとするのを、
このおばあさんは「すごいやり方」と もちあげてくれる。
そんなので うまくいくわけない、ときめつけず、
すきにやらせてくれるのがありがたい。
もっとも、ほんとに「すごい」とおもっているわけではなく、
わたしが「ぜんぜん苗がおおきくなりません」というと、
「これからおおきくなるわね。
 肥料をやればおおきくなる」
といいながら 自分の畑へもどられた。
レンゲ.jpg
そのあと田んぼをみてまわる。
秋にまいたレンゲが花をさかせている。
福岡正信さんの自然農法では、
レンゲが雑草をおさえてくれる(はず)。
まだ春があさく、草のいきおいはそれほどでもない。
やわらかく下草がはえた状態の田んぼは、
雑草がたけだけしくそだつ夏の風景とは べつの顔だ。
連休に種まきをする予定。
レンゲのなかで、たくさんの苗がそだってくれたらいいけど。

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2017年04月20日

しりあいの女性がスパイラルパーマに

ひさしぶりにであったしりあいの女性が
レゲエのひとみたいな髪型にしていた。
スパイラルパーマというそうだ。
わたしの目には、アフロがほどけてきた段階にみえる。
彼女は集団のはじっこで しずかにほほえんでるタイプの女性だけど、
今回の髪型はずいぶん大胆なイメチェンにおもえた。
CDのジャケットにのった レディ=キムの髪型をみたとたん、
スパイラルパーマをかけたくなったのだそうだ。
自分をみうしないたくないから その髪型をえらんだという。

わたしはヘアスタイルをおおきくかえた体験がない。
水泳部だったので、いちどすごくみじかくしたくらいだ。
髪型によって自分をみうしなわないのは可能だろうか。
スパイラルパーマやアフロにすれば、
自分の内面に はたらきかけるかどうかはともかく、
自分をとりまくひとたちへ、覚悟や意志の表明にはなりそうだ。

元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんが、
アフロにしたとたん ものすごくモテはじめた、
と記事にかいておられる。
スパイラルパーマをえらんだしりあいに
モテるようになったか たずねたら、
「ぜんぜん」なのだそうだ。
まるい顔の稲垣さんだから、アフロにしたら
したしみやすくみえたのかもしれない。
わたしのしりあいは わりあい美形なので、
きれいなひとが 奇抜な髪型をすると、
よほどの人物かとおもわれて敬遠されるのではないか。
わたしには、ろくでもない男がよってこないように
虫よけとしてえらんだ髪型におもえた。

髪型つながりで、むりやり旅行のはなし。
タイをまわっているとき、ボブ・マーリーみたいなひとにであった。
ほそくて 髪がながくて、まだわかそうなのに、仙人みたいな風格だ。
ドレッド・ヘアだったかどうかはおぼえていない。
バンコクからバスで4時間ほどの近場にある
サメット島へわたる船でいっしょになった。
船をあやつる手つだいをしてるので、
わたしはてっきり船の関係者かとおもっていたら、
ひとりの旅行者であり、ただ気をきかせて手つだっていたのだった。
わたしはなぜかそのときイラついていて、
つまらぬことに いちいち腹をたてるなさけない旅行者だった。
おそらくひどい表情で いやな汁をたらしていたとおもう。
浜でその旅行者といっしょになり、すこしはなしをする。
わたしがたった1日で島をはなれるとしったそのひとは、
かわいそうに、という目つきで、
なぜそんなにいそぐのかをたずねてきた。
わたしがそのとき なににイライラし、
どうこたえたか おぼえていないけど、
旅行をたのしめず、とんがっている自分がなさけなくなった。
島にはなんでもある、と
いごこちよさそうにすごすボブ・マーリーみたいな旅行者にひきかえ、
島になじめず、たった1日でバンコクへもどろうとするわたし。
がっかりしながらも わたしは予定をかえずバンコクへもどった。
意地のはりどころをかんちがいしている おろかなわかものだった。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

『バー・リバーサイド』(吉村喜彦)〜食と音楽を巡る地球の旅〜の雰囲気をもとめて

『バー・リバーサイド』(吉村喜彦・ハルキ文庫)

吉村喜彦さんが担当していたラジオ番組
「音楽遊覧飛行〜食と音楽を巡る地球の旅〜」
の雰囲気にふれられればとよんでみる。
東京の多摩川ぞいにあるバー「リバーサイド」を舞台に、
人物と酒をえがいた短篇集で、
いちばんさいごの5話では、登場人物が全員あつまって、
ある老人のはなしに耳をかたむける。

「老師」と 仲間からしたわれているこの老人は、
妻をなくしたかなしみから、
かつてふたりで旅をした外国の町をたずねる。
妻は、すきだったツバメにすがたをかえ、
老人をキューバのサンルイスにみちびいたという。
ラム酒のよいに身をまかせるうちに、老人は自分もツバメとなって、
妻といっしょに川のうえをとびまわる体験をする。

この5話が、「食と音楽を巡る地球の旅」の雰囲気にいちばんちかい。
しらない町の風景や、土地の酒をおもいえがかせてくれる。
ラム酒がサトウキビからつくられていること、
おおくのカクテルのベースとしてつかわれていることを、
わたしはしらなかった。
酒がでてくる小説のこまるのは、ついのみすぎてしまうことで、
禁じている2杯めのロック(芋焼酎)を、
しかもついおおめにつくってしまった。

率直にいって、5つのはなしとも、
小説としてとくにすぐれているとはおもわないけど、
ところどころにでてくる 酒のはなしがアクセントとなり、
スラスラよみすすめられる。
わたしにはなじみのバーがなく、
ねるまえにチビチビと酒をすする程度だけど、
「リバーサイド」のような本格的なバーが身ぢかにあって、
したしみやすい雰囲気のなか、
ほんもののカクテルをのませてくれたら、
日常をささえてくれる ささやかなしあわせとなりそうだ。

posted by カルピス at 08:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

『ブルース・ブラザーズ 2000』教訓にみちた壮大な失敗作

『ブルース・ブラザーズ 2000』
(ジョン=ランディス:監督・1998年・アメリカ)

『ブルース・ブラザーズ』の続編として
1998年に公開されている。
前作がすばらしければ、そのつづきをみたくなるのがファンの心理だ。
お手がるなヒットをみこんで おおくの続編がつくられる。
『ゴッドファーザー』や『エイリアン』など、
パート2にも、すぐれた作品はおおく、
ファンとしては ますます手をだしたくなる。
ただ、ずっこけてしまう作品もまたおおく、
『ロッキー』や『ジョーズ』のように、
がっかりさせられる続編は、ひとつのジャンルとなっている。

残念ながら、『ブルース・ブラザーズ 2000』は
さえない続編の典型だった。
すこしものたりないのではなく、徹頭徹尾、さえない。
おなじ監督がつくっているのに、
前作のよさを ひきついでいないのは、
どんな問題があったのだろう。
作品をけなすよりも、あまりのひどさに
かえってかんがえさせられる。
かなりたかいレベルの失敗作であり、
ここまでくるとまなぶ点がおおい。
以下、ネタバレあり。

「あれから18年」とオープニングでしめされ、
刑期をおえたエルウッドが、
刑務所からでてくる場面からはじまる。
18年分の脂肪により、デブとまではいえないものの、
エルウッドは全体に肉がつき、うごきがおもい。
18年たっているのに、18年まえを ふたたびめざしたのが
この作品のそもそもの失敗だった。
18年まえとおなじように、バンドを再結成しようと
エルウッドはむかしの仲間をたずねる。
18年まえとおなじような車をもとめ、
18年まえとおなじようにうたっておどろうとする。
でも、だめだった。
18年もたっているからだ。
前作のストーリーをなぞるだけなので、
かんじるのは なつかしさよりも、 腐敗臭だ。

わたしもまた、わかいころとおなじやり方をくりかえしがちだ。
体型を維持したいのはあたりまえとしても、
むかしとおなじように からだがうごいて当然とおもいこむ。
旅行にでかけても、わかいときの旅行とおなじスタイルをもちこみ、
なんとなく しっくりこないのに気づく。
からだや 家族構成など、状況は以前とことなっており、
おなじやり方をくりかしても、おなじ満足にはつながらない。

かつてうまくいった体験を、もういちどくりかえそうとする。
そのほうが 楽だからだろう。
むかしといっしょ、よりも、
なにかこれまでとはちがうやり方をとりいれるほうが、
とりくみ全体に健全な空気をもたらす。
うまくいかせようとするよりも、
あたらしい体験こそをもとめたほうがいい。

それにしても、ひとをあやめたわけではないのに、
18年は刑期としてかなりながい。
30歳のときに 懲役をスタートさせたら、18年後は48歳。
ふつうだったら はたらきざかりの期間を、
エルウッドはずっと刑務所ですごしており、
48歳になってシャバにでられても、
浦島太郎状態で、なかなか社会に適応できそうにない。
エルウッドが なんの違和感もかんじずに、
すぐにバンドを再結成しようとするのは
映画のなかでしか ありえない。
そんなエルウッドに、まわりのひとたちまで
かきまわされてしまった。
歳をとるにつれ、ふけこむのはしかたないとしても、
おろかに歳をかさね、わかいころの記憶にしがみつかないよう、
この作品の警告に耳をかたむけたい。

posted by カルピス at 21:32 | Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

予告編だけでじゅうぶんおそろしい老化

55歳のいま、もうこのさきはそんなにながくないと
なにかにつけて かんじるようになった。
中年となり、健康に自信をもてなくなったのがおおきい。
すこし調子をくずしただけで、
死ぬときはあんがいこんなふうに
おもってもいなかった角度から悪魔のつかいがやってきて、
かんたんにズルズルとむこうの世界へおちていくのだと
「おわり」をリアルにイメージできる。
あるいは、きゅうにアクシデントがおとずれたら
(ころぶとか脳梗塞とか心臓発作とか)、
もう家にかえってこれないんだ、みたいなことが
ふと頭にうかんでくる。
わかいころは、そんなことかんがえもしなかった。

職場の上司とはなしていたら、
なんだかこのごろうごきがおぼつかなくなった、といわれる。
わかいひとがいるまえでは 話題にあげにくくても、
55歳のわたしが相手だと 老化をはなしやすいらしく、
よくふたりで おたがいの変化を報告しあう。
上司によると、4月になってから自転車でころんだり、
家でもなにかにつまずきやすいそうだ。
おたがいに、記憶力のおとろえも よく話題にするけど、
からだのふらつきもまた、ひとごとではないリアルさがある。
60歳の上司は、わたしより5年はやく 老化を体験しているわけで、
55歳のいまでさえ、もうじゅうぶん
おそろしい予告編をみせられている気がするのに、
これからさらに 老化の本編がまっているのかとおもうと
ほんとうにおそろしい。
老人になるのはだれもがはじめてだから、
もっといたわってね、みたいなはなしをきいたことがある。
たしかに、老化について知識や覚悟をもっているつもりだったけど、
自分が老人の側にちかづくと、はなしはきわめて具体的になる。
いつかむかえる「老い」は、だれにとってもはじめての体験なので、
わからないことがおおい。
こんなはずではなかった、がわたしの実感だ。

歳をとって いいことのひとつは、なにかに失敗しても、
まあ そんなにさきはながくないからと、
深刻にうけとめず、かるくながせるようになった。
こんな失敗は、このさきそんなにやってこないだろうし、
やってきたところで 浮世はそうながくつづかないのだから、
生きてるあいだだけの 些細なできごとにすぎない。

もしわたしがながいきしたら、
自分のしりあいたちは、 どんな「おわり」をむかえたかをしりたい。
げんきだったあのひとが、オムツをつけるようになった、とか、
まさかあのひとがボケるとは、なんて
自分の心配は棚にあげといて、ひとのおわり方に興味がある。
ひとりでいきていたあのひとが、
理想的なさいごをむかえたり、
にぎやかに大家族でくらしていたあいつが、
さみしいおわりをむかえたりして。

わたしの「おわり」は?
愛するひとに手をにぎってもらいながら
むこうの世界へいきたいとねがう。
だれもそうしてくれるひとがいなければ、
ふかい森にはいり、うつろうつろしながら
さいごのひとときをむかえたい。

posted by カルピス at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする